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17話
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『いってきますね』
颯介が出張に行く日の朝。
スマフォのメッセージアプリには、そう一言だけきていた。
簡単な返事をしてから、僕もいつも通りに出社の準備をして、鞄を持って、いつも通りの電車に乗る。満員とはまだ言えないけれど、それでもまだ混んでる時間帯だ。
先週、玩具を買おうとしていたのが颯介にバレた日。自分で練習しようとしていました、なんて恥ずかしいことを自分から説明させられた挙げ句、散々、こんな小さい玩具で練習したって無駄だとわからせられた。
案外心の狭いやつだ。昨夜なんて、泊まらないと散々言ってたくせに、終電近くまで僕の家に居座り、うなじをこれでもかというくらいガジガジ噛まれた。少しだけ痛い。でっかい絆創膏を貼りたいくらいだ。
「一ノ瀬くん、ちょっと頼まれてくれないかな」
隣のデスクの女性、須王さんが、少し遠慮気味に話しかけてきた。須王さんは、いつもぴったりとしたタートルネックを着て、肩まである髪を緩く巻いている人だ。僕より一年先に入社してると聞いたから、たぶん二十七歳。
「あ、はい、なんですか?」
椅子ごと身体を動かして、向き合うようにする。
「これ、営業課まで持っていってくれないかな」
何枚かの資料が入ったクリアファイルだ。
「営業課、ですか……」
「うん……。いつもは十三くんに頼んでるんだけど……」
須王さんが行きたがらないのもわかる。
営業課は所謂陽キャの集団で、僕みたいなド陰キャには眩しい課だ。毎週、他社の女性社員と合コンしてるなんて噂も聞く。
「わかり、ました。じゃ、早速行ってきます!」
僕だってノリ気じゃないが、女性を行かせるのも気が引ける。後輩の颯介に行けて僕が行けないなんてことはないはずだ。
ファイル片手に部署を出て、営業課へ向かうためにエレベーターへと乗り込む。上の階のボタンを押せば、下から上がってきたエレベーターが運良く止まった。
扉が開き、先客が乗っていたことに申し訳なさを感じながらも「失礼します……」と小さく頭を下げて乗り込む。階層のボタンを見れば、どうやらこの人も営業課に用があるらしい。“閉”を押して、先客に背を向けて扉が閉まるのを待つ。
「……臭いなァ」
「え。え?」
動き出したエレベーターの中には、僕と先客だけ。
臭いと言われるとすれば、僕しかいない。いたたまれなさに背中を丸くするようにして、営業課の階に着くのをひたすらに待つ。
「聞こえてへんかった? 臭い、言うたんやけどなァ」
「あ、はは……。おかしいですね、ちゃんとお風呂入ってるんですけど」
引きつった震える声でそれだけを絞り出して、片手で持っていたファイルを、縋るように両手で持ち直した。
「おもろいこと言うね、キミ」
ポーンと音がして扉が開く。早くこの空間から出たかったのに、腕を後ろに引かれてそれは出来なかった。
「な、何、するんですか!?」
「ンー」
ぐい、とスーツの首あたりを後ろに引っ張られ、僕の口から「ぐぇ」と蛙の潰れた声が出た。いや、そんなことより、苦しい。第一ボタン、さらにネクタイまで締めてるのに、それを無理やり引っ張られたら、息が、出来な――
「なァんや、番おるやん」
「げほっ、はあっ……、つがい……?」
噛み跡のことだろうか。颯介は確かにαだけど、僕は確かにうなじを噛まれてはいるけど、番関係じゃない。なれもしない。
「道理でワイに無反応なわけや。あー、つまらんなァ」
「え……、え?」
先客が“開”を押して扉を開く。まだ息も整わず、理解も追いついていない僕を残して、その先客は先にエレベーターを降りた。
「ほな、さいならァ」
降りる際、一階のボタンと“閉”を勝手に押して。
「はああぁ!?」
エレベーターは僕を乗せて、素直に一階へと向かっていく。なんだあいつは! 確か切れ長の目の、プリン頭の、ピアスつけてたやつ!
一階からまた営業課へ向かう頃には、もちろんあいつはどこにもいなかった。もちろん仕事が遅いと、久しぶりに部長に怒られた。
「なんっ、なんだよ、あいつは!」
帰宅後。就寝前に颯介と電話をして開口一番、僕はそう吐き捨てた。
『話が見えませんけど、また部長ですか?』
「部長じゃない。営業課に向かう途中で、なんか絡んできたやつ……」
ロフトベッドに寝転んで、近くなった天井に片手を伸ばしながらぼやく。
「臭いって言われた。ちゃんとお風呂入ってるのに……」
もちろん今日だって入った。なんなら念入りに洗った。見せる相手は出張中だけど。
『営業課……。他になんか言われました?』
「んー、番がどうのこうのって……」
僕と颯介じゃ番えないのにな、とはあえて言わなかった。それを口にしたら、なんだか僕と颯介の溝みたいなのを、自分から作ってしまう気がした。
『紅羽さん、その人はたぶん営業課の八重さんだと思います』
「八重……?」
なんだろう、聞いたことがあるような。
そうだ、女遊びが激しいって言われてた男性社員だった気がする。
「知ってるのか?」
『まぁ……、あの人、αなんで。特に八重さんは、他人のモノを欲しがる節があるみたいですから。紅羽さんが番持ちのΩだと思われてるなら、そっちのほうが都合がいいです』
「そ、そう、か」
颯介から“番”と言われ、胸が大きく高鳴る。例え本当にそうなれなくても、そう思ってくれているのがすごく嬉しい。
「……颯介」
いつもみたいに、甘える声で名前を呼ぶ。
颯介は『紅羽さん』と全てわかってるように答えてくれて『好きですよ』と囁くように言ってくれた。お腹の奥がきゅうっとなって、苦しくなって、僕は背中を少しだけ丸めた。
「……僕も、好き」
恥ずかしさで声がか細くなる。それでも伝わったのか、颯介は軽く笑ってから『おやすみなさい』と寝かしつけるように、優しく、甘く、囁いてくれた。
颯介が出張に行く日の朝。
スマフォのメッセージアプリには、そう一言だけきていた。
簡単な返事をしてから、僕もいつも通りに出社の準備をして、鞄を持って、いつも通りの電車に乗る。満員とはまだ言えないけれど、それでもまだ混んでる時間帯だ。
先週、玩具を買おうとしていたのが颯介にバレた日。自分で練習しようとしていました、なんて恥ずかしいことを自分から説明させられた挙げ句、散々、こんな小さい玩具で練習したって無駄だとわからせられた。
案外心の狭いやつだ。昨夜なんて、泊まらないと散々言ってたくせに、終電近くまで僕の家に居座り、うなじをこれでもかというくらいガジガジ噛まれた。少しだけ痛い。でっかい絆創膏を貼りたいくらいだ。
「一ノ瀬くん、ちょっと頼まれてくれないかな」
隣のデスクの女性、須王さんが、少し遠慮気味に話しかけてきた。須王さんは、いつもぴったりとしたタートルネックを着て、肩まである髪を緩く巻いている人だ。僕より一年先に入社してると聞いたから、たぶん二十七歳。
「あ、はい、なんですか?」
椅子ごと身体を動かして、向き合うようにする。
「これ、営業課まで持っていってくれないかな」
何枚かの資料が入ったクリアファイルだ。
「営業課、ですか……」
「うん……。いつもは十三くんに頼んでるんだけど……」
須王さんが行きたがらないのもわかる。
営業課は所謂陽キャの集団で、僕みたいなド陰キャには眩しい課だ。毎週、他社の女性社員と合コンしてるなんて噂も聞く。
「わかり、ました。じゃ、早速行ってきます!」
僕だってノリ気じゃないが、女性を行かせるのも気が引ける。後輩の颯介に行けて僕が行けないなんてことはないはずだ。
ファイル片手に部署を出て、営業課へ向かうためにエレベーターへと乗り込む。上の階のボタンを押せば、下から上がってきたエレベーターが運良く止まった。
扉が開き、先客が乗っていたことに申し訳なさを感じながらも「失礼します……」と小さく頭を下げて乗り込む。階層のボタンを見れば、どうやらこの人も営業課に用があるらしい。“閉”を押して、先客に背を向けて扉が閉まるのを待つ。
「……臭いなァ」
「え。え?」
動き出したエレベーターの中には、僕と先客だけ。
臭いと言われるとすれば、僕しかいない。いたたまれなさに背中を丸くするようにして、営業課の階に着くのをひたすらに待つ。
「聞こえてへんかった? 臭い、言うたんやけどなァ」
「あ、はは……。おかしいですね、ちゃんとお風呂入ってるんですけど」
引きつった震える声でそれだけを絞り出して、片手で持っていたファイルを、縋るように両手で持ち直した。
「おもろいこと言うね、キミ」
ポーンと音がして扉が開く。早くこの空間から出たかったのに、腕を後ろに引かれてそれは出来なかった。
「な、何、するんですか!?」
「ンー」
ぐい、とスーツの首あたりを後ろに引っ張られ、僕の口から「ぐぇ」と蛙の潰れた声が出た。いや、そんなことより、苦しい。第一ボタン、さらにネクタイまで締めてるのに、それを無理やり引っ張られたら、息が、出来な――
「なァんや、番おるやん」
「げほっ、はあっ……、つがい……?」
噛み跡のことだろうか。颯介は確かにαだけど、僕は確かにうなじを噛まれてはいるけど、番関係じゃない。なれもしない。
「道理でワイに無反応なわけや。あー、つまらんなァ」
「え……、え?」
先客が“開”を押して扉を開く。まだ息も整わず、理解も追いついていない僕を残して、その先客は先にエレベーターを降りた。
「ほな、さいならァ」
降りる際、一階のボタンと“閉”を勝手に押して。
「はああぁ!?」
エレベーターは僕を乗せて、素直に一階へと向かっていく。なんだあいつは! 確か切れ長の目の、プリン頭の、ピアスつけてたやつ!
一階からまた営業課へ向かう頃には、もちろんあいつはどこにもいなかった。もちろん仕事が遅いと、久しぶりに部長に怒られた。
「なんっ、なんだよ、あいつは!」
帰宅後。就寝前に颯介と電話をして開口一番、僕はそう吐き捨てた。
『話が見えませんけど、また部長ですか?』
「部長じゃない。営業課に向かう途中で、なんか絡んできたやつ……」
ロフトベッドに寝転んで、近くなった天井に片手を伸ばしながらぼやく。
「臭いって言われた。ちゃんとお風呂入ってるのに……」
もちろん今日だって入った。なんなら念入りに洗った。見せる相手は出張中だけど。
『営業課……。他になんか言われました?』
「んー、番がどうのこうのって……」
僕と颯介じゃ番えないのにな、とはあえて言わなかった。それを口にしたら、なんだか僕と颯介の溝みたいなのを、自分から作ってしまう気がした。
『紅羽さん、その人はたぶん営業課の八重さんだと思います』
「八重……?」
なんだろう、聞いたことがあるような。
そうだ、女遊びが激しいって言われてた男性社員だった気がする。
「知ってるのか?」
『まぁ……、あの人、αなんで。特に八重さんは、他人のモノを欲しがる節があるみたいですから。紅羽さんが番持ちのΩだと思われてるなら、そっちのほうが都合がいいです』
「そ、そう、か」
颯介から“番”と言われ、胸が大きく高鳴る。例え本当にそうなれなくても、そう思ってくれているのがすごく嬉しい。
「……颯介」
いつもみたいに、甘える声で名前を呼ぶ。
颯介は『紅羽さん』と全てわかってるように答えてくれて『好きですよ』と囁くように言ってくれた。お腹の奥がきゅうっとなって、苦しくなって、僕は背中を少しだけ丸めた。
「……僕も、好き」
恥ずかしさで声がか細くなる。それでも伝わったのか、颯介は軽く笑ってから『おやすみなさい』と寝かしつけるように、優しく、甘く、囁いてくれた。
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