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本編
時間と電車とあの人と
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「ふたばー、ふたばー」
駅の伸ばし気味なアナウンスが響いた。もっとも音楽を聴くためイヤホンをしているのでその音が彼女の小さな耳に届くことはないが、真上に設置されているスピーカーを後ろのサラリーマンが憎々しげに見上げた。先頭の車両が風を巻き起こし長髪を舞い上がらせる。プシューッという音と共に銀のドアが開いた。通勤ラッシュではない、空いた電車。
彼女──磯崎 海月は、この時間の電車が好きだ。
同じ制服を着た女子が誰もいないことを確認し、安心したように海月は出入り口の横の壁に寄りかかった。そして耳に流れる音楽に集中する。
『毎朝のルーティン』。そして海月の目の前に同じ学校の男子、制服のブレザーの刺繍の色からして先輩が乗っていることも『毎朝のルーティン』に近い。
会話はいくら顔を合わせようとも生まれない。髪型が変わったことも分かるようになっても、自分に視線が向いていることが分かっていても、だ。
いつものように彼は本を読んでいる。時たま変わるブックカバーの色は、今日は浅黄色だ。
「……名前、なんていうんですか」
精一杯の質問を、今日も海月は言うことができない。
ちらりと視線が向けられた。さりげなく逸らしはしたものの視線が逸らされることはない。
──ちくちく刺さってくるような視線に知らないふりをして、スマートフォンに視線を落とした。
***
「みづきーっ!」
下駄箱で上履きに履き替え海月は教室のドアを開いた。クラスメートの大半が揃っており、海月の親友達は顔を上げるとふわりと顔を綻ばせた。
無造作におろしているがさらりと揺れる短めな髪。日焼けした肌と細い足、ぱっちりと開いた大きな目がみずみずしい年頃の女子を思わせる。
「あ、凪沙……おはよう」
自分の名前を呼んだ大きな声に苦笑し、海月はスクールバッグを机の横に置いた。今日学校で一番に海月に呼びかけた少女の名前は、凪沙という。
「ねぇねぇっ、今日もいたの?」
凪沙がニヤニヤと笑った。嘲笑っているのか、恋バナをしている女子特有の謎の笑いなのか、凪沙の表情はゆるゆるに緩みきっている。
「あ……うん。っていうか、いない方がおかしいかもね」
──あんまり、いなかったことってないかも。
その言葉は口に出さなかったが、海月は記憶の中を洗い出した。
「出た海月のストーカー、なんならぶっ潰してやんよ。私の海月にその汚れた目を向けるなー!」
正に『ぷんすか』という擬態語が、今の凪沙にはよく似合っている。
「いや、汚れてるってのは言い過ぎ……それにストーカーじゃないよ。決まった時間ってだけ」
朝から乾いた笑いをさせられてばかりの海月は、凪沙のストーカー発言をきっぱりと否定した。
しかし凪沙の考えは分からないものでもない。朝電車に乗る度に出会い帰りも大概は同じだ。彼女自身最初は『自分は何かしたか』と考えたが、入学式の時も同じだったことを考えると──という訳で海月は彼のことをストーカーではないと思っている。
「いや、それにしてもさぁ……」
肩をすくめ食い下がる凪沙の背後から声がかかった。
「ストーカーではないにしても、イラつきはしますね」
敬語の口調と黒縁の眼鏡、細身の長身が特徴的なもう一人の少女。凪沙とは対照的な白い肌、少し厚みを持っている眼鏡は大きな目を覆い目立たなくしている。三人の中で一番身長が高い。
「弓で射ますか」
ニヤリと少女は口角を吊り上げた。意地の悪い笑みと言うよりはいたずらっぽいイメージを受ける。
「お、究極の目潰し? いいねぇ、流奈うまいしね、弓道。拳銃もやりそう」
凪沙は依然としてにやついたままだ。
「確かに私はヤクザの孫ですが、それは偏見です。……まぁ喧嘩はできないわけではないですが」
最後の一言だけ声色が低く変わった。
「だって藍咲でしょー? しかもあの有名な若頭たちの息子の娘でしょー? ヤクザじゃ──」
ふざけているのか、凪沙はわざと語尾を伸ばしている。しかし冷たい何かをたたえた少女──流奈の瞳を視界に入れるとすぐにその笑みと口調を止めた。
「射殺して差し上げましょうか」
「い、いえ、結構です……」
ニヒルな笑みを浮かべる流奈。弓道部に所属している彼女は中学二年生にもかかわらず中等部のエースの実力を誇っている。
「まぁ、拳銃も出来ないわけではないですが……肩を脱臼したくはないので、実際使ったことはないです」
「できるのかよ!」
「それできていいのっ!?」
同時に突っ込んだ凪沙と海月。流奈は呆れかえったのか溜め息をつき呟く。
「冗談ですよ」
「う、うん……?」
冗談ではないような声色だったような気もするが、ひとまず海月は納得することにしたようだ。
「そういえば、一限は体育ですね。幅跳びのようです」
「いよっしゃ!」
凪沙がガッツポーズをした。
「……体育かぁ。憂鬱ー」
「脳筋の凪沙とは違って、海月は少し運動が苦手ですからね」
弓道部に所属する流奈、陸上部に所属する凪沙とは異なり、海月は生粋の文化部、書道部である。活動は週に二日、完全なる趣味の集まりで新入生が入ること自体珍しい──その前に、部活があること自体珍しいという言わば『幽霊部活』だ。
「だーれが脳筋だってぇー!?」
伸びをしていた腕をばっと降ろし、指をびしっと二人に向ける。
「凪沙に決まっているではないですか」
今にも鼻で笑いそうな──というより笑っている流奈は凪沙を見下ろしている。凪沙は三人の中で一番背が低い。その為流奈とはそれなりの身長差があるのだ。
「きー!」
漫画の世界であったならハンカチの端をくわえていただろう。ところどころ演劇のような仕草をしたり口調になったりするのが凪沙の癖。小学生の時は演劇クラブ所属だった。
「ふふっ、可愛い幼稚園生みたい」
にやついてはいない海月は清楚な笑い声をあげている。
「うわー、馬鹿にされたあー! 三メートル飛んでやるこのやろー!」
「三メートルは私も飛べますよ。それに『野郎』は男を指す言葉ですし」
「……もういいや、早く行こ」
言い返すことを諦めたのだろう、凪沙は体操着袋を取りにロッカーへと向かった。
ホームルームが、もうすぐ始まる。
駅の伸ばし気味なアナウンスが響いた。もっとも音楽を聴くためイヤホンをしているのでその音が彼女の小さな耳に届くことはないが、真上に設置されているスピーカーを後ろのサラリーマンが憎々しげに見上げた。先頭の車両が風を巻き起こし長髪を舞い上がらせる。プシューッという音と共に銀のドアが開いた。通勤ラッシュではない、空いた電車。
彼女──磯崎 海月は、この時間の電車が好きだ。
同じ制服を着た女子が誰もいないことを確認し、安心したように海月は出入り口の横の壁に寄りかかった。そして耳に流れる音楽に集中する。
『毎朝のルーティン』。そして海月の目の前に同じ学校の男子、制服のブレザーの刺繍の色からして先輩が乗っていることも『毎朝のルーティン』に近い。
会話はいくら顔を合わせようとも生まれない。髪型が変わったことも分かるようになっても、自分に視線が向いていることが分かっていても、だ。
いつものように彼は本を読んでいる。時たま変わるブックカバーの色は、今日は浅黄色だ。
「……名前、なんていうんですか」
精一杯の質問を、今日も海月は言うことができない。
ちらりと視線が向けられた。さりげなく逸らしはしたものの視線が逸らされることはない。
──ちくちく刺さってくるような視線に知らないふりをして、スマートフォンに視線を落とした。
***
「みづきーっ!」
下駄箱で上履きに履き替え海月は教室のドアを開いた。クラスメートの大半が揃っており、海月の親友達は顔を上げるとふわりと顔を綻ばせた。
無造作におろしているがさらりと揺れる短めな髪。日焼けした肌と細い足、ぱっちりと開いた大きな目がみずみずしい年頃の女子を思わせる。
「あ、凪沙……おはよう」
自分の名前を呼んだ大きな声に苦笑し、海月はスクールバッグを机の横に置いた。今日学校で一番に海月に呼びかけた少女の名前は、凪沙という。
「ねぇねぇっ、今日もいたの?」
凪沙がニヤニヤと笑った。嘲笑っているのか、恋バナをしている女子特有の謎の笑いなのか、凪沙の表情はゆるゆるに緩みきっている。
「あ……うん。っていうか、いない方がおかしいかもね」
──あんまり、いなかったことってないかも。
その言葉は口に出さなかったが、海月は記憶の中を洗い出した。
「出た海月のストーカー、なんならぶっ潰してやんよ。私の海月にその汚れた目を向けるなー!」
正に『ぷんすか』という擬態語が、今の凪沙にはよく似合っている。
「いや、汚れてるってのは言い過ぎ……それにストーカーじゃないよ。決まった時間ってだけ」
朝から乾いた笑いをさせられてばかりの海月は、凪沙のストーカー発言をきっぱりと否定した。
しかし凪沙の考えは分からないものでもない。朝電車に乗る度に出会い帰りも大概は同じだ。彼女自身最初は『自分は何かしたか』と考えたが、入学式の時も同じだったことを考えると──という訳で海月は彼のことをストーカーではないと思っている。
「いや、それにしてもさぁ……」
肩をすくめ食い下がる凪沙の背後から声がかかった。
「ストーカーではないにしても、イラつきはしますね」
敬語の口調と黒縁の眼鏡、細身の長身が特徴的なもう一人の少女。凪沙とは対照的な白い肌、少し厚みを持っている眼鏡は大きな目を覆い目立たなくしている。三人の中で一番身長が高い。
「弓で射ますか」
ニヤリと少女は口角を吊り上げた。意地の悪い笑みと言うよりはいたずらっぽいイメージを受ける。
「お、究極の目潰し? いいねぇ、流奈うまいしね、弓道。拳銃もやりそう」
凪沙は依然としてにやついたままだ。
「確かに私はヤクザの孫ですが、それは偏見です。……まぁ喧嘩はできないわけではないですが」
最後の一言だけ声色が低く変わった。
「だって藍咲でしょー? しかもあの有名な若頭たちの息子の娘でしょー? ヤクザじゃ──」
ふざけているのか、凪沙はわざと語尾を伸ばしている。しかし冷たい何かをたたえた少女──流奈の瞳を視界に入れるとすぐにその笑みと口調を止めた。
「射殺して差し上げましょうか」
「い、いえ、結構です……」
ニヒルな笑みを浮かべる流奈。弓道部に所属している彼女は中学二年生にもかかわらず中等部のエースの実力を誇っている。
「まぁ、拳銃も出来ないわけではないですが……肩を脱臼したくはないので、実際使ったことはないです」
「できるのかよ!」
「それできていいのっ!?」
同時に突っ込んだ凪沙と海月。流奈は呆れかえったのか溜め息をつき呟く。
「冗談ですよ」
「う、うん……?」
冗談ではないような声色だったような気もするが、ひとまず海月は納得することにしたようだ。
「そういえば、一限は体育ですね。幅跳びのようです」
「いよっしゃ!」
凪沙がガッツポーズをした。
「……体育かぁ。憂鬱ー」
「脳筋の凪沙とは違って、海月は少し運動が苦手ですからね」
弓道部に所属する流奈、陸上部に所属する凪沙とは異なり、海月は生粋の文化部、書道部である。活動は週に二日、完全なる趣味の集まりで新入生が入ること自体珍しい──その前に、部活があること自体珍しいという言わば『幽霊部活』だ。
「だーれが脳筋だってぇー!?」
伸びをしていた腕をばっと降ろし、指をびしっと二人に向ける。
「凪沙に決まっているではないですか」
今にも鼻で笑いそうな──というより笑っている流奈は凪沙を見下ろしている。凪沙は三人の中で一番背が低い。その為流奈とはそれなりの身長差があるのだ。
「きー!」
漫画の世界であったならハンカチの端をくわえていただろう。ところどころ演劇のような仕草をしたり口調になったりするのが凪沙の癖。小学生の時は演劇クラブ所属だった。
「ふふっ、可愛い幼稚園生みたい」
にやついてはいない海月は清楚な笑い声をあげている。
「うわー、馬鹿にされたあー! 三メートル飛んでやるこのやろー!」
「三メートルは私も飛べますよ。それに『野郎』は男を指す言葉ですし」
「……もういいや、早く行こ」
言い返すことを諦めたのだろう、凪沙は体操着袋を取りにロッカーへと向かった。
ホームルームが、もうすぐ始まる。
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