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友宮の守護者編

風と水

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 ロングソードの周囲に集められた旋風が、横薙ぎの一閃によって解放された。空を切るという表現など生温い、号砲や雷鳴とでも言うべき轟音。地下空間内の、気圧と空気の密度が瞬間的に変化した証拠だった。
 そんなことを頭の中で思考する余裕すらなく、武神・建御名方タケミナカタが放った風の刀撃は、まさに疾風の速さで結城ゆうきたちに迫った。岩でさえ当てられただけで砕け散るその風は、人の身では到底耐え切ることはできない。結城と佐権院さげんいんは回避運動も取ることができず、凶風が目の前まで届くのを待つしかなかった。
 その横を、風にも劣らぬ速度で駆け抜ける一つの影があった。結城たちの前に出た影は、携えていた大型の円盾を地に叩きつける勢いで前面にかざした。
 それは結城たちに風が届くまで数瞬速かった。突き出された盾と、風の一撃が真っ向からぶつかり合った。
 強大な圧力が盾に襲い掛かり、使い手の足を地に埋もれさせる。唸り声を上げる風は、盾に遮られた分、結城たちの横を素通りし、岩壁を砕きながら空間の端まで吹き抜けた。
「うっ!」
「アテナ様!」
 神盾アイギスを持って結城たちを守った者―アテナは放たれた豪風を受けきると、低く呻いて膝をついた。そのただならぬ様子に、思わず結城は名を叫ぶ。
「無事……ですか、ユウキ」
 膝立ちになりながらもアイギスの構えを外さずに、アテナは背後の結城を見た。
 煤だらけで眼を瞑った媛寿えんじゅを抱えている結城。
 媛寿に関しては一種の体力切れのような状態と見て取れた。おそらく敵に対して『力』を使い過ぎたのだろう。
 だが、結城についてはより深刻だった。片側の肋骨が全て折れてしまっている。吐血していないところを見ると、肺が傷付くことだけは避けられたようだった。
 本人に重症の自覚がないのは、アテナが結城に施した『戦女神のキス』によって、痛覚の緩和と身体能力の向上が付与されていたからだ。本来なら歩くことさえ難しいはずの負傷だった。
 とはいえ、すぐにでも治療が必要な状態ではある。アテナはこのまま結城たちを連れて脱出を図りたいところだったが―――
「ところで、アレが呼び出された神なのですか?」
 アテナは剣を携えた肌襦袢の少女―里美さとみを指して問うた。
「神様じゃなくって、神様の怨念だけが来ちゃったってことみたいです」
「怨念とはいえ、写し身に近い。元の神と同等の力を持っています。アテナ様、油断されませぬよう」
 アテナの問いに結城と佐権院が交互に答えるが、それは脱出を試みようとしていたアテナにとって朗報とは真逆。単身で退却するなら逃げ果せることもできるだろうが、結城たちも連れてとあっては、確実に巻き添えにしてしまう。
(……戦うしか…ないようですね)
 原木本ばらきもととの肉弾戦と雷槍ケラウノスの一端を使ったことで、アテナの体力は二割以下ほどしか残っていない。さらに相手は日本の武神の怨念。怨念だとしてもホームグラウンドならば、全開の力を振るうことができる。明らかに分が悪い勝負だった。
 おまけに状況はアテナだけに留まっていない。結城と佐権院の怪我も浅くない。戦闘を開始したとして、長引けば命に関わる。そして、もし巻き込まれたりすることがあれば。
「!」
 アテナは雑嚢に目を向けた。神降ろしが成ってしまった以上、もはや使う用がなくなってしまったが、その中には本来の作戦に使用するはずだったアイテムが入っていた。それを使えば、結城たちの傷を瞬く間に完治させることができる。
 だが、目の前にいる神の怨念とやらが、そんな猶予を与えてくれるかどうか。
「WΠ1↑(何やってんだ! アテナ!)」
 一秒にも満たない逡巡のうちに、友宮里美は右手に構えた剣を振りかぶりながら、アテナ目掛けて斬りかかっていた。マスクマンの声で我に返った時には、すでにアイギスの前まで迫っていた。
「くっ!」
 咄嗟にアイギスを持ち上げ、振るわれる斬撃の軌道上に被せる。高く響く金属音を上げて、ロングソードの先端が折れて飛んだ。
 すかさず横形の放物線を描いてブーメランが飛来する。確実に里美の頸を捉えた投擲だったが、切り裂かれたのは残像の頸だけだった。
 マスクマンの攻撃を察した里美は、恐るべき反応速度と体捌きで後方に退いていた。
 その動きが止まったところを狙い、今度はシロガネが宙へ躍り出る。右手に日本刀、左手にツヴァイヘンダーを持った基本スタイルから、身体を中心に独楽のように回転して里美に迫る。
 刀剣の切れ味を最大限に活かし、なお且つ遠心力も味方につけたシロガネの得意技。
 里美はそれを先端の欠けたロングソードで相手取る。
 回転斬撃と横薙ぎの一閃が重なった直後、結城たちの後方にシロガネは飛ばされた。ともに弾かれた二本の刀剣と一緒になって、地に何度も体を跳ねさせる。
 建御名方を宿した里美の剣撃は、刃物の化身であるシロガネの能力を完全に上回っていたのだ。
 シロガネを退けた里美が再び前へ出ようとした時、地下空間に突如煙が発生した。
 正確には煙ではなく、灰色の雲だった。それはもくもくと拡がりながらも濃さを増し、あっという間に視界を奪ってしまった。
 誰しもが周りを知覚できない中、一切の迷いなく進行する者がいた。
 仮面の単眼を解放したマスクマンだった。地下空間内の塵と水分を利用して曇天を作り、敵の視覚を奪う戦法。あまり当人は好まない用法だったが、事が事だけに躊躇している暇はない。
 雲海に紛れ、接近して石斧を見舞うべく、マスクマンは里美に音もなく突進する。
 一寸先も見えない雲の中であっても、雨と雲の精霊であるマスクマンにとっては透き通った水面も同じだった。目標のすぐ手前まで差し掛かり、マスクマンは石斧を振り下ろす。
 眉間を割るはずだった石の刃は、硬い金属に衝突して途上で止まった。
 ロングソードの刀身が、力が乗る前の石斧の振り下ろしを受け止めていた。
 相手には決して見えていなかったはずの攻撃を止められ、マスクマンは驚愕する。その隙をついて、重いフロントキックがマスクマンの腹部に直撃した。
「ッ!」
 細身の少女の脚から繰り出されたとは思えない膂力で、マスクマンは結城たちのすぐ横の地面に叩きつけられた。
「シロガネ……マスクマン……」
 その力を熟知している仲間たちが、ただの一撃で倒されていく様に、結城は脳髄が冷えていく感覚さえ覚えた。
「まさに武神……戦いにおいて正面からでは勝てないのか……」
 佐権院も建御名方の力の一端を目の当たりにし、驚嘆を隠せない。
 シロガネとマスクマンを退けた里美は、再び横薙ぎの構えを取る。しかし、次に刀身に纏われるのは風ではない。マスクマンが使ったのと同様、地下空間に豊富にある水分を集めていく。
「水の……斬撃……」
 ロングソードに霧状の水分が巻かれて行く光景を見て、佐権院は目を見開いた。
 建御名方神タケミナカタノカミは諏訪湖の水神としての面も持つ。無論、水を利用した攻撃など造作もない。むしろ一番の得意分野と言える。
(これは……防げるでしょうか)
 アイギスを構えたままのアテナもまた、水による攻撃を予測していた。が、構えた状態から動くことはできない。先程、風の斬撃を防いだことで体力を奪われ、すでにアイギスを構えるだけで精一杯だった。
 アイギスならば、斬撃までは抑えることはできる。ただ、水による二次攻撃がどうなるか分からない。斬撃を防いでも、結城たちまで庇いきれないかもしれない。
(……こうなれば!)
 アテナは、いざとなれば無理をしてでも、アイギスの石化能力を発動する覚悟を決めた。
 そしてついに、水気を纏った剣が振り抜かれる――――――
「オオオオォン!」
 その一撃を、誰もが覚悟した瞬間、獣の遠吠えが空間にこだました。
 遠吠えの主に、全員の目が集中する。
 里美が括りつけられていた石柱の頂点。そこに今まで姿を見せていなかった虎丸とらまるが立っていた。
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