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一ノ瀬紅羽の場合

29話

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 薄暗くなった空からは、雨が降り始めていた。
 そういえば、颯介、傘持っていったっけ? いつもの鞄片手に「いってきますね」と出ていった後ろ姿を思い出す。
 開けっ放しの収納ボックスから颯介のパーカーを引っ掴んで、シャツの上から着込んだ。見つけた折り畳み傘を右手に持って、慌てて靴を履いて、渡された合鍵で鍵をかけて、会社に向かって走り出す。

「……っ、ぅ……!」

 なぁ、颯介。一目惚れって言ってたよな。それって一体いつなんだよ。僕、お前の口からそれを聞いてない。勝手にあの居酒屋の日を言ってるもんだと思ってたよ。
 なぁ、なんで傘を今でも持ってるんだよ。返すタイミングなんて、この数ヶ月いくらでもあっただろう。僕が忘れてると思ってたのか? そう思われてたことが、僕は一番悲しい。

「はっ……、はあっ」

 息が上がる。
 折り畳み傘を持っているのに、雨の中、差さずに走る僕の姿はとても滑稽に見えるだろう。
 それでも、僕はこの傘を、あいつに渡したかった。

 遠目に会社が見えてきた。
 スーツを着たリーマンと多くすれ違う。
 中には同僚もいたはずだけど、今の僕には正直どうでもよかった。
 会社のエントランスで、空を憂鬱そうに見上げる颯介がいる。

「……ぅ、け……っ」

 息が切れた状態じゃ声が出ない。
 でも言わないと。呼ばないと気づいてもらえない。

「そ……っ、すけ……、そーすけ!」
「え? 紅羽、さん?」

 驚きで目を丸くする颯介の前に立って、とりあえず上がってしまった息を整える。隣を通り過ぎるリーマンたちは、次々に傘を差して帰路へとついている。

「か、傘、お前、持ってってなかったって思い出して……」

 自信満々に折り畳み傘を差し出す。颯介はそれに目を見開いてから「ちょ、ちょっと」と頭を抱えて小さく息を吐いた。

「えぇと、そう、ですね。とりあえず、紅羽さ……先輩がその傘を使ってください」
「へ?」

 折角持ってきたのに、こいつは何を言ってるんだろう。首を傾げる僕を横に、颯介は鞄から小さな筒状の物体を取り出すと、器用に片手でカバーを外しだした。

「は、ああああ!?」

 棒を伸ばしたそれは明らかに傘で、それを見た僕からは怒りの雄叫びがつい上がってしまう。

「おい! それはどういうことだ!? 僕が傘を持ってきた流れはどうするんだよ!」
「わかったんで、ちょっと落ち着いて……」
「落ち着けるか、馬鹿! 颯介なんか――」

 濡れながら走ってきた僕は一体なんだったんだ。涙ぐみながらキッと颯介を睨めば、颯介は小さくため息をついてから「少し、黙ってくれません?」と怒りを含んだ声で見下ろしてきた。

「……はい」
「流石にここじゃ目立つんで、家に帰りましょうか」
「はい」

 言われるままに僕も傘を開いて、来た道を二人で歩き出す。帰り道、ひと言も話さない颯介がやけに怖かった。

 家に帰り、僕は颯介に促されるままにシャワーを浴びた。空気がビリビリとひりつくようなあの感覚は、颯介が怒っていたり苛ついたりするとたまに感じるものだ。
 つまり、今颯介はすこぶる機嫌が悪い。絶対に僕のせいだ。いや、落ち着いて考えてもみろ。今僕は会社を休んでいる。その立場で会社まで行って、しかも颯介に罵声を浴びせるなんて馬鹿だろ。
 髪と身体をタオルで拭いて、用意してくれた颯介の服を着込んで、脱衣所からそっと顔を覗かせる。

「……」

 無言でキッチンに立って、今日の夕飯を作っている。カレーだ。僕が颯介に言われた通りに買ってきたからわかる。

「あの、颯介……」
「声、よかったですね」
「へぁ!?」

 あ。
 言われてみれば、普通に話せている。
 息しか出なかったのが嘘みたいだ。

「あ、え、と、ありがと……」
「あとは弱火で煮込んでからルウを入れるだけなんで……、少し話しましょうか」
「はい」

 コンロを弱めた颯介が先に部屋へ入る。気まずいながらもついていくしかなく、僕は颯介に示されるままベッドへと上がり正座をした。

「とりあえず、あれはどういう惨状ですか……」

 あれ、と視線で示されたのは、僕が中途半端に放り出した洗濯物たち。畳んでボックスに入れようと思ったのに、途中で颯介の匂いが嗅ぎたくなって、頭ごと突っ込んだあれだ。

「あの……、匂いが、その、いい匂いがして……。それで、頭から突っ込みました」
「それであれですか」

 半開きのボックスからは服や下着類が飛び出し、床にまで散乱している。ちなみにそれが玄関まで続いているものだから、颯介が怒るのも無理はない。

「め、面目ない」

 まともに颯介の顔も見れなくなって、申し訳なさから俯いた。頭の上から小さく息を吐く声が聞こえる。やっぱり駄目だよな。だって僕はβだ。Ωでもないのに、こんなこと……。

「……?」

 俯く僕の頭に、何かがふわりと被せられた。途端に鼻をくすぐる香りに顔を上げれば、颯介がネクタイを外して僕に被せていた。続けてYシャツも渡されて、僕は「なん、で?」と半泣きで首を傾げる。

「なんでって……。欲しくないなら洗濯しますけど」
「ほじい」

 鼻をすすって、渡されたシャツに顔を埋めた。鼻水がつくのも構わずにぐりぐりと顔を押し付ければ、愛しくて堪らない香りに頭がぼーっとしてくる。

「紅羽さん」
「ん……」

 名前を呼ばれて顔を上げれば、颯介が片膝をベッドに乗せて僕に近づこうとしていた。思わず尻もちをつくように逃げてしまって、そのまま壁に追い詰められてしまう。

「なんで逃げるんですか」

 顔の横に手が置かれ、いわゆる壁ドンみたいにされて逃げ場を塞がれた。

「は、恥ずかしい、から」
「今さら何を言って」
「だって僕はβだ……! こんな、こんな、Ωみたいなこと、おかしいだろ……」

 βなのにαと恋をして、βなのにΩみたいなことをして、βなのにβに馬鹿にされて。

「僕は一体なんなんだよ!? 変なんだ。ずっと、ずっとΩみたいで、僕はβなのに……」

 こんなこと颯介に言ってどうするんだよ。
 そうだ。傘、言わなきゃ。あの次の日、行けなくてごめんって。そういえばピアスどうしたんだ? 色々聞きたい。

「……俺はαですけど」
「ん……?」
「面倒くさかったんですよね。いっそのこと、不真面目になってやろうかと思って、髪染めたりピアス開けてみたりしたんです。ね、αらしくないですよね」

 にやりと笑ったその表情かおは、あの日見た意地悪なものと同じだった。

「αだからΩと、とか、βだからβと、とか、そんなの気にしなくていいと俺は思ってます。それでもあなたが、紅羽さんが気になるのなら」

 顎に手をやられ、そのまま軽く唇を合わせて、でもすぐに離れていく。

「俺が紅羽さんをΩにします。だから、俺と番になってください」

 どうやって、とか。
 今でも番だと言ってるのに、とか。
 気にしてるのは僕だけなのか、とか。
 でもそんなのは、もうどうでもいい。

「僕も……、なりたい。颯介と、番になりたい……っ」

 そう答えた僕の口を、颯介が、貪るように、噛みつくように、激しく塞いだ。
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