上 下
1 / 70
本編

時間と電車とあの人と

しおりを挟む
「ふたばー、ふたばー」

 駅の伸ばし気味なアナウンスが響いた。もっとも音楽を聴くためイヤホンをしているのでその音が彼女の小さな耳に届くことはないが、真上に設置されているスピーカーを後ろのサラリーマンが憎々しげに見上げた。先頭の車両が風を巻き起こし長髪を舞い上がらせる。プシューッという音と共に銀のドアが開いた。通勤ラッシュではない、いた電車。
 彼女──磯崎いそざき 海月みづきは、この時間の電車が好きだ。
 同じ制服を着た女子が誰もいないことを確認し、安心したように海月は出入り口の横の壁に寄りかかった。そして耳に流れる音楽に集中する。
 『毎朝のルーティン』。そして海月の目の前に同じ学校の男子、制服のブレザーの刺繍の色からして先輩が乗っていることも『毎朝のルーティン』に近い。
 会話はいくら顔を合わせようとも生まれない。髪型が変わったことも分かるようになっても、自分に視線が向いていることが分かっていても、だ。
 いつものように彼は本を読んでいる。時たま変わるブックカバーの色は、今日は浅黄色だ。

「……名前、なんていうんですか」

 精一杯の質問を、今日も海月は言うことができない。
 ちらりと視線が向けられた。さりげなく逸らしはしたものの視線が逸らされることはない。
 ──ちくちく刺さってくるような視線に知らないふりをして、スマートフォンに視線を落とした。

***

「みづきーっ!」

 下駄箱で上履きに履き替え海月は教室のドアを開いた。クラスメートの大半が揃っており、海月の親友達は顔を上げるとふわりと顔を綻ばせた。
 無造作におろしているがさらりと揺れる短めな髪。日焼けした肌と細い足、ぱっちりと開いた大きな目がみずみずしい年頃の女子を思わせる。

「あ、凪沙なぎさ……おはよう」

 自分の名前を呼んだ大きな声に苦笑し、海月はスクールバッグを机の横に置いた。今日学校で一番に海月に呼びかけた少女の名前は、凪沙という。

「ねぇねぇっ、今日もいたの?」

 凪沙がニヤニヤと笑った。嘲笑っているのか、恋バナをしている女子特有の謎の笑いなのか、凪沙の表情はゆるゆるに緩みきっている。

「あ……うん。っていうか、いない方がおかしいかもね」

 ──あんまり、いなかったことってないかも。
 その言葉は口に出さなかったが、海月は記憶の中を洗い出した。

「出た海月のストーカー、なんならぶっ潰してやんよ。私の海月にその汚れた目を向けるなー!」

 正に『ぷんすか』という擬態語が、今の凪沙にはよく似合っている。

「いや、汚れてるってのは言い過ぎ……それにストーカーじゃないよ。決まった時間ってだけ」

 朝から乾いた笑いをさせられてばかりの海月は、凪沙のストーカー発言をきっぱりと否定した。
 しかし凪沙の考えは分からないものでもない。朝電車に乗る度に出会い帰りも大概は同じだ。彼女自身最初は『自分は何かしたか』と考えたが、入学式の時も同じだったことを考えると──という訳で海月は彼のことをストーカーではないと思っている。

「いや、それにしてもさぁ……」

 肩をすくめ食い下がる凪沙の背後から声がかかった。

「ストーカーではないにしても、イラつきはしますね」

 敬語の口調と黒縁の眼鏡、細身の長身が特徴的なもう一人の少女。凪沙とは対照的な白い肌、少し厚みを持っている眼鏡は大きな目を覆い目立たなくしている。三人の中で一番身長が高い。

「弓でますか」

 ニヤリと少女は口角を吊り上げた。意地の悪い笑みと言うよりはいたずらっぽいイメージを受ける。

「お、究極の目潰し? いいねぇ、流奈るなうまいしね、弓道。拳銃もやりそう」

 凪沙は依然としてにやついたままだ。

「確かに私はヤクザの孫ですが、それは偏見です。……まぁ喧嘩はできないわけではないですが」

 最後の一言だけ声色が低く変わった。

「だって藍咲でしょー? しかもあの有名な若頭たちの息子の娘でしょー? ヤクザじゃ──」

 ふざけているのか、凪沙はわざと語尾を伸ばしている。しかし冷たい何かをたたえた少女──流奈の瞳を視界に入れるとすぐにその笑みと口調を止めた。

「射殺して差し上げましょうか」
「い、いえ、結構です……」

 ニヒルな笑みを浮かべる流奈。弓道部に所属している彼女は中学二年生にもかかわらず中等部のエースの実力を誇っている。

「まぁ、拳銃も出来ないわけではないですが……肩を脱臼したくはないので、実際使ったことはないです」
「できるのかよ!」
「それできていいのっ!?」

 同時に突っ込んだ凪沙と海月。流奈は呆れかえったのか溜め息をつき呟く。

「冗談ですよ」
「う、うん……?」

 冗談ではないような声色だったような気もするが、ひとまず海月は納得することにしたようだ。

「そういえば、一限は体育ですね。幅跳びのようです」
「いよっしゃ!」

 凪沙がガッツポーズをした。

「……体育かぁ。憂鬱ゆううつー」
「脳筋の凪沙とは違って、海月は少し運動が苦手ですからね」

 弓道部に所属する流奈、陸上部に所属する凪沙とは異なり、海月は生粋の文化部、書道部である。活動は週に二日、完全なる趣味の集まりで新入生が入ること自体珍しい──その前に、部活があること自体珍しいという言わば『幽霊部活』だ。

「だーれが脳筋だってぇー!?」

 伸びをしていた腕をばっと降ろし、指をびしっと二人に向ける。

「凪沙に決まっているではないですか」

 今にも鼻で笑いそうな──というより笑っている流奈は凪沙を見下ろしている。凪沙は三人の中で一番背が低い。その為流奈とはそれなりの身長差があるのだ。

「きー!」

 漫画の世界であったならハンカチの端をくわえていただろう。ところどころ演劇のような仕草をしたり口調になったりするのが凪沙の癖。小学生の時は演劇クラブ所属だった。

「ふふっ、可愛い幼稚園生みたい」

 にやついてはいない海月は清楚な笑い声をあげている。

「うわー、馬鹿にされたあー! 三メートル飛んでやるこのやろー!」
「三メートルは私も飛べますよ。それに『野郎』は男を指す言葉ですし」
「……もういいや、早く行こ」

 言い返すことを諦めたのだろう、凪沙は体操着袋を取りにロッカーへと向かった。
 ホームルームが、もうすぐ始まる。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

「お前を妻だと思ったことはない」と言ってくる旦那様と離婚した私は、幼馴染の侯爵から溺愛されています。

木山楽斗
恋愛
第二王女のエリームは、かつて王家と敵対していたオルバディオン公爵家に嫁がされた。 因縁を解消するための結婚であったが、現当主であるジグールは彼女のことを冷遇した。長きに渡る因縁は、簡単に解消できるものではなかったのである。 そんな暮らしは、エリームにとって息苦しいものだった。それを重く見た彼女の兄アルベルドと幼馴染カルディアスは、二人の結婚を解消させることを決意する。 彼らの働きかけによって、エリームは苦しい生活から解放されるのだった。 晴れて自由の身になったエリームに、一人の男性が婚約を申し込んできた。 それは、彼女の幼馴染であるカルディアスである。彼は以前からエリームに好意を寄せていたようなのだ。 幼い頃から彼の人となりを知っているエリームは、喜んでその婚約を受け入れた。二人は、晴れて夫婦となったのである。 二度目の結婚を果たしたエリームは、以前とは異なる生活を送っていた。 カルディアスは以前の夫とは違い、彼女のことを愛して尊重してくれたのである。 こうして、エリームは幸せな生活を送るのだった。

溺愛されて育った夫が幼馴染と不倫してるのが分かり愛情がなくなる。さらに相手は妊娠したらしい。

window
恋愛
大恋愛の末に結婚したフレディ王太子殿下とジェシカ公爵令嬢だったがフレディ殿下が幼馴染のマリア伯爵令嬢と不倫をしました。結婚1年目で子供はまだいない。 夫婦の愛をつないできた絆には亀裂が生じるがお互いの両親の説得もあり離婚を思いとどまったジェシカ。しかし元の仲の良い夫婦に戻ることはできないと確信している。 そんな時相手のマリア令嬢が妊娠したことが分かり頭を悩ませていた。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!

ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、 1年以内に妊娠そして出産。 跡継ぎを産んで女主人以上の 役割を果たしていたし、 円満だと思っていた。 夫の本音を聞くまでは。 そして息子が他人に思えた。 いてもいなくてもいい存在?萎んだ花? 分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。 * 作り話です * 完結保証付き * 暇つぶしにどうぞ

夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします

希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。 国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。 隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。 「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

処理中です...