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化生の群編

結城の決意

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「それは……ダメなんだ……絶対に!」
 今にも倒れ込みそうな脚に必死で力を込め、息せき切りながら結城ゆうきは言い放った。
 アテナと千夏ちなつは驚いていた。悪路王あくろおうから受けた強い殺意で、結城はもはや戦闘不能に陥ったはずだった。この修羅場を離れて、数日あるいは一月は安静にして、精神状態を徐々に戻さなければならない状態にあった。
 それが千鳥足同然とはいえ立ち上がり、悪路王に言葉をぶつけるまでに持ち直した。いったい何が結城をそこまでさせるのか、アテナと千夏には計り知れなかった。
朱月灯恵あかつきともえが同じことを言っても、お前は引き下がらなかったな。なぜ命が助かる機会をふいにする?」
「僕は……灯恵さんに……これ以上手を汚させたくない……それだけだ!」
 結城の言葉を聞いて、涼しかった悪路王の表情に見る見る苛立ちが浮かんできた。
「……莫迦ばかが。そもお前に関わりのあることか。朱月灯恵の復仇は正当だ。子を奪われた母が奪ったものに報いを受けさせる。これのどこに間違いがある? 止める謂れがある? 生半可な義や善で邪魔立てをするな、若造が!」
 悪路王の言葉には怒りの情が籠もっていた。初めて感情的になっているあたり、結城の行動に本気で怒りを感じているのだろう。部外者である結城が勝手な言い分を並べ、その上自分たちの企てを妨げようとしていると映っているのだろう。
 そのことに怒るのは当然だった。結城もそれは充分に解っていた。
「……それでも……ダメだ!」
 灯恵の想い、悪路王の怒り。全てを解った上で、結城は再び否定を口にした。
「灯恵さんは……この村と一緒に……死ぬつもりでいる」
「朱月灯恵が何よりも憎むのは、子を贄にした己そのもの。村とともに灰になることは始めから承知のことだ」
「それが……一番……ダメなんだ!」
「まだほざくか!」
 結城の一点張りに、ついに悪路王の怒りが限界を超えた。結城の首目がけて左の爪を突きたてようと肉薄する。
 その攻撃をまたもアテナの神盾アイギスが受け止める。何とか受け切ったはいいが、今度は槍がないので、反撃する方法がない。
 アテナが攻撃を防いだ瞬間を狙って、千夏が悪路王の背後に回りこんだ。痛む胴を堪えて悪路王の背を駆け上がり、両腕で首をホールドした。見事なチョークスリーパーが極まったが、それでも悪路王はものともしていない。
「僕は……村の人間じゃないし……村の事情も……よく知らない……灯恵さんの気持ちだって間違いじゃない……ううん……たぶん正しいんだと……思う」
 アテナと千夏が悪路王を抑えている間も、結城は自らの思いを口にする。その口調には少しずつではあるが、力強さが戻りつつあった。
「でも……ここで灯恵さんを見逃せば……灯恵さんは村の人たちの命を奪って……村もまるごと壊して……それで終わることになる……そんなのはダメだ!」
 結城の語気が周りの空気を揺るがした。もはや悪路王の殺意による震えはない。
「灯恵さんがどんな風に生まれて、これまで生きてきたのか、僕は知らない。でも、ここで灯恵さんを見逃したら、灯恵さんの人生はここで終わる。灯恵さんは村の人たちと村の何もかもを壊して、それで終わることになるんだ。きっとそれは、灯恵さんが死んじゃった後も、苦しくて辛いことしか待っていない」
 結城は悪路王を見据えた。いや、悪路王のずっと後方で倒れている灯恵に対して強い眼を向けた。
「灯恵さん! 僕は今から全力で灯恵さんの邪魔をするよ! きっと灯恵さんにとって一番嫌なことだし、僕も僕がやろうとしていることは正しくないって解ってる! でも灯恵さんが思っているような終わり方なんてさせない! どんなに許せないことがあっても、どんなにやりきれないことがあっても、誰かを憎んで、誰かを殺して、それで終わっちゃう人生なんて悲しすぎるよ! 灯恵さんの人生をそんな悲しいものになんてさせない! せめて最期にちょっとでも笑えなきゃ、『良い人生だった』って言えないじゃないか!」
 聞こえているいないに関わらず、結城は自分の胸の内を言い切った。正しいか間違っているかで言えば、間違っていると自覚もしている。それでも、目の前で悲しい終わりを迎えようとしている一人の人生を救いたい。それが救いであるとも限らない。ただ、その人生の最後に笑顔を灯せる機会を見捨てたくない。
 結城を奮い立たせたのは、そんな子供じみた我侭わがままと、無鉄砲な優しさが混ぜこぜになった気持ちだった。
「言わせておけば勝手なことを! ならばお前も細切れになって灰になれ!」
 怒り狂った悪路王は、槍が刺さったままの右腕を振り上げた。痛みが枷にならないのなら、槍に貫かれていても関係ない。もう一つの爪で神盾を弾き飛ばし、その次に結城を挽肉にしてしまうつもりだった。
 だが、悪路王の爪撃よりも、アテナが先に行動を起こした。アテナは自ら神盾を手放したのだ。
 盾が地に落ちるよりも速く、アテナは悪路王の正面に立った。左脚と体幹を軸に、体を大きく回転させる。
「シッ!」
 振りぬかれた右脚が、悪路王の右の膝裏にヒットした。
「ぐっ!」
 遠心力とアテナの膂力が充分に乗ったローキックに、さすがの悪路王も膝をついた。どれだけ痛みに耐性があっても、膝裏に強い力が加わっては、姿勢まで維持するのは難しい。
「ユウキ、それで良いのですね? これより先に進むというなら、あなたの命は保障できません。それでもあなたの我を通すというのですね?」
「僕は、灯恵さんを……いえ、灯恵さんたちがやろうとしていることを、止めます!」
 アテナは肉弾戦の構えを取ったまま、結城に振り返ることはなかったが、その言葉を聞いて安心したように微笑んだ。
「よろしい! ならば私もあなたの守護神として、力を示さねばなりません! あなたの道行きを、私が照らし導いて差し上げます! 光で照らすはアポロンやアルテミスだけではないと、ここで知らしめましょう!」
「この……図に乗るな、外様とざまの神が―――――!?」
 悪路王が爪を振るおうとした瞬間、悪路王の左目の視力が失われた。当の本人からは見えなかったが、首を羽交い絞めにしていた千夏の片手が、いつの間にか離れて悪路王の左目に刺し込まれていた。
「じゃああたしは光を奪う役を任されてやるよ。その代わり結城、後でたんまり楽しませろよ」
 悪路王の左の眼孔を抉りながら、千夏は上唇を軽く舐めた。
「この小鬼がっ! ふざけた真似を―――――」
「またあたしに構ってていいのかい?」
 悪路王はまたしても千夏に意識を向け過ぎていた。
 そのことに気付くも、時すでに遅し。正面ではアテナ渾身の拳が、鳩尾に深々と打ち込まれた。
「呪詛と怨嗟の魔物アクロオウ、あなたは私たちが相手をします!」
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