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化生の群編
雛祈の選択
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雛祈が作った簡易結界の中で、結城は目と首だけを動かして状況を把握しようとしていた。
相変わらず体はガタガタだった。無理をすれば動かせないこともないが、油が切れた機械のように鈍く、カクカクとした動作が関の山だろう。
今の結城が自由にできるのは目と首ぐらいのものだった。
状況を見るに、悪路王はもう形振り構わず瘴気を放ったようだ。
雛祈が結界か何かで瘴気を防いでくれているが、素人の結城であっても、このまま結界の中に篭城しているのは危険だと感じていた。
何とかしたいが、結城自身は言わずもがな、アテナは疲労困憊、マスクマンは身体のほとんどを失い、シロガネも負傷。媛寿はまだ動けているが、それでも全快というわけではないらしい。
悪路王は結城たちも道連れにして、螺久道村を滅ぼすつもりでいる。結界が綻んで、結城たちが瘴気に晒されるのもそう遠くない。
助かるためには悪路王に確実な止めを刺す必要がある。そして、その前に瘴気を一掃するという難題もある。
だが、結界の中にいる誰も、それを可能にする者はいなかった。
(万事休す、かな)
結城は首を反対方向に巡らせる。そこには結界に運び込まれた灯恵が横たわっていた。マスクマンの止血法が堪えたのか、今は気絶同然で意識を失っている。
(ごめんなさい、灯恵さん。偉そうなこと言っちゃったけど、僕にできるのはここまでだったみたいです。もうすぐ灯恵さんの復讐は叶います。僕が抗ってもダメだったってことは、やっぱり灯恵さんの方が正しかったってことかもしれません)
結城は心の中で灯恵に謝罪した。
結城自身、灯恵の復讐心を否定することはできなかった。恨むのも憎むのも、大切なものがあるなら誰しも持ちえる気持ちだった。その気持ち自体は間違いではないはずだった。
それでも、恨みや憎しみに突き動かされて、復讐という行為に及ぶことが全て正当であるわけではない。理由が正当でも、復讐もまた罪を一つと作ってしまう。
灯恵は村人もろともに、螺久道村そのものを葬ろうとしていた。復讐と自決を兼ねて。
そんな悲しい終わりを迎える人生を、結城は見捨てることができなかった。
自分勝手であるのは充分承知していた。だが、全ての事情を知った上で、灯恵に背を向けて螺久道村を後にするという選択は、結城にはどうしても取れなかった。
(僕のせいで皆も巻き添えにしちゃった。うぅ、申し訳ないことしたな)
媛寿、アテナ、マスクマン、シロガネはもちろん、今回の依頼に同行した千夏、協力を要請した雛祈たちまでも、結城の勝手に巻き込む形になってしまった。あるいは退いていれば、少なくともこんな状況にはなっていなかったかもしれないというのに。
結城は申し訳なさ過ぎて、穴があったら入りたい気持ちになった。しかし、無情にも結城の体は穴を掘る力も残っていない。
情けなさと申し訳なさに押し潰され、このまま動けずに瘴気に当てられてしまうのを待つだけかと思っていた時だった。
結城は後頭部を指でつんつんと突かれていた。
誰かと思い、結城は反対側に首を向けた。そこには結城と並ぶように寝かされたシロガネがいた。
「結城、コレ、斬りたい?」
シロガネは結城の頭を突いていた指を、そのまま上に持ち上げて言った。
結界が揺るがないように気を尖らせながら、雛祈は分析と計算を進めていた。
悪路王が心臓を失っても、どれだけ肉体を損壊しても死に至らないのは、悪路王の本体が強力な怨念の塊だからだ。
八人分の怨念を『蟲毒の法』を応用して一人に集め、『八』という数字の意味を掛け合わせることで、力を何倍にも膨れ上がらせる。
そうして精製された怨念の塊は、もはや生物学的な作用を超越して、肉体を駆動し続ける。いわば肉体はこの世で活動するための乗り物、怨念の操り人形と成り果てるのだ。
怨念となった人の魂は、完全に浄化されるか、完全に破壊されるかでなければ、この世に残り、何かしらの形で厄災を振り撒く。
悪路王が首だけの状態で、酒に浸けられながらも百年以上生き続けたのは、肉体の損壊に意味がなかったからなのだ。
ならば、肉体をいくら破壊しても、悪路王は殺すことができない。
そして、鬼神・悪路王の本当の力は膂力ではなく、怨念から来る凄まじい毒気だった。
あくまで戦闘力は補助としての能力に過ぎなかった。周辺一帯を埋め尽くし、何者をも死に至らしめる瘴気こそが、悪路王の本当の能力だった。
簡易結界とはいえ、雛祈が瘴気を防げているのは、祀凰寺家が封印術に長けた家系であるからだ。
並みの結界であったなら、防ぐことができないか、防げたとしても短時間で保たなくなっていたことだろう。
雛祈ならば、瘴気を完璧に遮断しつつ、結界を長時間維持し続けることも可能だった。あくまで余計な攻撃を受けなければの話だが。
(ただ結界で瘴気を防いでいるだけなら、あと一時間……いや、二時間は保つ、けど……)
雛祈にはまだ懸念するべきものが残っていた。
悪路王は螺久道村の人間を瘴気で殺した後、跡形もなく焼き払うと言っていた。
つまり、第二波として炎が襲い掛かってくる可能性がある。
雛祈の予想では、悪路王は怨念の全てを炎に変換して解き放つつもりだと考えていた。
怨念が込められた炎は簡単に消えるものではない。そして結界も、強力な怨念の炎まで浴びては、さすがに維持することはできなくなる。村一つを燃やし尽くすまで消えないようなら、なおのことだ。
(どうする? どうする?)
雛祈はこの窮地を脱することができそうな手段を探ろうとした。あらゆる要素、あらゆる可能性、あらゆる状況を考慮し、全員が無事に退避できる道筋を見つけようとした。
しかし、頭の中でどんな方法をシミュレートしても、瘴気という難題が待ち構えているので、突破できずに終わるという結末しか想像できない。
雛祈の頬を、冷や汗とも脂汗ともつかないものが伝った。本当にここで終わるかもしれないという考えが浮かび、じわじわと脳内を侵食し始めていた。
それでも雛祈は歯を食いしばり、結界の強度を最高の状態に保とうとした。
(ここで諦めるようなら、さっさと逃げておけばよかったこと! こうなった以上、意地でも生きて帰ってやるわよ!)
雛祈は持ち前の負けん気と度胸で、脳裏に浮かぶ負の考えに対抗する。
だが、やはり第一の問題として、瘴気を取り払わなければ身動きが取れない。
(せめて瘴気だけでも何とかできれば)
悪路王との戦いで、この場にいる全員が消耗していた。戦いの女神でさえ、疲弊して動くことができない。
押すのも引くのもできないようなこの状況を解決するには、もはや天からの奇跡が降ってくるのを待つしか。雛祈がそう思っていた時だった。
「祀凰寺さん」
不意に姓を呼ばれて雛祈は振り向いた。それも、一番意外な人物から呼ばれたので、なおさら雛祈は驚いた。
「ちょっとお願いがあるんですけど……」
そう持ちかけてきたのは、やっとのことで四つん這いまで体を起こした結城だった。その右手には、見慣れない銀色の短剣が握られていた。
悪路王は視界を闇に閉ざされてなお、魂の奥から湧き立つ怨嗟を放ち続けた。むしろ光を奪われたからこそ、より深く負の感情を意識できるようになったかもしれない。
自らが殺めた者たちの怨念、朱月成磨が手にかけた者たちの叫喚、それらが幾重にも捩れ、束ねられ、無尽蔵とも思える黒い力を生み出し続ける。
ただ、それはあくまで補助としての機能に過ぎない。悪路王自身の怨嗟、その源泉をより強くするための。
妻子を惨たらしく奪われ、魂の髄まで闇へと染まった時のことを、悪路王は今も忘れていない。
だからこそ、朱月灯恵の抱いた憎悪に共感した。
螺久道村の村人たちは、浅はかにも偶発的に生まれた鬼の力に頼ろうとした。それができないなら、己が鬼の力を得ようと禁忌の酒を造ってしまった。さらにはその酒に力を宿そうと、無意味な生け贄を百年以上も捧げ続けた。果たして何を目的としていたかも忘れて。
そのような悲劇が何も成さぬまま積み上げられて、ついに一人の母親の心を鬼へと変えてしまった。
始まりは全て『悪路王』へと変じた、ただのどこにでもいる人間だった。
悪路王は灯恵に誓った。元凶である自身が螺久道村の全てを終わらせると。
そのために干乾びた生首だけと成り果てたところから、より強大な肉体と、さらに強い怨念も手に入れた。
ここに来て何もかもを無にするわけにはいかない。その思いだけが、心臓も、光も、肉体の形も失った悪路王を現世に繋ぎとめていた。
瘴気はすぐに森の隅々まで拡がりきる。触れた瞬間に木々も含めたあらゆる命が枯れ落ちる。
やがては村全体に流れ込み、覆い尽くす。どこに隠れても逃さず瘴気は行き渡る。一戸として漏らさず。
村人が毒気で息絶えた後は、残った怨念を炎に転化して村を焼き尽くすのみ。それで悪路王の肉体も含めた、螺久道村の全てが灰へと還る。
(これで……これで終わる……)
長きに渡る悪路王の、いや、その素体となった人間の時間が、ようやく終わりに近づこうとしていた。すでに走馬灯も過ぎ去った。人として生まれてから、鬼へと成り果て、首だけで百五十年を過ごし、今へと至るその時が。
(長かった……もうすぐだ……)
失った妻子の姿が浮かびかけては消える。
悪路王は理解していた。鬼へと堕ちた時点で、妻子と同じ場所には逝くことはかなわないのだと。
それでも、悪路王は妻子の幻影に手を伸ばそうとした。
ちょうどその時だった。悪路王は鋭い『痛み』を感じて強張った。
「そんなこと本当にできるの!?」
「シロガネはできるって言ってくれました。シロガネが嘘を言ったことは一度もない。だから、できるってことです」
結城は強く確信するも、雛祈はまだ半信半疑だった。
たった今、結城から事態を解決できる策を提示された。それは雛祈にとっては全財産を賭けた一発勝負のギャンブルと変わらないものだった。もっとも、賭けるのは金銭どころか命になるわけだが。
失敗すれば雛祈も結城も確実にお陀仏だ。しかし成功すれば、今を取り巻く状況をまるごと綺麗に片付けることができる。
ただ、そのための方法があまりにも怪しい。雛祈にしてみれば、詐欺同然の投資信託を勧められているようなものだ。
どう考えても命を預けるには足りない。
「お嬢」
結城の提案をいぶかしんでいた雛祈に、桜一郎がそっと耳打ちした。
「結界はあとどのくらい保つ?」
「二時間くらいはこのままでいられるけど、その前に悪路王が何か仕掛けてくるでしょうね。そうなったらこんな簡易結界じゃ防げなくなる」
「……そうか」
桜一郎はそこまで聞くと、思案するように薄く目を閉じた。そして十数秒ほどしてから、
「お嬢、小林結城の言うことに乗ってみないか?」
と告げた。
「はぁっ!? ちょっと桜一郎、何言い出すの! こんな時に!」
「お嬢、すまないが今の自分にはお嬢を守る力も手立てもない。このまま結界に閉じこもっていても、いずれは共倒れだ。なら、生き残れる見込みがある方法に頼らざるをえない」
「~~~!」
「お嬢にはあるのか? せめてお嬢だけでも助かる方法があるなら、自分はそれでもかまわないが」
「それは……ない……けど」
理路整然と言葉を並べてくる桜一郎に、雛祈はうまく返すことができなかった。実際にこのまま何もできないでいれば袋小路なのは確かだった。
「こいつはできると言っているぞ」
桜一郎は視線で雛祈の目を誘導した。その先にあったのは結城が握っている一振りの短剣だった。
雛祈は短剣と結城を交互に見ながら、さらに顔を険しくした。
結城の提案を受け入れるなら、結界を即解除しなければならなくなる。もしも失敗したならば、雛祈はその瞬間に瘴気に晒され、一巻の終わりだった。
成功する確証が得られなければ、あまりにもリスクが高い。が、桜一郎の言うことも一理あることだった。
結界を張り続けても、それは何もできずに最期を先延ばしにするだけで、早いか遅いかの違いしかない。悪路王が次の手に移れば、問答無用で終わりを迎えるのだ。
そうなれば、ここで雛祈が迷っている時間さえも、後で惜しむことになる。
雛祈が承諾するか否か、それだけがいま最大の分岐点だった。
「…………分かったわよ」
「お嬢」
「祀凰寺さん」
「ただしっ!」
雛祈は四つん這い状態の結城を思い切り睨みつけた。
「もし失敗したら地獄に落ちても呪ってやるから」
「え、あ、はい……」
古屋敷で相対した時以上に敵意満々の視線を向けられ、結城は思わず間の抜けた受け答えを返してしまった。
相変わらず体はガタガタだった。無理をすれば動かせないこともないが、油が切れた機械のように鈍く、カクカクとした動作が関の山だろう。
今の結城が自由にできるのは目と首ぐらいのものだった。
状況を見るに、悪路王はもう形振り構わず瘴気を放ったようだ。
雛祈が結界か何かで瘴気を防いでくれているが、素人の結城であっても、このまま結界の中に篭城しているのは危険だと感じていた。
何とかしたいが、結城自身は言わずもがな、アテナは疲労困憊、マスクマンは身体のほとんどを失い、シロガネも負傷。媛寿はまだ動けているが、それでも全快というわけではないらしい。
悪路王は結城たちも道連れにして、螺久道村を滅ぼすつもりでいる。結界が綻んで、結城たちが瘴気に晒されるのもそう遠くない。
助かるためには悪路王に確実な止めを刺す必要がある。そして、その前に瘴気を一掃するという難題もある。
だが、結界の中にいる誰も、それを可能にする者はいなかった。
(万事休す、かな)
結城は首を反対方向に巡らせる。そこには結界に運び込まれた灯恵が横たわっていた。マスクマンの止血法が堪えたのか、今は気絶同然で意識を失っている。
(ごめんなさい、灯恵さん。偉そうなこと言っちゃったけど、僕にできるのはここまでだったみたいです。もうすぐ灯恵さんの復讐は叶います。僕が抗ってもダメだったってことは、やっぱり灯恵さんの方が正しかったってことかもしれません)
結城は心の中で灯恵に謝罪した。
結城自身、灯恵の復讐心を否定することはできなかった。恨むのも憎むのも、大切なものがあるなら誰しも持ちえる気持ちだった。その気持ち自体は間違いではないはずだった。
それでも、恨みや憎しみに突き動かされて、復讐という行為に及ぶことが全て正当であるわけではない。理由が正当でも、復讐もまた罪を一つと作ってしまう。
灯恵は村人もろともに、螺久道村そのものを葬ろうとしていた。復讐と自決を兼ねて。
そんな悲しい終わりを迎える人生を、結城は見捨てることができなかった。
自分勝手であるのは充分承知していた。だが、全ての事情を知った上で、灯恵に背を向けて螺久道村を後にするという選択は、結城にはどうしても取れなかった。
(僕のせいで皆も巻き添えにしちゃった。うぅ、申し訳ないことしたな)
媛寿、アテナ、マスクマン、シロガネはもちろん、今回の依頼に同行した千夏、協力を要請した雛祈たちまでも、結城の勝手に巻き込む形になってしまった。あるいは退いていれば、少なくともこんな状況にはなっていなかったかもしれないというのに。
結城は申し訳なさ過ぎて、穴があったら入りたい気持ちになった。しかし、無情にも結城の体は穴を掘る力も残っていない。
情けなさと申し訳なさに押し潰され、このまま動けずに瘴気に当てられてしまうのを待つだけかと思っていた時だった。
結城は後頭部を指でつんつんと突かれていた。
誰かと思い、結城は反対側に首を向けた。そこには結城と並ぶように寝かされたシロガネがいた。
「結城、コレ、斬りたい?」
シロガネは結城の頭を突いていた指を、そのまま上に持ち上げて言った。
結界が揺るがないように気を尖らせながら、雛祈は分析と計算を進めていた。
悪路王が心臓を失っても、どれだけ肉体を損壊しても死に至らないのは、悪路王の本体が強力な怨念の塊だからだ。
八人分の怨念を『蟲毒の法』を応用して一人に集め、『八』という数字の意味を掛け合わせることで、力を何倍にも膨れ上がらせる。
そうして精製された怨念の塊は、もはや生物学的な作用を超越して、肉体を駆動し続ける。いわば肉体はこの世で活動するための乗り物、怨念の操り人形と成り果てるのだ。
怨念となった人の魂は、完全に浄化されるか、完全に破壊されるかでなければ、この世に残り、何かしらの形で厄災を振り撒く。
悪路王が首だけの状態で、酒に浸けられながらも百年以上生き続けたのは、肉体の損壊に意味がなかったからなのだ。
ならば、肉体をいくら破壊しても、悪路王は殺すことができない。
そして、鬼神・悪路王の本当の力は膂力ではなく、怨念から来る凄まじい毒気だった。
あくまで戦闘力は補助としての能力に過ぎなかった。周辺一帯を埋め尽くし、何者をも死に至らしめる瘴気こそが、悪路王の本当の能力だった。
簡易結界とはいえ、雛祈が瘴気を防げているのは、祀凰寺家が封印術に長けた家系であるからだ。
並みの結界であったなら、防ぐことができないか、防げたとしても短時間で保たなくなっていたことだろう。
雛祈ならば、瘴気を完璧に遮断しつつ、結界を長時間維持し続けることも可能だった。あくまで余計な攻撃を受けなければの話だが。
(ただ結界で瘴気を防いでいるだけなら、あと一時間……いや、二時間は保つ、けど……)
雛祈にはまだ懸念するべきものが残っていた。
悪路王は螺久道村の人間を瘴気で殺した後、跡形もなく焼き払うと言っていた。
つまり、第二波として炎が襲い掛かってくる可能性がある。
雛祈の予想では、悪路王は怨念の全てを炎に変換して解き放つつもりだと考えていた。
怨念が込められた炎は簡単に消えるものではない。そして結界も、強力な怨念の炎まで浴びては、さすがに維持することはできなくなる。村一つを燃やし尽くすまで消えないようなら、なおのことだ。
(どうする? どうする?)
雛祈はこの窮地を脱することができそうな手段を探ろうとした。あらゆる要素、あらゆる可能性、あらゆる状況を考慮し、全員が無事に退避できる道筋を見つけようとした。
しかし、頭の中でどんな方法をシミュレートしても、瘴気という難題が待ち構えているので、突破できずに終わるという結末しか想像できない。
雛祈の頬を、冷や汗とも脂汗ともつかないものが伝った。本当にここで終わるかもしれないという考えが浮かび、じわじわと脳内を侵食し始めていた。
それでも雛祈は歯を食いしばり、結界の強度を最高の状態に保とうとした。
(ここで諦めるようなら、さっさと逃げておけばよかったこと! こうなった以上、意地でも生きて帰ってやるわよ!)
雛祈は持ち前の負けん気と度胸で、脳裏に浮かぶ負の考えに対抗する。
だが、やはり第一の問題として、瘴気を取り払わなければ身動きが取れない。
(せめて瘴気だけでも何とかできれば)
悪路王との戦いで、この場にいる全員が消耗していた。戦いの女神でさえ、疲弊して動くことができない。
押すのも引くのもできないようなこの状況を解決するには、もはや天からの奇跡が降ってくるのを待つしか。雛祈がそう思っていた時だった。
「祀凰寺さん」
不意に姓を呼ばれて雛祈は振り向いた。それも、一番意外な人物から呼ばれたので、なおさら雛祈は驚いた。
「ちょっとお願いがあるんですけど……」
そう持ちかけてきたのは、やっとのことで四つん這いまで体を起こした結城だった。その右手には、見慣れない銀色の短剣が握られていた。
悪路王は視界を闇に閉ざされてなお、魂の奥から湧き立つ怨嗟を放ち続けた。むしろ光を奪われたからこそ、より深く負の感情を意識できるようになったかもしれない。
自らが殺めた者たちの怨念、朱月成磨が手にかけた者たちの叫喚、それらが幾重にも捩れ、束ねられ、無尽蔵とも思える黒い力を生み出し続ける。
ただ、それはあくまで補助としての機能に過ぎない。悪路王自身の怨嗟、その源泉をより強くするための。
妻子を惨たらしく奪われ、魂の髄まで闇へと染まった時のことを、悪路王は今も忘れていない。
だからこそ、朱月灯恵の抱いた憎悪に共感した。
螺久道村の村人たちは、浅はかにも偶発的に生まれた鬼の力に頼ろうとした。それができないなら、己が鬼の力を得ようと禁忌の酒を造ってしまった。さらにはその酒に力を宿そうと、無意味な生け贄を百年以上も捧げ続けた。果たして何を目的としていたかも忘れて。
そのような悲劇が何も成さぬまま積み上げられて、ついに一人の母親の心を鬼へと変えてしまった。
始まりは全て『悪路王』へと変じた、ただのどこにでもいる人間だった。
悪路王は灯恵に誓った。元凶である自身が螺久道村の全てを終わらせると。
そのために干乾びた生首だけと成り果てたところから、より強大な肉体と、さらに強い怨念も手に入れた。
ここに来て何もかもを無にするわけにはいかない。その思いだけが、心臓も、光も、肉体の形も失った悪路王を現世に繋ぎとめていた。
瘴気はすぐに森の隅々まで拡がりきる。触れた瞬間に木々も含めたあらゆる命が枯れ落ちる。
やがては村全体に流れ込み、覆い尽くす。どこに隠れても逃さず瘴気は行き渡る。一戸として漏らさず。
村人が毒気で息絶えた後は、残った怨念を炎に転化して村を焼き尽くすのみ。それで悪路王の肉体も含めた、螺久道村の全てが灰へと還る。
(これで……これで終わる……)
長きに渡る悪路王の、いや、その素体となった人間の時間が、ようやく終わりに近づこうとしていた。すでに走馬灯も過ぎ去った。人として生まれてから、鬼へと成り果て、首だけで百五十年を過ごし、今へと至るその時が。
(長かった……もうすぐだ……)
失った妻子の姿が浮かびかけては消える。
悪路王は理解していた。鬼へと堕ちた時点で、妻子と同じ場所には逝くことはかなわないのだと。
それでも、悪路王は妻子の幻影に手を伸ばそうとした。
ちょうどその時だった。悪路王は鋭い『痛み』を感じて強張った。
「そんなこと本当にできるの!?」
「シロガネはできるって言ってくれました。シロガネが嘘を言ったことは一度もない。だから、できるってことです」
結城は強く確信するも、雛祈はまだ半信半疑だった。
たった今、結城から事態を解決できる策を提示された。それは雛祈にとっては全財産を賭けた一発勝負のギャンブルと変わらないものだった。もっとも、賭けるのは金銭どころか命になるわけだが。
失敗すれば雛祈も結城も確実にお陀仏だ。しかし成功すれば、今を取り巻く状況をまるごと綺麗に片付けることができる。
ただ、そのための方法があまりにも怪しい。雛祈にしてみれば、詐欺同然の投資信託を勧められているようなものだ。
どう考えても命を預けるには足りない。
「お嬢」
結城の提案をいぶかしんでいた雛祈に、桜一郎がそっと耳打ちした。
「結界はあとどのくらい保つ?」
「二時間くらいはこのままでいられるけど、その前に悪路王が何か仕掛けてくるでしょうね。そうなったらこんな簡易結界じゃ防げなくなる」
「……そうか」
桜一郎はそこまで聞くと、思案するように薄く目を閉じた。そして十数秒ほどしてから、
「お嬢、小林結城の言うことに乗ってみないか?」
と告げた。
「はぁっ!? ちょっと桜一郎、何言い出すの! こんな時に!」
「お嬢、すまないが今の自分にはお嬢を守る力も手立てもない。このまま結界に閉じこもっていても、いずれは共倒れだ。なら、生き残れる見込みがある方法に頼らざるをえない」
「~~~!」
「お嬢にはあるのか? せめてお嬢だけでも助かる方法があるなら、自分はそれでもかまわないが」
「それは……ない……けど」
理路整然と言葉を並べてくる桜一郎に、雛祈はうまく返すことができなかった。実際にこのまま何もできないでいれば袋小路なのは確かだった。
「こいつはできると言っているぞ」
桜一郎は視線で雛祈の目を誘導した。その先にあったのは結城が握っている一振りの短剣だった。
雛祈は短剣と結城を交互に見ながら、さらに顔を険しくした。
結城の提案を受け入れるなら、結界を即解除しなければならなくなる。もしも失敗したならば、雛祈はその瞬間に瘴気に晒され、一巻の終わりだった。
成功する確証が得られなければ、あまりにもリスクが高い。が、桜一郎の言うことも一理あることだった。
結界を張り続けても、それは何もできずに最期を先延ばしにするだけで、早いか遅いかの違いしかない。悪路王が次の手に移れば、問答無用で終わりを迎えるのだ。
そうなれば、ここで雛祈が迷っている時間さえも、後で惜しむことになる。
雛祈が承諾するか否か、それだけがいま最大の分岐点だった。
「…………分かったわよ」
「お嬢」
「祀凰寺さん」
「ただしっ!」
雛祈は四つん這い状態の結城を思い切り睨みつけた。
「もし失敗したら地獄に落ちても呪ってやるから」
「え、あ、はい……」
古屋敷で相対した時以上に敵意満々の視線を向けられ、結城は思わず間の抜けた受け答えを返してしまった。
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