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19話

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 金曜日。
 朝日が昇った頃につけたテレビからは、変わらず今日も天気予報やスポーツ選手の活躍が流れているし、外からは学校に向かう子供たちの声が聞こえてくる。いつも通りの金曜日。
 僕だけを除いて。
 昨日、何があったっけ。
 残業してたら八重さんが来て、なんか背中を足蹴されて、痛くて、気持ち悪くて、それから途中で吐いたのは覚えてる。あれ? なんで吐いたんだっけ。

「……うっ」

 思い出したくないのに、身体はやけに鮮明に覚えているようで、脳裏に、あのねっとりとした笑みが浮かぶだけで震えが止まらない。
 あれからなんとか帰った僕は、シャワーを浴びながら、タオルで肌が真っ赤になるくらいに擦り続けた。匂いとか感触とかを全部洗い流したくて。それでも足りなくて、颯介用の布団と閉まってあった服や下着も全部引っ張りだして、それにくるまって一夜を過ごした。
 まるで颯介に包まれているようで、それは多少なりとも僕を安心させてはくれたけど、結局一睡も出来なかった。

「……っ」

 颯介、ごめん、ごめんな。大事にしてくれてたのに。もう合わせる顔がない。
 そうして横になったまま、どれくらいが経っただろう。スマフォの着信音が鳴って、誰からだろうと手に取って画面を見る。
 会社からだった。そういえば、休むって連絡してなかったな、とふと思い出した。

「……」

 今まで無断欠勤どころか、病欠もしたことがないというのに。無視しようかとも思ったけど、そこはやっぱり馬鹿真面目な僕のことで、一応電話に出ることにする

「……っ」

 だいぶ掠れた息が口から出る。名前を言おうとしても、声が出なかった。
 そんなこともお構いなしに、第一声は『どうした?』ではなく、部長の怒号だった。やれ昨日頼んだ仕事はどうしただの、今日来ないとお前の仕事が増えるだのとかで、体調に関しては何も聞いてこない。
 それに答えるのもなんだか馬鹿らしくて、僕はまだ部長が何か言っているのも構わず、通話を切った。

「……」

 もう、いい。もう、疲れた。
 身体は痛いし、怠い。特に酷いのが腰とうなじと尻だ。腰は力任せに掴まれたのか指の痕があったし、うなじは皮が抉れるぐらいに噛まれている。尻はずっと異物感が酷いし、お腹の調子だってなんだか悪い。
 助けてほしいのに、助けてほしくない。
 言いたいのに、言いたくない。
 どうすればいいのかわからなくて、僕は颯介の服を抱きしめたまま、ゆっくりと目を閉じた。



 いい香りがする。お肉を焼く匂い、かな。そういえば昨夜から何も食べてなかった。不思議なもので、ついさっきまで食欲なんてなかったのに、こうして料理の匂いと、油の音を聞いてるだけでお腹が空いてくる。
 ……料理?

「!?」

 閉じていた目を開ける。いつの間にか眠っていたのだろう。カーテンの隙間から入る日差しはオレンジ色だし、つけっぱなしにしていたテレビからは子供教育番組が流れている。それなりに寝ていたことに驚きながら、キッチンのほうに視線をやった。

「……」

 スーツの上着を脱いだ格好の颯介が、意気揚々とフライパンを振っている。
 まだ金曜だ。帰るのは土曜の午後じゃなかったか? 頭が回りきらないまま、身体を起こして、ぼんやりと颯介の後ろ姿を見つめ続けた。
 何か言わないといけないのに、声が出ない。まるで声の出し方だけを忘れてしまったみたいだ。

「あ。おはようございます、紅羽さん」
「……ぉ」

 『おはよう』が出てこない。互いの家に泊まって、その言葉は何度も言っているのに、口がパクパクと動いただけだった。けれど颯介は気にした様子も見せず「実は」とフライパンの火を止めて振り返った。

「向こうが早く終わったんで、昼過ぎに帰ってきたんです。会社に行ったら、今日紅羽さん休みだって聞いて、そのまま帰ってきちゃいました」

 風邪を引いたんだ、そう言って笑えればいいのに、僕は声どころか、表情のひとつすら動かせない。

「心配になって来てみたら、鍵が開いてて驚きました。ちゃんと閉めないと駄目ですよ」

 昨日また残業で帰りが遅くなって……、とふざけて言いたいのに、僕の目からは自然と涙が零れていく。

「そうやって見てると、まるで巣作りですね。服、足りました?」
「……?」

 聞き慣れない単語に首を傾げる。キッチンの台に寄りかかる格好で、颯介が嬉しそうに顔を綻ばせた。

「Ωって、発情期ヒートが近くなるとを作るんです。巣の材料が番や想い人の服なんで、着るものがなくなるみたいですよ」
「……」

 確かに言われてみれば、それに近いかもしれない。颯介の布団、服、下着、全部引っ張り出して、それを抱えていたのだから。Ωでもないのに。β、なのに。

「紅羽さん」

 名前を呼ばれて、肩がびくりと震える。
 会社に行ったってことは、昨日のこと知ってるのかな。颯介にだけは知られたくない、でも、その腕で抱きしめて、いつもみたいに頭を撫でてほしい。

「焼豚炒飯作ったんですよ。一緒に食べましょう? それとも」

 颯介が意地の悪い笑みを見せる。

「そのに、お招き頂けるんですか?」
「……っ」

 声はやっぱり出ない。
 それでも颯介に触れてほしくて、僕は両手を目一杯広げた。足早に来てくれた颯介が、僕を優しく、腫れ物でも扱うように抱きしめてくれる。

「ただいま、紅羽さん」
「っ」

 おかえり、と言いたいのに、僕の喉からは掠れた息しか出なかった。
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