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化生の群編

天坂千夏の憂鬱

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 一懇楼いっこんろうの『秘密風呂』とはいわゆる家族風呂と同じようなもので、予約した者だけが専用で使うことができる、一般用とは別で設けられた入浴設備だった。規模は一般用と比べれば縮小されているが、屋内風呂、露天風呂、サウナ、休憩スペース、備え付けの飲食物と設備が充実しているため、誰に気兼ねすることなく、伸び伸びと入浴を楽しむことができる。
 ただ、普通の家族風呂と違うのは、公言されていないがカップル専用という点だった。いわゆる『そういう場所』として提供されているので、防音などにも力が入っていたりする。
 一懇楼は混浴の体勢を貫いているので、出会いを求めてやって来る宿泊客も多い。そこでカップル成立した客のために『秘密風呂』が作られ、好評を博しているわけだが、女中たちにとっても『覗く』時間帯がはっきり分かるという点で裏の人気も獲得している。そちらの意味でも『秘密』なのである。
「ぐあっ!」
「はひっ!」
 桜一郎おういちろう千冬ちふゆが盛大な飛沫しぶきを上げて、露天風呂の湯に身を投じた。撒き上がった湯が露天風呂のふちで角瓶を傾けていた千夏ちなつに降りかかったが、千夏は特に気にする様子もなく、瓶の中のウイスキーを空にしていた。
「ぷはっ!」
 千夏のすぐ横に千冬が浮上し、縁石に掴まって荒い呼吸を繰り返す。
「ハア…ハア…千夏姉様~、私にもお酒~」
 湯温と興奮で頬を赤くした千冬が、緩みきった表情を向けて酒をねだってくる。そんな妹に呆れたような顔をしつつ、千夏は傍らに置いてあったいくつもの酒瓶の中から一本を手に取り、栓を開けた。瓶の中身は高純度のウォッカだった。
「ほぉら、よ!」
 縁石に上半身を預けている千冬の口に、千夏は瓶を逆さにして突っ込んだ。ウォッカをほとんど無理やり飲まされている状態にも関わらず、千冬は水でも飲んでいるように何の気なしに中身を飲み下ろしていく。
「ぷはっ! お~いし~」
 それほどサイズの大きいボトルではなかったが、千冬は十秒足らずで全て飲み干し、歓喜の声を上げて体を伸ばした。
「千夏姉様は今日はしないんですか?」
「んぅ?」
 千冬たちが予約した『秘密風呂』に赴く際に千夏も誘われたが、なぜか千夏は温泉に浸かりながら酒を飲むばかりで千冬たちに混ざろうとはしていなかった。桜一郎と千冬の行為を肴に飲んでいるという風でもなく、さもつまらなそうに空を見つめているばかりだった。
 そんな千夏の様子を不思議に思った千冬だったが、当の千夏はすぐには問いに答えず、次に飲むジンの瓶に手を伸ばしていた。栓を開けて一口煽ると、
「つまんないんだよ」
 と、溜め息混じりに呟いた。
「? 『桜一郎さんの』は結構立派だと思いますけど? テクニックもありますし」
「そうじゃなくて……ん~」
 理由を説明しようとするが、うまく言葉に表せない千夏は、唸りながら再度ジンの瓶を煽った。
「どうしたんですか、千夏姉様? 何だか姉様らしくないですよ?」
「……」
 答えることなく瓶の中身を飲み下ろす千夏。自身でもらしくないのは自覚していた。
 昼間にも情報収集を兼ねて、街で何人か男を掴まえて『喰った』が、どうにも気乗りしなかった。普段の千夏なら数十発はしなければ満足しないが、その日は一人数発程度で済ませている。
 思い当たる節といえば、昨夜、結城ゆうきと一戦交えるのが不発に終わったことだった。その後、たまたま露天風呂に桜一郎と千冬がいたので気晴らしに混ざったが、千夏の気はまるで晴れていなかった。
(今からでも結城をヤったら、ちっとはモヤモヤが取れるのか? そしたらあの女神サマが黙ってないだろうな~)
 そんなことをボンヤリ考えながら、千夏はジンの瓶を空にした。温泉の熱気も、アルコール度数の強い酒も、今の千夏の冷めた気分を溶かすには至らない。
「ふ~」
 どうすれば気が晴れるか見出せず、千夏はまたも溜め息を吐いた。まだ床に並べた酒瓶は五、六本残っているも、それに手を伸ばす気にさえならない。
「ところでアレ、いいのか?」
 千夏が顎で指し示す先、桜一郎が湯面に背中だけを出して浮いていた。連日千冬に求められたせいで、とうとう力尽きたらしい。
「あっ、桜一郎さん!」
 千冬は土左衛門状態になっている桜一郎に駆け寄り、肩を掴んで湯面から顔を出させた。
「しっかりしてください! あと三発はしてほしいです!」
 白目を剥いて口を半開きにしている桜一郎を乱暴に揺さぶる千冬。
(性欲の強さは千冬こいつが一番えぐいんだよな~)
「今日はその辺にしとけよ、千冬。いくら鬼だからってそれ以上ヤったら腹上死するぞ」
「千夏姉様、そんなこと言ったって私まだ体が疼いたままですよ~」
「少しくらい我慢しろ」
「そんな~。このままじゃ夜眠れないですよ~」
「あたしの荷物の中にオモチャがあるから、それ使って後は一人でしろ」
 今にもべそをかきそうな妹を見かねて、千夏は親指で自分の部屋の方向を示した。
「……オモチャって、どんな形ですか?」
 千夏が持っている『オモチャ』に興味が湧いた千冬は、寄って食い入るように聞いてくる。
「けっこうえぐいヤツ。その代わり壊すなよ。あたしも借りてるだけだからな」
「やった~! いただきま~す!」
 文字通りオモチャを与えられた子どもの勢いで喜ぶ千冬。その際に桜一郎が手から離れ、再び温泉に沈んでいく。
「ほら、さっさと桜一郎そいつを部屋に置いてこい。そしたらオモチャは持ってっていいから」
「わっかりました~!」
 桜一郎の足首を持って引き摺りながら、千冬は脱衣所に急いで駆けていった。
 途中、段差に頭を打ち付けた桜一郎が呻いていたが、千夏はそれよりも自身の中にわだかるモヤモヤした気分の方が重要だった。
 いざ事に及ぼうとしたら、アテナの寝相の悪さでご破算にされてしまった昨夜。千夏にしてみれば、とっておきの好物を横取りされて目の前で食べられた感覚だった。あるいはお預けを食らった獣かもしれない。
「はあ~」
 思えば思うほど、千夏は溜息しか出てこなかった。小林結城が特別に拘るべき人間ではないとしても、初めて獲物を取り逃がした体験は、千夏にとって軽いストレスになっていた。
(一暴れでもすればスッキリするかな~)
 しかし、現代の日本で数百年前と同じことはできない。しかたなく千夏は置いていた酒瓶に手を伸ばし、栓を開けて中身を煽った。
(そういえば……昔のこと語ったのっていつ以来だった?)
 酒を飲み下ろしつつ夜空を見上げ、千夏はボンヤリとそう思った。


 頭頂を突き抜けるほどの快感が奔り、その者は天を仰いで目を見開いた。
 溢れ出た涙が頬と伝って跡を描き、口は餌を求める魚のように力なく開閉を繰り返す。
 その反応をもたらしたのは、体の中心から広がる痺れ。それは神経を通って手足の指先まで余すことなく体中を満たしていった。
 ほんの十数秒が永遠に思える悦楽を味わった後、その者は柔らかな寝具に身を横たえた。
 呼吸を荒げながら首を巡らせれば、部屋の隅には愛しい同盟者が座している。
 一糸纏わぬ姿で正座する同盟者に、その者は震える手を伸ばした。同盟者も手を伸ばし、空で二つの手指が絡み合った。
 そうしてその者は、再び同盟者に誓いを立てる。
 この背徳に彩られた快楽を代価に、必ず盟約を果たしてみせると。
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