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闇に浮かぶ紅玉

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「な、何をする!貴様っ」

 薄桃の雫を垂らしながら激昂する青年にマハは動じた様子もない。近くにいた給仕のトレイに空のグラスを置きながら、肩を竦めた。
 
「わたしはただ、手を滑らせただけだと言っている。そこに、たまたまお前がいた。謝罪はしたぞ?」

 謝罪しているとは到底思えない尊大な口ぶりである。
 先ほどの棒読みな言葉と言い、明らかにわざとだ。
 まずい、大事になる・・・・!
 サーシャは顔色を変えて制止した。

「ちょっ、待って下さ」

 が、それに反応することなく、マハは近づいて来る青年と対峙する。
 
「貴様っ、誰に向かって口を利いているのか分ってるのか!?」
「どこの誰かは知らないな。ただ、思い違いでおまえがこの者を傷つけたのは理解している」
「何だと!?本当の話だろうがっ」
「いいや。夜会へはわたしが誘ったのだ。この娘はそなたが言うような軽々しい目的でこの場にいるのではない」
「!」

 言に詰まるも、青年は鼻先で笑いを散らす。

「同じことだろっ。どうせ貴様も、誑かされたんじゃないか?夜会前にどんな手でたらしこまれたか知らないが、随分と酔狂な男だ」

 嘲るように笑い始めた青年に、気づけばサーシャは足早に歩み寄り、右手を振り上げていた。 
 派手な音をたてて叩かれた青年の頬は赤く染まり、周囲からは悲鳴が上がる。

「っつ!」
「どれだけ優れた研究者で、お偉い方に認められてるか知らないけど、言っていい事と悪い事も分からないの!?」

 飲み物を引っかけた事は、確かに悪い。だが、いくら何でも言い過ぎだ。
 大事になる、と危惧したのも吹き飛んでしまうほど、サーシャは頭に血が上っていた。
屈辱に滲む歪んだ顔をし、青年が拳をつくるを見て、はっとする。
 
「こ・・・・この僕を、僕をぶっておきながら、よくも減らず口をっ」

 殴られるっと身を竦めた次の瞬間、強い力で押しのけられた。
 驚きに見開く目に、マハの背中が映る。
 鈍い音が耳を打ち、反動で横を向く彼の顔から弾き飛ばされた仮面が床の上を転がった。

(なっ・・・・)

 絶句するサーシャの前、マハはゆらりと体制を戻し、青年に向き直った。
 サーシャには背中しか見えないが、その身から立ち上る威圧感に気圧されたのか青年は後ずさる。
 
(う、嘘)

 彼に庇われるとは思いもしなかったから、酷く焦った。
 自分が手を上げさえしなければ、そんなきっかけとなることもなかったはずで・・・・。
   
「あ、あの、マ、マハさ」
「・・・・いいから、下がっていろ」

 制止の声を遮るその低音に、二の句が継げなくなる。
 サーシャから注意を青年へと戻すマハに、及び腰の青年が噛みつく。
 
「な、何だその目はっ!手を上げたのはその女が先だ。身分卑しき者が、高貴な僕を傷つけたんだぞ!?」
「――――黙れ、痴れ者」

 
 ぴしゃりと響いたそれは、聞く者に従わざるを得ないような圧迫感を与える。周囲の人間すべてが水をうったように、一斉に静まり返った。
 マハは一拍ほどの間を置き、続けた。
  
「手を出したのはこちらが先だ。だが、この夜会は本来、身分の優劣を越えて親睦を深める目的で開かれるものではないのか?であれば、場を弁えず、この者を貶めるおまえの所業は、非難されてしかるべきであろう」
「・・・・・!」
 
 その言葉にサーシャは、僅かに目を瞠った。
 正面からその視線を受けているであろう青年の表情は見えずとも容易に想像できた。
 恐らくは、完全に圧倒されている。
 反論もできぬほどに。

「――――それに身分がどうのというなら、この者はおまえのような愚昧な人間が近づけるような存在ではない。己が分を弁えるがいい」

 話の一部に理解できかねる部分があったが、サーシャは、彼がただ者でないことに気づかされた。
 身分に胡坐を掻いているだけの人間ではない。
 生まれながらに、他者を従わせる何かを秘めた存在だ。
 いつか感じた事のある感覚に、酷似している・・・・。
 戸惑うサーシャは静まり返った中、近づいて来る学院上層部の人間の姿に気づき、はっとする。
 ここで問題を起こしたと上層部に知られるのはまずい。
 とっさにマハの手を引いた。

「!何だ?まだ話がついてない」
「いえ、もう十分かと!」

 ただ真っすぐに進行方向を向き、サーシャはマハの手を掴んだままその場から彼を連れ出す。
 その背後では、腰を抜かしたように座り込む青年の姿があったが、それを見ることなく二人はホールから抜け出した。

 ***

 再び遠くで音楽が奏でられるのが聞こえるようになる頃、サーシャは足を止めた。
 庭園の見えるテラスには、他に人影は見当たらない。
 月明りの中、仄かに浮き上がる青光の会場――――庭には掲げられた灯火があり、奥へと続いている。

「急にどうしたのだ?」
「あ、あのまま、あそこにいたら、きっと上の方々に見咎められますから」

 走りにくいドレスの裾に足を取られながら走った為、少し息が乱れた。
 マハの手を放し、深く息を吐いたサーシャが顔を上げると、マハはこちらに背を向けていた。

「マハさん?」
「マハでよいと言っている。・・・・おまえ、無茶が過ぎるだろう。男に食ってかかるとは」
「す、みません。わたしだけならまだしも、関係のないあなたまで巻き込んで」
「――――関係なくなどない」

 依頼人と調香師、ではある。が、この場合の無関係はそういう意味ではないのだが・・・・。

「その・・・・庇っていただいて、すみませんでした。あの、大丈夫ですか?怪我とか」
「大事ない。あれしきで騒ぐような、やわな作りはしていない。・・・・とっさのことで避けられなかったのは情けないがな」

 様子を覗おうとそちらへ近づくと、彼は身体の向きを変え片手で顔を覆う。

(――――あ。そう、か)

 床の上に弾き飛ばされ転がった仮面。
 今、彼の顔を隠すものはないのだ。
 予行練習が終われば、素顔を見せると言っていたが、無断で目にするのはよろしくないだろう。
 サーシャは空に浮かぶ月へと視線を転じる。
 白い月の輪郭がくっきりと見え、とても綺麗だ。

「・・・・騒ぎが収まるまで、少しかかるかもしれませんね。少し時間を置いてから戻った方がいいと思います」
「ああ――――ちょうどいい。おまえと話す時間ができた」

 話?
 予行練習の件についてだろうか。
 夜会での彼の対応への感想は、決して悪くないものだ。
 彼は苦手意識の強いはずの高位の存在だが、自分でも意外に思うほど、好印象である。

(どっちかって言えば、あたしの方が酷いかも・・・・悪く言われたからって手、上げちゃったし、せっかくこの人が、お嬢様の為に努力してる最中に、事態悪化させちゃって・・・・)

「おまえは、今夜わたしといてどうだった?」

 想定通りの問いかけに、自身の中で考えを整理してからサーシャは答えた。

「意外でした――――想像と違って。・・・・ダンスは全くの初心者で、詳しい事はよくわからないですけど。あなたとだったら、きっと相手の女性も楽しめると思います。少なくともわたしは楽しかったですし、あんな風に庇って下さるのも、きっと嬉しいと感じていただけるかと・・・・」
「――――過去の印象を、払拭できると思うか?」

 思わぬ問いかけに意表を突かれた。
 それは相手の令嬢次第で、サーシャには判断しかねることだ。
 努力はしているのだと思うが・・・・。
 何とも返事に窮していると、マハは一拍後、方向を変えて尋ねてきた。

「以前に、おまえは高い身分の相手にいい印象を持てなかったと言っていたな。・・・・おまえなら、どうだ?その印象を変えることができるか?」
「・・・・え・・・・」

 月が雲に覆われ、その柔らかな光が遮られた。
 青い光は弱くなり、辺りはうす暗闇の支配が増す――――・・・・。
 印象を、変える?
 脳裏には、強烈な印象を残す稀有なる双眸が浮かぶ。
 知らずサーシャは左の首を手で覆った。
 それは、比べられるはずのないことだ。
 彼が相手の女性に何をしたかは不明だが、それは、サーシャが覚えた感情とは全く別次元の話のはずだ。
 憤りでも嫌悪でもない。
 それは、刻み込まれた畏怖。
 今でも鮮明に、記憶に蘇る途方もない恐れ。

「あ、あたしとは違うはずですから。きっと相手の方も考えを変えてくれますよ」
「――――――――・・・・おまえの答えは、それか?」

 ゆっくりとマハがこちらへと向き直る気配がした。
 疑問を覚え、そちらへと顔を向けたサーシャは、暗がりに浮かぶ輪郭を捉えた。
 月明りの届かない今、視界は鮮明にそれを映し出すことはない――――が。

 深い闇にも負けない色。それは――――――――真紅。
 記憶に深く根付き、決して忘れる事の出来ない、二粒の鮮やかな紅玉。

 静寂の中、ひときわ高く耳につく萎縮の音を、サーシャは確かに聞いた。
 雲間から姿を現す月が再び姿を現し、互いの表情まで伺い知る事のできる明かりを注ぐ。
 目の際いっぱい見開かれたサーシャの瞳に、冷ややかにも思えるほど整った造作の、紅眼の青年が映った。

「・・・・迎えにきたぞ、サーシャ。おまえを」
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