悠久の栞

伽倶夜咲良

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#1 目指す場所

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 二時間あまりをかけて男は尾根に通じる細い山道さんどうを登ってきたが、大きく右にまわりこんで登りきったところで突然にその視界が開けた。
 そこはもう山頂。左右に広がる尾根の連なりが見渡せる場所だった。
 山道さんどうを出てすぐのところに、長年風雨にさらされていたことがありありと窺える木造きづくりりの案内板が立てられていた。
 右の矢印は穀物の神様が祀られているという神社を指しており、左の矢印は、この山の名所のひとつともなっている滝を示している。矢印の下に、そこまでの距離が書かれていたので、目を凝らして見てみたが文字の擦れがひどくて読み取ることはできなかった。

 男は、肩で呼吸いきをしながらしばらく案内板を眺めていたが、ここまで来れば探している場所まではもうそれほどでもないだろうと思いながら、滝の方へ足を進めた。
 方向は間違いない。
 何度も地図で確かめてすっかり頭の中へ入っている。まったく地図のとおりだ。
 しかし、おやじが話していたあの時からかなりの年月が経っているというのに、その頃の地図から何も変わっていないというのは不思議な感じだった。
 自然というのは偉大なものなんだなあ、と、そんな当たり前のことをぼんやり考えながら男は尾根の道を進んだ。
 尾根の道は一メートル足らずの幅しかなく、その両側は深い谷間となって落ち込んでいる。尾根の少し下までは岩肌が見えているが、谷間のほとんどは手入れされている様子もなく鬱蒼とした雑木林が下から伸びてどこまでも続いているように見えた。
 男は、こういう場所に立つのは初めてだったが、まるで、ものすごく巨大な平均台の上をバランスを取りながら歩いているような変な感じだった。

 しばらく進むと、両端が切り立った尾根は少し下り勾配となり、道の左側には別の山肌が迫り、右側はこれまでと同じような切り立った崖になっている山道へと景色が変わっていった。
 山道を少し入ったところで、左側の斜面から突き出すような形で大きな岩がせり出しているのが見えた。
 腰を降ろすのにちょうどよさそうだ。
 そう思って、男はそのせり出した岩に腰をかけ、しばらく休むことにした。
 背中のデイパックを降ろして、小型の保冷バックを取り出し、その中から用意してきた350mlの缶ビールを一つ手に取った。そして、プルタブを引き開けた。
 背中で揺れてきたせいなのか、気圧が低いせいなのか、ビールの泡がプシュッ!と、勢いよく吹き出した。鼻の頭にかかった泡を手の甲で拭いながら、ごくごくと一気に喉の奥へとビールを流し込んだ。
「うまいっ!」という一言が思わず口から漏れた。
 食道を通って胃の中へ拡がっていくビールの泡のはじけるような感じが何とも言えず心地よかった。
 冷蔵庫から取り出したばかりのようにキンキンに冷えているというわけではなかったが、そんなことは帳消しにしてくれる多くのものがここにはあった。
 身体から噴き出してくる汗。
 肌にその圧力を感じられるほどのカラッとした日差し。
 風。空。雲。緑。鳥のさえずり。まわりを包む空気の匂い。
 そんな景色と、荒い呼吸が折り重なった絶妙のバランスが心地いい。
 男は、履いていたトレッキングシューズを脱いで足の裏を揉んだ。
 初めての山歩きだったので、靴の良し悪しもわからずデザインと価格だけで適当に選んだものだった。
 もう少し専門家に聞いて、本格的なものを選んでおけば、疲労感がもう少し和らいだのかもしれない。と、思いながら、踵から土踏まずへ、土踏まずから指の付け根の方に向かって手の親指で力を込めてしごくように何度も揉み上げた。
 今まで踏ん張っていた力が足の裏から、じわあっと、しびれるような感覚を伴って抜け出していくようだ。
 気持ちいい。
 初夏のこの季節に来たのは正解だった。
 清涼な空気の流れが谷間から吹き上げてきて、そのまま男を撫でるように巻き込んで、反対側の斜面に駆け上っていく。
 Tシャツに沁みた汗が冷たく冷える。
 蒼い空を背景に切れ切れの薄い膜のような白い雲が流れていく。
 眼下の雑木林のわずかに開いた隙間からところどころに見える林道は、先ほど入ってきた登山道の入り口からつながる道なのだろうか?
 登ってきた山道は深い木々の枝葉に埋もれて見ることはできない。
 谷間は次の山の稜線へと続き、その稜線はまた深い谷間へと落ちていく。
 そうした山々の連なりが遙かな先へと広がっていく。
 何種類もの鳥や、虫の声が風に運ばれてきて、どのあたりで鳴いているのかさえ判別することはできない。
 緑の色合いがこれほど変化にとんでいるものとは考えてもみなかった。草木くさきの枝葉どれ一つをとってみても、同じ緑など存在しなかった。
 山と山の間に挟まれるようにして、下の方の、遠くに小さく見える集落の屋根の一部が日差しに反射してきらりと光った。
 男はまたビールを流し込んだ。
 缶を右手の地べたに置いてその脇をふっと見ると、今腰をかけているせり出した岩に、身体を寄せるようにして咲いている一輪の首のひょろっと長い、白い花弁の花が目にとまった。
 摘んで匂いを嗅ごうかと手を伸ばしたが、思い直して鼻を近づけることにした。他愛もないセンチメンタルが自分でもおかしくてついつい顔がほころんでしまう。そして、センチメンタルという今時あまり耳にしなくなった言葉を思いついたことにまた苦笑してしまった。
 男が顔を上げるのとほぼ同時に、どこからか一匹の小さな蜂が飛んできて、二三度その花のまわりをくるくると回っていたが、またどこかへ飛んでいってしまった。
 見えなくなった蜂から視線を戻すと、男はデイパックから一枚の地図を取り出した。
 それは、破れかけた折り目をセロハンテープで補強してあるような、その紙の色も色あせてセピア色にまだらになった、見るからに古ぼけた粗末な地図だった。
 丁寧に、こわれものを扱うようにして膝の上に広げると、一本の海老茶色の線が、とある道をなぞって引かれていた。
 この地図に引かれた線も、元は赤い色のサインペンで書かれたものだろうが、退色して滲んだようにぼやけたものになっていた。
 まるで、お伽話に出てくる宝の在処ありかを記された地図のようであった。
 男は、その線でなぞられた道を目で追いながら思い出していた。


(続く)
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