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化生の群編

藁よりも細い意志

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 雛祈ひなぎ桜一郎おういちろう悪路王あくろおうに急襲を仕掛ける頃には、アテナは動けるまで回復した。
 だが、消耗が思いのほか激しかったので、現状では再び悪路王と相対しても、まともに戦うことはできそうになかった。
 残る手段は結城ゆうきの肉体に融合することで、結城の心から力をもらうこと。それはアテナが構築した悪路王攻略法の最終項目でもある。
 アテナの存在を強く信じる結城と融合できれば、アテナは失われた往年の力の一部を取り戻せる。全能の神ゼウスより貸し与えられた雷槍ケラウノスも召喚することが可能だった。
 さすがに全力の雷槍を呼ぶことはできそうにないが、それでもアテナには秘策があった。
 そのためにも結城の元へ向かう必要がある。アテナは震える脚に活を入れ、結城が飛ばされたところまで歩き出した。
「ふふ……」
 不謹慎と知りながら、アテナは笑みを零した。かつて、これほどの窮地に追い込まれた戦況があっただろうか、と。
 ゼウスの額から生まれ出て以降、アテナは戦いに窮することなどなかった。巨人大戦ギガントマキアでもトロイア戦争でも、アテナの武力に対抗できる者など存在せず、他のことにしてもアテナの権能の範疇ならば、適う者など滅多なことで現れたりはしなかった。
 それがアテナの生まれ持った権能による成果であり、アテナも常勝不敗が続いていくものだと思っていた。それが神として果たす役割ならば、別段つまらないことだとは思っていなかった。
 ただ、少し寂しいかもしれない、とは思っていた。
 しかし今、最強の戦女神は知力、体力、精神力の限界に届き得る窮地の只中にいる。
 アテナが抱いている素直な気持ちは、『楽しい』だった。
 オリュンポスの神々に対する人々の見方は変わってしまった。ローマ神話に変遷し、別の宗派に取って変わられ、今では古代ギリシャに伝えられていた『過去の神々』になってしまった。
 世界に知る人は多くあれど、あくまで認知されている程度であり、アテナも含めたオリュンポスの神々の力は、ほとんどが全盛期の10分の1以下まで減衰した。
 残念には思うが、それもまた時流の定めとして受け入れていた。
 だが、アテナは日本に渡って以降、いくつもの窮地を体験していた。今もそうである。
 全盛期では味わうことのなかった逆境。それを押し返すために、己の全ての力を以って奮戦する。その先に待っている極上の勝利。
 結城の守護神となってから、アテナにはこれまで経験したことのない新鮮味の連続だった。
(力の大半を失ってしまいましたが、思っていたよりも悪いことではなかったかもしれませんね、パラス)
 まだ重い体を引き摺りながら、アテナは亡き友に心の中で呟いた。
(残る問題は武器。シロガネから失敬したドウタヌキは、果たして最後まで耐えてくれるでしょうか)
 アテナは同田貫どうたぬきの刀身を見た。かなり気を遣って使用したつもりだったが、小さな刃毀れがいくつも発生していた。さすがに悪路王の肉体相手では、実戦刀も疲弊の色が濃くなっている。
(少し……心許ないですね)
 これから放つ大技のことを考えれば、くたびれた刀では途中で折れてしまう可能性がある。対悪路王のために用意した戦法の最終段階は、成功すれば悪路王の肉体を完全崩壊させられる、とアテナは読んでいた。
 細工は流々。しかし、肝心の道具が予想を超えて傷んでしまっていた。
(仕方がありません。このまま進めるしか―――?)
 アテナはふと不思議な気配を覚えて立ち止まった。
 不思議というよりはとても馴染み深いような感覚だったので、アテナは自然とその出どころを探した。
 それはすぐに見つかった。アテナの2、3メートル左に刀が一振り、地面に突き刺してあった。
 一刻も早く結城の元へ行かなければならないはずだったが、アテナはなぜかその刀を手に取ろうとした。
 空いていた左手で柄を握ると、腕を伝ってアテナの中に力が流れ込んだ。完全回復とまではいかないものの、戦いを継続するには充分な力が戻ってきた。
 それだけ刀の中に込められていた力は、アテナとの親和性が強かったのだ。
(これならば!)
 アテナは刀を引き抜き、代わりに同田貫を地面に突き立てた。
(ユウキ、私たちの……勝利です!)

「うぐ……ぎぎ……」
 結城は立ち上がろうと何度も体に力を込めたが、四肢はほんの数センチしか動かず、結局はもがく程度がせいぜいだった。それだけ精霊の仮面から受けた力は、結城の体を手ひどく傷ませていた。
 まるで息絶える寸前のゴキブリみたいだと思いながら、結城はそれでも動こうと足掻いた。
 マスクマンから精霊の力を借り、瓦礫の下から脱出できたまでは良かったが、やはり闘争本能に押し流されてしまった。
 半分夢見心地ゆめみごこちのまま悪路王に戦いを挑み、凶暴な衝動だけが肉体を突き動かして攻撃させた。
 覚悟はしていたはずが、抑えきることはできなかった。
 以前にもマスクマンの力を借りて事態を解決した。その時も闘争心に体を乗っ取られ、アテナたちに仮面を剥がされなければ自滅するまで戦ってしまうところだった。
 以来、マスクマンの力を借りるのは、本当に追い込まれた場合だけと心に決めていた。
 瓦礫の下敷きになり、いまがその時だと思って力を借りることにした。いまなら、まだ耐えられると考えていた。
 甘かった。いや、甘すぎた。
 結城は自身を動くことさえままならない状態にまで追い込んでしまった。これでは灯恵ともえを連れて村を脱出するなど、到底不可能だ。
「う……うぅ……」
 いまにも泣き出しそうな声で結城は呻いた。
 すぐ背後には絶望の影が近付いてくる気配がした。
 痛覚とは違うヒリヒリとした感覚が、脊椎から発生して手足の先まで行き渡る。
 危機感だった。絶体絶命の危機に、精神や思考よりも先に本能の方が騒いでいた。
 依頼を請け負うようになって、何度も体験した感覚だった。
 何度味わっても、結城はその感覚に慣れることはない。むしろ苦手だった。生来の気性が臆病だからだ。
 おそらくこの先も、その性分は変わらず、慣れることはないと結城は考えていた。
 だが、それでも結城はまだ全てを投げ出してはいなかった。あまりにも細く脆い一本の糸のようなものだったが、結城はまだ灯恵を連れ出すという意志を保っていた。
 その意志が、立つことさえできない結城の体を進ませる。恐怖に、危機感に、絶望感に飲み込まれ、溺れかかっても、ほんの一筋の針ほどの細さの光明となって持ち堪えさせていた。
 数秒先には悪路王に止めを刺される未来が待っているかもしれない。ならばもう諦めて動かずにいる方が楽だろう、と弱さが誘惑してくる。
 痛い、辛い、泣きたい、逃げたい、意識を手放したい。湧き出してくる負の思いに押し流されそうになっても、結城は藁よりも細い希望に掴まって耐えていた。
(僕にできることなんて……そんなに多くない……)
 脳に這い寄ってくる恐怖を感じながら、両手の五指で土を握り締めた。
(人に自慢できるようなものなんて……何もない……)
 震える脚に力を込め、1センチでも前に進もうとした。
(皆に出逢わなければ……僕は何もできないまま終わっていたんだ……)
 軋む腕を引き寄せて体を押しやる。
(でも今は……皆がいてくれる……媛寿えんじゅが……アテナ様が……マスクマンが……シロガネが……皆がいてくれたから……僕は……何かができるようになったんだ!)
 定まらない左手を持ち上げ、掴めそうなものを必死に探す。
(だったら……心が先に死んじゃうような……そんな情けない最期になんかできない! そんなのは一番……皆に報いることができない!)
 今にも力尽きそうな左手を宙にかざす。その先にある何かを求めるように。
(僕だって同じなんだ……最期に微笑わらえなきゃ……だから……灯恵さんを助けることを……諦めない!)
「よくぞ示しました」
 彷徨っていた結城の左手を、誰かが力強く取った。その声は、結城がよく知る人物、いや女神だった。
「ユウキ、あなたの意志と覚悟、私にも伝わってきました。さすがは私の見込んだ戦士です」
 戦女神の手を通して、結城の体に少しずつ力が流れ込んできた。悲鳴を上げていた体が楽になり、さらには気力が満ち溢れてくる。
「さぁユウキ、立ち上がりなさい。そして見せ付けるのです。あなたの意志を、あのオニに」
 女神の手を取ったまま、結城は伏していた地面から身を起こした。
 肉体は十全の状態を取り戻し、闘志が奥から漲ってくる。
 あとは唱えるべき文言も口にすればいい。
「ラスティ・フュージョン」
 女神アテナの体が金色の粒子となり、結城の体へと溶けていった。
 黄金のオーラを纏い、青い瞳に変わった結城は、アテナから託された一振りの日本刀を構えた。
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