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50話

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 警察からの聴取、それから病院。
 全部が終わる頃には、もう日付が変わる頃だった。

「怪我、大丈夫ですか?」

 夜道を歩きながら、颯介が心配そうに僕の右頬に視線をやってきた。僕は「うん」と湿布が貼られた頬を押さえてみせて、

「見た目ほど酷くないよ。お医者様から“体が丈夫なんだね”って驚かれた」

とふざけて笑ってみせる。自分のせいでこうなって、自分のせいで颯介に心配もかけたのだ。これくらい“平気だ”って言ってみせないと。
 軽やかに降ってきた雪が、鼻先へと落ちる。痛みで熱い体には、その冷たさがちょうどいいから、このまま傘を差さなくていいかな、と思った。けれど颯介が折り畳み傘を差してきたから、身体を寄せて頭だけでも入るようにする。

「検査してさ」
「はい」
「身体にも異常ないって言われて、それで、その」

 病院で言われたことを思い出す。颯介は待合室にいたから、僕とお医者様の会話を知らない。だからこそ、自分の口から話すのが少し恥ずかしくて、でも言いたい気持ちもあって、口だけがもごもごと動いてしまう。

「紅羽さん」

 見かねた颯介が立ち止まり、僕と正面から向き合った。出ているほうの肩には雪が少し積もっていたから、それを払ってやりながら「ど、どした」と動揺を隠せないまま聞いた。

「俺の匂い、わかります?」
「……うん」

 今ならわかる。
 前から嗅いでいたこの香りが、颯介のものだってはっきり言える。甘くて、僕を惹きつけて、離してほしくなくなるような、そんな優しい香り。

「俺もわかります。紅羽さんの匂い」
「あ、えと、つまり僕、その」

 そう。僕はβではなくなった。だから、今なら颯介と、と言いかけて、

「ま、生ゴミ臭やばいんですけどね」

とわざとらしく口元を押さえた颯介に「このノンデリαが!」と吐き捨てた。そんな悪態にさえ颯介が幸せそうに笑うものだから、僕はそれ以上を言えなくなってしまう。

「それで紅羽さん」
「なんだよ、ノンデリ」
「返事、まだもらってないんですが」
「う……」

 改めて聞くなよ、そんなこと。僕の答えくらい、わかってるくせに。でも、颯介があまりにも嬉しそうに微笑んで待ってるから、僕は赤くなった顔を隠すように、少しだけ俯いた。

「僕の、覚悟は……」
「はい」

 意を決して、背伸びをして、颯介に自分から唇を重ねにいく。生ゴミ臭いと言われたばかりだからすぐに離れたけど。

「運命ってやつを、僕は自分で選んだ。それじゃ、覚悟にならないか?」
「……はは」

 颯介がにやりと笑って、僕の額に軽く唇を寄せてきた。

「十分です。なら、これを受け取ってくれますね」

 そう言って、颯介は左手に鞄と一緒に持っていた袋を示す。僕は右手を伸ばして、その袋を受け取った。

「……ありがと」
「お礼を言うのは俺のほうです。それと紅羽さん、俺の右のポケット、ちょっと手入れてもらっていいですか?」
「ん? 右?」

 手が塞がっている颯介の代わりに、言われた通り、ポケットに手を突っ込んだ。指先にコツンと何か固いものが触れる。颯介を見上げれば、目で“どうぞ”と言われた気がして、僕はそれを摘んでポケットから手を出した。

「颯介、これ……!」

 ダイヤのついた指輪。見間違いどころか見覚えしかない。元カノに渡そうと用意して、でも颯介が取り上げてしまったあの指輪だ。

「まだ持ってたのか。売ったかと思った」
「俺にだって人の心くらいありますが?」
「あったんだ」

 摘んだ指輪は、買った時と変わらない輝きを放っている。これ高かったなぁなんて感慨に浸れるくらい、今の僕には、これはもう必要のないものになっていた。

「……よし」

 指輪を自分のポケットに放り込み、僕は足取り軽く先に歩き出す。雪が頭に降りかかる。それでも構わず歩き続ければ、慌てた様子の颯介が、僕の隣に並んで傘を差し出してきた。

「ちょっと紅羽さん、いきなりどうしたんですか」
「焼き肉、行かないか? 明日でも、明後日でも、なんならいつでもいい」
「はぁ……?」

 颯介は素っ頓狂な声を上げたけれど、話を聞く気はあるのか、話を遮ってはこなかった。

「これ売ってさ、焼き肉行きたいなって」
「でもそれ、努力の結晶とか言ってませんでした?」
「そうだな」

 否定はしない。三ヶ月分だからな。そこらのものより高い買い物だった。ちなみに指輪のサイズは、たぶん七号だろうという理由で七号にした。今思えば最低だな、僕。

「努力の結晶だから、自分へのご褒美代わりに、焼き肉代として消えてもらおうと思って。てことで颯介、売りに行くの付き合え。十万ぐらいで売れるんじゃないか?」
「付き合うのは構いませんが……」

 颯介が少し考え込む。元カノの指輪を売るのに引いてるのだろうか。

「失礼ですがその指輪、そんな高値で売れるとは思えなくてですね」
「え!?」

 ポケットに仕舞ったばかりの指輪を取り出し、空にかざすようにして眺める。ダイヤだぞ? プラチナだぞ?

「ちなみに紅羽さん、三ヶ月分ってどれぐらいですか……?」

 颯介の目がだいぶシラケている。なんだ、僕、また何か変なことでも口にしたのか? 指輪をポケットに入れ、僕は一年近く前の記憶を手繰り寄せる。

「え、と、生活費を差し引いて、月五万」
「つまり十五万」
「……何か言いたそうだな」
「いえ。精々二万で売れればいいほうじゃないですかね」
「二万!?」

 今度は僕が素っ頓狂な声を上げた。いやいや、十五万だぞ。せめて半分、いや五万ぐらい……。がっくりと肩を落とす僕に、颯介がさらに追い打ちをかけてくる。

「指輪なんてそんなもんです」
「……世知辛いな」
「いいんじゃないですか。二万あれば、食べ放題の一番いいコース、ニ人分くらいいけますよ」
「なんで僕へのご褒美なのに、颯介の分も出さなきゃいけないんだ」
「ケチですね」

 そんな他愛ない会話でも、隣に颯介がいれば楽しいし、幸せになる。これからもずっと、こんな日々が続けばいい。
 でもとりあえずは、帰ったらシャワーを浴びたい。切実に。
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