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化生の群編

化生の棲む群

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 鬼の生首を見つめる灯恵ともえの目は、慈しみとも悲しみとも取れる、複雑な感情を溢れていた。直系の子孫であるというなら、『鬼』になってしまった先祖に対し、思うところは多いのだろう。
 結城ゆうきもまた複雑な想いが湧き、かける言葉が見つからなかった。
「『鬼の酒』を飲んだ私は、一番強い血の繋がりがあったせいか、この鬼と精神で会話することができた。螺久道村らくどうむらの成り立ちも聞いた。そしてもう一つ……信じられないようなことも……その時に……」
 灯恵は途中から声と体を振るわせ、目を見開いて汗をかきだした。そこから先を語ることは、灯恵にとってそれほどの苦痛を伴っているのは明らかだった。
「鬼の力を手に入れて……新政府を打倒するという目的は……時代が進むとその意味もなくなって……いつしか村の安寧を祈願するように……それでも……生贄は捧げられ……続けて……」
 呼吸困難にでもなっているように、灯恵の吐息は不規則になり、声も次第に掠れていった。
 そこから告げられるであろう事実が、最も残酷だという予感に、結城の心臓は早鐘を打っていた。
「なのに……鬼は……言ったの……生贄を……捧げても……力は……強まらないって……」
 搾り出すような声で明かされた真実を聞いた時、結城は周りが暗闇に閉ざされる錯覚に陥った。轟々と燃える篝火さえ意識できなくなるほどの衝撃的な事実。灯恵自身の心に宿った絶望は、それよりもさらに深いと知って目を細める。
「あ……あは……あはははは!」
 灯恵の掠れ声は、急に哄笑へと変わった。天を仰いで笑い続ける灯恵だが、その目からは涙がとめどなく溢れていた。
「分かる!? 私たちが百年以上続けてきたことは、何の意味もなかった! 何の意味もなく子供を殺し続けてきた! 私、何の意味もないことのために、あの子を殺しちゃった!」
 一転して灯恵は金切り声で喚き立てる。定まらない情緒で吐き出される言葉は、もはや結城に言っているというよりは、自身を責めているように思えた。
「こんな! こんなおぞましい村なんか! もう一瞬だって耐えられない! そこに巣食っている醜い化け物たちも! 一秒だって見たくない! 全部! 全部! 全部! 跡形もなく壊してやる!」
 背を曲げるほどに力いっぱい叫んだ灯恵は、全力疾走後のように荒い呼吸を繰り返した。
 それを見ながら、結城は灯恵の苦悩と苦痛を噛み締めながら、その全てを理解できないことに歯がゆさを覚えていた。男である結城にとって、母親である灯恵が味わった苦しみを解することは、どうあっても適わない。
「……ふ……ふふふ……だから、鬼に聞いたの……この村を滅ぼせる鬼を『造る』方法を。鬼の力がそんなに欲しかったなら、その鬼の力で何も残らず壊れてしまえばいいって」
「それで最後にはあなたも壊される気ですか?」
 結城がようやく発したその言葉を聞き、灯恵は恐ろしく冷たい視線で見返した。
「……そうよ。一番許せないのは私自身。朱月あかつき家は螺久道村において、裏の権力者。生贄の儀式を執り行ってきたのは私の家系。私が、この村で一番おぞましい化け物。だから……」
 灯恵は結城から目を逸らした。その先にあるのは、壁の一部が崩れた、岩肌に設けられたやしろだった。
成磨せいまに全部壊してもらうの」
 社の戸がゆっくりと開かれ、何者かが外へ出てきた。一歩一歩と結城たちがいる場所まで近付くにつれ、篝火に照らされて輪郭が露になってくる。
 血しぶきに彩られたシャツとズボン、鮮血が滴り続ける鉈、普通の人間には見られない濁った光を宿す瞳。灯恵の夫、朱月成磨の姿は、人としての一線を越えてしまったことを如実に物語っていた。
「……成磨さん」
「何であんたがいるんだよ」
 成磨は結城の存在を認めると顔をしかめたが、それほど驚いてはいない様子だった。あるいは結城の登場などよりも、人を手にかけた衝撃の方がよほど大きかったからかもしれない。
「僕は、灯恵さんを止めに来ました」
「止める? あんた赤の他人だろ? 何でそんなことするんだよ」
「依頼を受けたから……じゃないな。誰かが悪いことをしようとしているなら、それを止めたいって思うのは普通ですよ。その人が、悪い人じゃないって知っているなら、なおさら止めたい」
「小林さん、私たちのことを思ってくれるなら、もう何も関わらないで。これが最後の警告。私の話を聞いてくれたお礼。すぐに螺久道村から逃げてくれるなら、あなたの命は助ける」
 先程までの恐慌は収まり、落ち着きはらった口調で灯恵は結城を諭す。それは結城の命に刃を向けた脅迫でもあったが、結城の人柄に対する返礼と優しさでもあった。
 だが、結城はそれに応えることはできなかった。灯恵と成磨に対し、首を横に振った。
「お二人のことを思うなら、それが正しいのかもしれない。でも、やっぱりこれ以上ひどいことをしてほしくない。僕のわがままで、自分勝手なことだって分かっているけど、ここで見逃しちゃいけないんだっていう気持ちは無視できない」
「あんたに俺たちの何が分かるってんだよ」
 成磨は声こそ荒げていないが、その言葉には明確な敵意がこもっていた。灯恵と成磨にとって、結城は企てを邪魔する部外者でしかない。その反応は当然だった。
「……それ、よく言われました。『自分たちの気持ちは分かるわけない』って。そう聞く度に思ってました。誰かに自分の気持ちが伝わらないって分かってる人は、そもそもそんなこと言わないんじゃないかって。そういう人の方がむしろ、誰かに気持ちを分かってほしいって思ってるんじゃないかって」
 結城は成磨の目を真っ直ぐに見返した。その瞳は成磨とは真逆に、恐れや憎悪といった負の感情は微塵もない。
「成磨さんも、灯恵さんも、本当は『痛い』とか、『苦しい』とかって気持ちを、螺久道村以外の誰かに分かってほしかったんでしょ? そうじゃなかったら、灯恵さん、僕がお願いしたからって全部話す必要はなかったんだ。僕に何も喋らせないまま、殺してしまってもよかったはずです」
 灯恵は表情一つ変えることなく、結城の言葉を聞いていた。しかし、何の反応もなかろうと、結城はいま語っていることが真実だと確信していた。様々な依頼を受け、様々な心を持った人間に出会ってきた。その経験から来る特別な感覚が、灯恵の心の動きを捉え、結城をもう一つの真実へと導いた。
「手紙をくれたのは、灯恵さんだったんですね」
 結城の指摘を受けて、灯恵と成磨の表情がわずかに動いた。
「『鬼』が出るから助けてほしい。あの手紙にあった『鬼』っていうのは、灯恵さん自身のことだった。灯恵さん、本当は村を壊そうとしているのを止めてほしかったんでしょ?」
 灯恵は少しの間沈黙していたが、すぐに微笑を浮かべて大きな溜め息をついた。
「手紙を出した人を探してるって聞いた時、もしかしたらと思って追い返そうとしたのに、まさか本当にあの手紙を見て来てただなんて」
(やっぱり、そうだったのか……)
 結城はこれで手紙から始まった全てが繋がった気がした。ここまでの一連の出来事と、灯恵が告白した内容から、手紙の文面に込められた意味を読み解くことができた。
 『鬼』から守ってほしいのではなく、復讐の『鬼』になってしまった自分を止めてほしいという意味だったのだと。
「一時の気の迷いなんて起こさなければよかった。思い返せば思い返すほど、後悔することばかり。一番邪魔していたのは、まだ私の中に残っていた『人』の部分だったのね」
 自嘲気味に力なく言う灯恵だったが、その顔はどこか安堵しているように、結城には見えた。
「でもね小林さん、ここまできた以上、もう後戻りはできないの。私は必ずこの村を滅ぼす。村に棲んでいる化け物どもを一匹残らず殺す。子供を殺してまで欲していた『鬼』の力で。そして―――」
 穏やかになっていた灯恵の目が、再び殺意を湛えたものに戻った。
「結局逃げなかったあなたも殺す」
 灯恵と成磨の横を、一陣の風が吹きぬけたようだった。その風を起こした『二体』は、上空に跳び上がると、重力を乗せた鉤爪を結城に振り下ろしてきた。
 だが、その爪は結城に届くことはなかった。一方は槍で心臓を一突き、もう一方は金棒で頭部を砕かれた。
 アテナの槍技と、千夏ちなつの剛力。卓越したその技の前に、異形の怪物二体は一瞬で沈黙した。
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