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#2 色褪せた地図
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――二年ほど前のことであった。母親の三回忌の夜。
親戚の者たちも帰り、急に静かになった茶の間で、おやじはめずらしく酔っ払っていた。
客たちが帰ったあと、湯飲み茶碗で、手酌しながら一人酒を飲んでいた。
「なぁ、はやいもんだな」
お客用に置いた大きめのテーブルの上に片肘をつきながらおやじは言った。
「ん?」
残りの片付けをしていた俺は、その言葉に振り向いた。
「それ、もう明日でいいから、おまえもこっちきて飲めよ」
「ああ」
こんなに小さく見えるおやじは初めてだった。テーブルの向かいに座って、おやじが酌してくれた酒を口にしながら、妙に寂しい空気が流れていたのを覚えている。
外でジーィーと鳴いていた夏の虫のせいかもしれない。
おやじは、母さんの思い出をとりとめもなく独り言のように喋り続けた。時間の流れを無視するようにそれは前後の脈略がばらばらで、急に話が飛んだかと思うと、また元の話に戻ったりした。
子供の頃の俺が登場する話もあれば、結婚する前の話もあれば、おやじと母さんふたりだけの思い出の話もあった。
話の中には、俺も記憶しているものがあって、そんな話は、『懐かしいなあ』と思い出しながらおやじの話を黙って、軽く相づちのように頷きながら聞いていた。
そんな中で、はっと思いついたようにおやじが言った。
「そうだ!いいものを見せてやろう!」
そう言うなり酔っ払ったふらつく足でいきなり立ち上がったかと思うと、しばらくの間奥の部屋でごそごそとやっていたが、古い四角いお菓子の缶のようなものを持ち出してきた。
どこにしまっていたものだろう。見たことのない缶だった。もしかして母さんの遺品?小物入れの代わりにでもしていた缶なのだろうか?
そんなことを漠然と考えていたら、おやじが缶の蓋を開けながら言った。
「これだ、これ。これがな、父さんと母さんの思い出の宝箱なんだ」
おやじが急に幼く見えた。
小さな子供が、おもちゃや、がらくたを集めて箱に詰めて、大人たちに自慢するようにはしゃいでいる。そんな風な表情に見えた。
缶の中には、写真やら何かの紙切れやらが無造作に折り重なって入っていた。
そんな中から、おやじは四角く折りたたんだ一枚の紙を取りだしてテーブルの上に広げて見せた。
それは、A3ぐらいの大きさで、色褪せた折り目がところどころ破れかけている地図だった。
おやじは、うつむき加減で、まるで昔に帰るのをじっと待っているかのように、無言でその地図をしばらく眺め入っていた。
そして、湯飲み茶碗の底に残っていたわずかばかりの酒を一気に飲み干しておやじは喋り始めた。
俺は、空になったおやじの茶碗に酒を注ぎながらその話を聞き始めた。
「あれは、父さんたちが結婚する一月ぐらい前だったかなあ……もう少し前だったかもしれんなあ……
二人で山を登りに行ったんだ。山と言ってもそれほど高いところじゃなくて、初心者でも気軽に登れるくらいのところを選んで……。
母さんが初めてだったからなあ。俺は学生の頃から好きでよく山登りはしてたんだけどな、母さんは登ったことがなかったから……。
俺が登った山の話をすると、『行きたい、行きたい、自分も連れて行け』って、よく言われていたんだ。でも、慣れた俺たちが登るところと、初心者の女の子が行けるようなところは違うからな……なんとなく、ずるずると延び延びになっていたんだ……でも、結婚する前に一度は連れて行ってやりたかったんだ。それで、母さんも登れそうな山を選んで、二人だけで登りに行ったんだ。
時間をかけて、休みながらゆっくり登れば、初心者の女の子でも登れるような高さの山を選んでな。
いい山だよ。そこは。山頂まで登れば、景色が開けていて、まわりの山の連なりも見えて、とてもきれいなんだ。山登りがほんとに楽しいって思える場所だよ。つらい思いをせずに登れる山なんだ」
そう言いながら、おやじは顔を赤らめてわずかに微笑んだ。酔って紅潮しているんだろうけど、なんだか、はにかんで頬を染めているようで、また、おやじの顔が幼く見えた。
「結婚前のなあ、独身時代最後の二人の思い出づくりだって、母さんも行く前から喜んでくれていてな……登る当日もずいぶん楽しそうだった……」
おやじは、そこまで話して一息つくと、また酒で喉を潤した。その時のおやじは、外で遊んできた報告を夢中で喋っている子供のような表情をしていて、『おやじもこんな顔をするんだなあ』と、自分の父親の顔とは思えない表情に、今まで知らなかった表情に、見ているこちらもなんだか気恥ずかしかったような印象が残っている。
「登るときも途中、何度も何度も休みながら登ったよ。舗装してある道路から山道に入るとな、ごつごつした大きめの石が道に埋まっていることもあってな、そういうの踏むたびに母さんが痛がるもんだから、ほんとに登っているより休んでる時間の方が長く感じたもんさ。でも、痛がってるわりには母さんも楽しそうだったよ。まあ、登山ていうのはそういうもんだけどな。辛いって思うことが楽しい、みたいな。そんなものなんだ。
それからな……山から下りてくる人と時々すれ違うんだけど、すれ違う人みんなが、『こんにちわ~』とか、『がんばってくださ~い』とか声かけてくれて、道の端に避けてくれるもんだから、母さん、それに感動しちゃって、『山登りする人はみんな親切でいい人ばっかりなんだね!』って言ってにこにこ笑っててな……一応、登山のマナーだからって教えてあげたりして……『それでも、みんな笑顔で挨拶してくれるからうれしい』って言って……そんな話をしながら登ってたんだ。
予定よりは少し時間がかかって……尾根の道に辿り着いた時には、母さんがほんとに喜んでなあ……『こんな景色初めて見た!』って。山のてっぺんって、ほんとにとんがっているんだぞ。知ってるか?尾根の道は幅が一メートルもないぐらいで、両端は崖で、なんていうのかなぁ、四角錐のてっぺんがまっすぐ道になっているみたいな……そこから見る景色は登らないと見えない風景だからなあ……登ったものだけが味わえる特別な景色なんだ。それを見て、母さん喜んでくれたんだ、『足が痛かったの忘れちゃった』って言ってな。
その尾根の道から少し逸れて下ったところに滝があるんだけど、その山の名所になっている滝で、最初の目的地はそこを目指していたんだ。滝壺のすぐ近くまで山道が続いていて、上から落ちてくる滝を見上げることができるんだ。条件がいいと小さな虹が滝の途中にかかっているように見えることもあって、それも母さんに見せたくてな、この山を選んだもう一つの理由がこの滝だったんだ。
(続く)
親戚の者たちも帰り、急に静かになった茶の間で、おやじはめずらしく酔っ払っていた。
客たちが帰ったあと、湯飲み茶碗で、手酌しながら一人酒を飲んでいた。
「なぁ、はやいもんだな」
お客用に置いた大きめのテーブルの上に片肘をつきながらおやじは言った。
「ん?」
残りの片付けをしていた俺は、その言葉に振り向いた。
「それ、もう明日でいいから、おまえもこっちきて飲めよ」
「ああ」
こんなに小さく見えるおやじは初めてだった。テーブルの向かいに座って、おやじが酌してくれた酒を口にしながら、妙に寂しい空気が流れていたのを覚えている。
外でジーィーと鳴いていた夏の虫のせいかもしれない。
おやじは、母さんの思い出をとりとめもなく独り言のように喋り続けた。時間の流れを無視するようにそれは前後の脈略がばらばらで、急に話が飛んだかと思うと、また元の話に戻ったりした。
子供の頃の俺が登場する話もあれば、結婚する前の話もあれば、おやじと母さんふたりだけの思い出の話もあった。
話の中には、俺も記憶しているものがあって、そんな話は、『懐かしいなあ』と思い出しながらおやじの話を黙って、軽く相づちのように頷きながら聞いていた。
そんな中で、はっと思いついたようにおやじが言った。
「そうだ!いいものを見せてやろう!」
そう言うなり酔っ払ったふらつく足でいきなり立ち上がったかと思うと、しばらくの間奥の部屋でごそごそとやっていたが、古い四角いお菓子の缶のようなものを持ち出してきた。
どこにしまっていたものだろう。見たことのない缶だった。もしかして母さんの遺品?小物入れの代わりにでもしていた缶なのだろうか?
そんなことを漠然と考えていたら、おやじが缶の蓋を開けながら言った。
「これだ、これ。これがな、父さんと母さんの思い出の宝箱なんだ」
おやじが急に幼く見えた。
小さな子供が、おもちゃや、がらくたを集めて箱に詰めて、大人たちに自慢するようにはしゃいでいる。そんな風な表情に見えた。
缶の中には、写真やら何かの紙切れやらが無造作に折り重なって入っていた。
そんな中から、おやじは四角く折りたたんだ一枚の紙を取りだしてテーブルの上に広げて見せた。
それは、A3ぐらいの大きさで、色褪せた折り目がところどころ破れかけている地図だった。
おやじは、うつむき加減で、まるで昔に帰るのをじっと待っているかのように、無言でその地図をしばらく眺め入っていた。
そして、湯飲み茶碗の底に残っていたわずかばかりの酒を一気に飲み干しておやじは喋り始めた。
俺は、空になったおやじの茶碗に酒を注ぎながらその話を聞き始めた。
「あれは、父さんたちが結婚する一月ぐらい前だったかなあ……もう少し前だったかもしれんなあ……
二人で山を登りに行ったんだ。山と言ってもそれほど高いところじゃなくて、初心者でも気軽に登れるくらいのところを選んで……。
母さんが初めてだったからなあ。俺は学生の頃から好きでよく山登りはしてたんだけどな、母さんは登ったことがなかったから……。
俺が登った山の話をすると、『行きたい、行きたい、自分も連れて行け』って、よく言われていたんだ。でも、慣れた俺たちが登るところと、初心者の女の子が行けるようなところは違うからな……なんとなく、ずるずると延び延びになっていたんだ……でも、結婚する前に一度は連れて行ってやりたかったんだ。それで、母さんも登れそうな山を選んで、二人だけで登りに行ったんだ。
時間をかけて、休みながらゆっくり登れば、初心者の女の子でも登れるような高さの山を選んでな。
いい山だよ。そこは。山頂まで登れば、景色が開けていて、まわりの山の連なりも見えて、とてもきれいなんだ。山登りがほんとに楽しいって思える場所だよ。つらい思いをせずに登れる山なんだ」
そう言いながら、おやじは顔を赤らめてわずかに微笑んだ。酔って紅潮しているんだろうけど、なんだか、はにかんで頬を染めているようで、また、おやじの顔が幼く見えた。
「結婚前のなあ、独身時代最後の二人の思い出づくりだって、母さんも行く前から喜んでくれていてな……登る当日もずいぶん楽しそうだった……」
おやじは、そこまで話して一息つくと、また酒で喉を潤した。その時のおやじは、外で遊んできた報告を夢中で喋っている子供のような表情をしていて、『おやじもこんな顔をするんだなあ』と、自分の父親の顔とは思えない表情に、今まで知らなかった表情に、見ているこちらもなんだか気恥ずかしかったような印象が残っている。
「登るときも途中、何度も何度も休みながら登ったよ。舗装してある道路から山道に入るとな、ごつごつした大きめの石が道に埋まっていることもあってな、そういうの踏むたびに母さんが痛がるもんだから、ほんとに登っているより休んでる時間の方が長く感じたもんさ。でも、痛がってるわりには母さんも楽しそうだったよ。まあ、登山ていうのはそういうもんだけどな。辛いって思うことが楽しい、みたいな。そんなものなんだ。
それからな……山から下りてくる人と時々すれ違うんだけど、すれ違う人みんなが、『こんにちわ~』とか、『がんばってくださ~い』とか声かけてくれて、道の端に避けてくれるもんだから、母さん、それに感動しちゃって、『山登りする人はみんな親切でいい人ばっかりなんだね!』って言ってにこにこ笑っててな……一応、登山のマナーだからって教えてあげたりして……『それでも、みんな笑顔で挨拶してくれるからうれしい』って言って……そんな話をしながら登ってたんだ。
予定よりは少し時間がかかって……尾根の道に辿り着いた時には、母さんがほんとに喜んでなあ……『こんな景色初めて見た!』って。山のてっぺんって、ほんとにとんがっているんだぞ。知ってるか?尾根の道は幅が一メートルもないぐらいで、両端は崖で、なんていうのかなぁ、四角錐のてっぺんがまっすぐ道になっているみたいな……そこから見る景色は登らないと見えない風景だからなあ……登ったものだけが味わえる特別な景色なんだ。それを見て、母さん喜んでくれたんだ、『足が痛かったの忘れちゃった』って言ってな。
その尾根の道から少し逸れて下ったところに滝があるんだけど、その山の名所になっている滝で、最初の目的地はそこを目指していたんだ。滝壺のすぐ近くまで山道が続いていて、上から落ちてくる滝を見上げることができるんだ。条件がいいと小さな虹が滝の途中にかかっているように見えることもあって、それも母さんに見せたくてな、この山を選んだもう一つの理由がこの滝だったんだ。
(続く)
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