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18話
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広い会社だ。そうそう会うこともないはず。そう考えていた時期が僕にもあった。
「紅羽クン、ちょっとええ?」
颯介が出張に行って四日目。小休憩時、なぜか僕の部署まで顔を出しに来た八重さんが、そう言って僕を呼び出した。もちろん断ろうと「嫌です」と言いかけたのに、部長が「八重くんじゃないか!」と興奮して、僕をさっさと廊下へと放り出した。
うなじの噛み跡は、日曜日と比べて多少薄くはなったけど、まだ健在だ。それでも見られないよう、なるべく勘付かれないよう、僕は八重さんに背中を向けないよう気をつけていた。
「なんで名前を知ってるんですか……」
「なんでってジブン、ネームプレート下げとるやろ?」
「……」
そうだった。八重さんも同じものをぶら下げていて、そこには八重順平とある。
というより、わざわざ階の違う部署までなんの用だというのか。自販機に向かって、自分の分のカフェオレだけ買ってひと口飲んだ。
「なァ、紅羽クンの番って颯介クン?」
「……」
誰が聞いてるかわからないし、ましてやここは僕の部署近く。僕がβなのは周知の事実で、いや、それよりも、僕と颯介がお付き合いしてるのは内緒にしているし、何を聞かれてもマズい状況だ。
「颯介クンから固く口止めでもされとるん?」
「……用がないなら仕事に戻ります」
カフェオレを飲み干しゴミ箱に入れる。番の確認だろうか。なら何も答えずに戻るのがいいに決まってる。
「……ジブン、βなんやってなァ?」
「っ」
弾かれたように八重さんを見上げる。僕を見下す目が、愉しそうな玩具を見つけたとばかりに輝いていた。
「ち、違いますよ。僕はΩで……」
「昨日やったかなァ、そのへんの子に聞いたんよ。紅羽クンの番おるんやねって。丁寧に教えてくれたで。紅羽クンはβやから番うわけないってなァ」
「ぁ……」
会わないようにしてれば問題ないと思ってたのに。
「βなのにやけにαの、颯介クンの匂いさせとるんやもん。気になるなァ。どうやってαを口説き落としたん? それとも、そんなにその身体がええんかなァ?」
八重さんの指が伸びてくる。それに寒気を感じて、指が触れる直前に叩き落とした。
「さ、触らないでください!」
「強気な子やねェ。そういうん、嫌いやないよ」
にたりと笑う八重さんが気持ち悪かった。
僕はもう相手が年上だとか先輩だとか気にする余裕もなくて、ただただこの場から早く離れたくて、逃げるように自分の部署へと戻っていった。
久しぶりに仕事が終わらなくて、定時で帰れなかった。お疲れ様と言いながら帰っていく同僚たちを見送りながら、どうせ早く帰ってもやることないしな、と小さく息をつく。眠気覚ましにコーヒーでも買うかと、いつも利用する自販機へ向かうかと椅子から立ち上がり。
「……八重、さん」
「おー、ほんまにおった。遅くまでお仕事お疲れさん」
無遠慮に入ってきた八重さんが、なんのためらいもなく僕のデスクへと歩み寄ってくる。
なんで八重さんがとか、ほんまにおったってどういう意味だとか、色々聞きたいことはあるけれど、とにかく離れないといけないと思って、慌てて颯介のデスク側へと回り込んだ。
「だってワイ、紅羽クンのお宅知らんし」
「知られても困ります、けど」
「気に障る匂いもだいぶ薄うなったし」
彼らが言う匂いがどんなものかは知らないけれど、最近颯介とは会っていないのだ。多少薄くはなってしまったのだろう。
じりじりと距離を詰められ、そのぶん距離を取りながら、自分のデスクを目指す。鞄を持って、とっとと帰ってしまおう。それが一番いい。
「う、わっ」
後ろ足で逃げていたせいか、引きっぱにしていた椅子に引っかかって床に倒れ込んでしまった。誰だよ、椅子をちゃんといれないやつは!
「紅羽クン」
「あ……」
尻もちをついた僕に、八重さんの影が被る。逆光でよく見えないはずなのに、八重さんが心底愉しんでいるのが伝わってくる。ライオンや熊に追い詰められた時って、こんなふうに動けなくなるのかな、なんてどこか呑気に考えてしまうから不思議だ。
「安心してええよ。ボク、男も女も経験あるから、うんとよくしてあげれるから」
「い、やだっ」
その言葉の意味を理解した僕は、身体を捻り、四つん這いになってでも逃げようとする。けれど背中を足で踏みつけられて、僕は床に這いつくばってしまう。そのまま体重をかけられ、背中からミシミシと骨が鳴った、気がした。
「逃がすわけないやん。αの力舐めたらアカンよ。颯介クンに教えてもらわんかったん?」
「知ら、ないっ」
颯介はいつでも優しくて、嫌がることはしなくて、僕の準備を待っててくれて。
そうだ、颯介、ずっと、ずっとずっと大事にしてくれたのに。
「嫌だ! 離せ! 離せったら!」
背中の痛みなんてどうでもよくなってきて、僕は全力で逃げようと、身体を起こそうとしてみたり、手足をバタつかせたりしてみたけど、αの馬鹿みたいな力に敵うわけがなかった。
やつのネクタイで腕を縛られて、無理やり両足を開かれた僕は、悲鳴と嗚咽、懇願も聞き入れてもらえないまま、やつを受け入れるしかなかった。
「紅羽クン、ちょっとええ?」
颯介が出張に行って四日目。小休憩時、なぜか僕の部署まで顔を出しに来た八重さんが、そう言って僕を呼び出した。もちろん断ろうと「嫌です」と言いかけたのに、部長が「八重くんじゃないか!」と興奮して、僕をさっさと廊下へと放り出した。
うなじの噛み跡は、日曜日と比べて多少薄くはなったけど、まだ健在だ。それでも見られないよう、なるべく勘付かれないよう、僕は八重さんに背中を向けないよう気をつけていた。
「なんで名前を知ってるんですか……」
「なんでってジブン、ネームプレート下げとるやろ?」
「……」
そうだった。八重さんも同じものをぶら下げていて、そこには八重順平とある。
というより、わざわざ階の違う部署までなんの用だというのか。自販機に向かって、自分の分のカフェオレだけ買ってひと口飲んだ。
「なァ、紅羽クンの番って颯介クン?」
「……」
誰が聞いてるかわからないし、ましてやここは僕の部署近く。僕がβなのは周知の事実で、いや、それよりも、僕と颯介がお付き合いしてるのは内緒にしているし、何を聞かれてもマズい状況だ。
「颯介クンから固く口止めでもされとるん?」
「……用がないなら仕事に戻ります」
カフェオレを飲み干しゴミ箱に入れる。番の確認だろうか。なら何も答えずに戻るのがいいに決まってる。
「……ジブン、βなんやってなァ?」
「っ」
弾かれたように八重さんを見上げる。僕を見下す目が、愉しそうな玩具を見つけたとばかりに輝いていた。
「ち、違いますよ。僕はΩで……」
「昨日やったかなァ、そのへんの子に聞いたんよ。紅羽クンの番おるんやねって。丁寧に教えてくれたで。紅羽クンはβやから番うわけないってなァ」
「ぁ……」
会わないようにしてれば問題ないと思ってたのに。
「βなのにやけにαの、颯介クンの匂いさせとるんやもん。気になるなァ。どうやってαを口説き落としたん? それとも、そんなにその身体がええんかなァ?」
八重さんの指が伸びてくる。それに寒気を感じて、指が触れる直前に叩き落とした。
「さ、触らないでください!」
「強気な子やねェ。そういうん、嫌いやないよ」
にたりと笑う八重さんが気持ち悪かった。
僕はもう相手が年上だとか先輩だとか気にする余裕もなくて、ただただこの場から早く離れたくて、逃げるように自分の部署へと戻っていった。
久しぶりに仕事が終わらなくて、定時で帰れなかった。お疲れ様と言いながら帰っていく同僚たちを見送りながら、どうせ早く帰ってもやることないしな、と小さく息をつく。眠気覚ましにコーヒーでも買うかと、いつも利用する自販機へ向かうかと椅子から立ち上がり。
「……八重、さん」
「おー、ほんまにおった。遅くまでお仕事お疲れさん」
無遠慮に入ってきた八重さんが、なんのためらいもなく僕のデスクへと歩み寄ってくる。
なんで八重さんがとか、ほんまにおったってどういう意味だとか、色々聞きたいことはあるけれど、とにかく離れないといけないと思って、慌てて颯介のデスク側へと回り込んだ。
「だってワイ、紅羽クンのお宅知らんし」
「知られても困ります、けど」
「気に障る匂いもだいぶ薄うなったし」
彼らが言う匂いがどんなものかは知らないけれど、最近颯介とは会っていないのだ。多少薄くはなってしまったのだろう。
じりじりと距離を詰められ、そのぶん距離を取りながら、自分のデスクを目指す。鞄を持って、とっとと帰ってしまおう。それが一番いい。
「う、わっ」
後ろ足で逃げていたせいか、引きっぱにしていた椅子に引っかかって床に倒れ込んでしまった。誰だよ、椅子をちゃんといれないやつは!
「紅羽クン」
「あ……」
尻もちをついた僕に、八重さんの影が被る。逆光でよく見えないはずなのに、八重さんが心底愉しんでいるのが伝わってくる。ライオンや熊に追い詰められた時って、こんなふうに動けなくなるのかな、なんてどこか呑気に考えてしまうから不思議だ。
「安心してええよ。ボク、男も女も経験あるから、うんとよくしてあげれるから」
「い、やだっ」
その言葉の意味を理解した僕は、身体を捻り、四つん這いになってでも逃げようとする。けれど背中を足で踏みつけられて、僕は床に這いつくばってしまう。そのまま体重をかけられ、背中からミシミシと骨が鳴った、気がした。
「逃がすわけないやん。αの力舐めたらアカンよ。颯介クンに教えてもらわんかったん?」
「知ら、ないっ」
颯介はいつでも優しくて、嫌がることはしなくて、僕の準備を待っててくれて。
そうだ、颯介、ずっと、ずっとずっと大事にしてくれたのに。
「嫌だ! 離せ! 離せったら!」
背中の痛みなんてどうでもよくなってきて、僕は全力で逃げようと、身体を起こそうとしてみたり、手足をバタつかせたりしてみたけど、αの馬鹿みたいな力に敵うわけがなかった。
やつのネクタイで腕を縛られて、無理やり両足を開かれた僕は、悲鳴と嗚咽、懇願も聞き入れてもらえないまま、やつを受け入れるしかなかった。
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