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前編: 旅人の少女
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夜の街は人間の街じゃないのよと、子どもたちはそう言われて育つ。
何故なら夜は目が利かない。光を必要とする人間は本能的に闇を避ける。
「だから夜は出歩いては駄目よ。夜に街を歩くのは人じゃないの」
しかし、十数年母親のその言葉を信じてきた沙代は今夜初めて言いつけを破った。
母親が急に倒れたのだ。原因はわからない。しかし呼吸が荒くひどい汗と熱だった。沙代は何とか母親をベッドに運び、分厚いショールをぐるぐると巻いて家を出た。
小さな街に唯一いる医者の家はここから少し遠い。まして夜の往診なんてと思ったが、この前近所の女の子が沙代の母と同じように急に熱を出したとき、その医者は血相を変えて飛び込んできた女の子の父親を拒絶するどころか手早く道具をまとめて往診に向かってくれたという話を聞いた。だから沙代はそれに懸けてみることにしたのだ。
父親のいない沙代を女手一つで育ててくれている母親。このまま帰らぬ人になんてことになったらこの先どうすればいいかわからない。
吹きすさぶ風に体を震わせながら、沙代は足早に歩いた。ショールのせいで前はほとんど見えない。しかし《あれ》は若い女を好むから、必要なことだ。
誰もいない街。大通りに昼の賑やかさは影も形もない。息を吸って、医者の家への近道である細道に入った。
夜に出歩くことをしないから、この街に街灯なんてものはない。だから大通りだろうと路地裏だろうとさほど明るさは変わらない。しかしやはり月明かりが届きやすいのは大通りだから、さっきから沙代は壁に手を伝わせながら歩いている。
そんな沙代の進む方向に、ぼんやりと何か小さな光が見えた気がした。
「っ!?」
思わずびくんと体が跳ねる。足が止まる。
しかしそれは気のせいだったらしく、瞬きをしたら光はもう見えなかった。
「人……?」
代わりに声が聞こえてきた。鈴の音のような、耳にすっと入ってくる涼やかな声だ。
暗闇の中で何かが動き、更に身を固くする沙代の前に現れたのは、少年だった。
月明かりの届かないはずの路地裏に、目が覚めるほどの眩い銀髪が浮かび上がる。同じく透き通るような白磁の肌。繊細な線で彩られた整った顔の中で、藍色の瞳がくっきりと印象的だった。
綺麗だ――思わずそう見蕩れてしまった沙代の胸に、次いで警戒心が湧き起こる。それは美しいが故の猜疑心であった。
薄い唇が動く。
「こんな夜にどうしたの? 女の子が出歩くのは危ないよ」
「……ぁ……わ、たし」
声がガクガクと震えてしまう。声だけではない。体中だ。藍色の双眸に見据えられ、体が言うことをきかない。
しかし少年は沙代の態度に悟ったのか、更に近づこうとしていたのをやめて苦笑した。
「あー……ごめんね、僕怪しいよね。こんな時間に出歩いて女の子に声かけてちゃ、そりゃ吸血鬼だって疑われるか」
「っ!!」
吸血鬼。それこそこの街の人間が恐れる夜の住人だった。沙代が会わないようにと願っていた存在。
しかし少年はあろうことか、「んー」と少しだけ考える素振りを見せた後急に近づくと沙代の手を掴んだ。
「!!」
「えいっ」
むぎゅっ。
………むぎゅ?
突然のことに身動き一つ取れなかった沙代が恐る恐る目を開くと、掴まれた自分の手は少年によって、少年自身の胸に押しつけられていた。
……柔らかい。
きょとんと、思わず確かめるように握り込んでしまう。
「ちょっと、何してるの」
「………女?」
「そうだよ。少しは安心したかな?」
「……うん」
昔から大人たちから聞く吸血鬼とは男で、だから若い女の血を好むと決まっている。女の吸血鬼がいないわけではないが、それはかなり稀少で屋敷に大事に大事に囲われているはずだ。
少年は警戒を緩めた沙代にほっとしたように笑って、もう一度さっきの質問を繰り返した。
「それで、君はどうしてこんな夜に出歩いてるの?」
少年……もとい少女の名前はユウというらしい。
旅人で、日が暮れるギリギリに街に着いたのはいいけれど宿は既に扉を閉めてしまっており、どうしようかと悩んでいたのだそうだ。話してみればごくまっとうな受け答えをする少女で、同年代とは思えないほどかなり落ち着いた雰囲気を纏っていることもあり沙代の警戒はすっかり解けた。
「うちに泊まればいいよ」
「いいの?」
「うん、ついてきてくれたお礼」
「そんなのお礼してもらうほどのことになるのかなあ」
女の子の一人旅ということで、ユウはそれなりに腕が立つらしい。だから医者の家まで送ってあげるよという言葉に甘えてこうして歩いているのだが、沙代からすれば怖くてたまらなかったのだから一晩ベッドを貸すくらいどうということもなかった。
しかし医者の家にたどり着いた沙代は、下げられた『出張中』の札に絶望した。
「うそ……どうしよう」
「……困ったね」
「お母さん……!」
家を出たときの母の様子を思い出し、沙代は崩れ落ちる。必ず医者を連れてくるからと言った自分に母親は辛い体を無理に起こして笑ったのだ。それなのに。
「……沙代。とりあえず帰ろう」
「嫌っ!」
そっと肩に触れたユウの手を振り払った。帰って母親の熱がもし更に上がっていたら。医者が来ないと伝えたらどうなる。まさか、息をしていなかったら。悪い方向にばかり思考が行ってしまう。
全身が凍るような感覚に沙代は自分の体をぎゅっと抱きしめた。嫌だ、怖い。怖い。
「……沙代」
ユウは屈んで沙代の顔を覗き込んできた。
「ねえ。お母さんの体を治す薬があるって言ったら、どうする?」
「……!」
沙代はばっと顔を上げた。
「本当!? どこっ、どこにあるの!?」
「僕が持ってる。どんな病気も治せる薬だよ」
「ちょうだい! お願い!」
「いいよ。でもとても大事なものなんだ。沙代が一つ、僕の願いを聞いてくれるならあげる」
「何でも言って! 何でもする! だからお母さんを助けて!」
「……言ったね」
ユウの瞳が、怪しく金色に揺らめいた。
「……え?」
ユウの腕を縋るように掴んでいた沙代は、そこで不思議に思う。
ユウの瞳は藍色ではなかったか。
しかしその疑問はすぐに霧散して消えた。それよりも金の瞳が綺麗だったからだ。藍色の瞳も宝石のようで綺麗だったけれど、金の双眸は更に強い輝きを伴って沙代を惹き付けた。
だからいつの間にか薄い唇の隙間から鋭い牙が覗いていても、不思議に思わなかった。ユウの顔が鼻先に触れそうなほど近づいていても気にならなかった。しかも、どこからか香りが漂ってくる。ほのかに甘く、もっとと吸い寄せられそうな香りだ。それがユウの体から立ち上るものだとはすぐにわかった。
「僕のお願い、聞いてくれるんだよね?」
「うん」
沙代は迷いなく頷いた。すると、ユウは嬉しそうに目を細める。その表情に沙代の体の奥で何か熱いものが鼓動した。熱はじんわりと体中に広がっていく。ユウの瞳の輝きは一層強くなり、香りも酔いそうなほどに沙代の体中を浸食していた。
「……お願いって、何?」
「……君の血を、ちょうだい」
「……っ!!」
じっと見つめながら耳元で囁かれ、沙代はゾクゾクっと全身を震わせた。それは恐怖ではない。むしろ微かな期待を含んでいた。
「……だめ?」
強請るように鼻先が沙代の首筋をかすめる。低くかすれた声が空気を震わせ、沙代の肌に触れる。
「君のココ……すっごくいい匂い。食べちゃいたい……」
「いい……よ」
沙代は震える声でそう言った。
いつの間にか沙代の背中は医者の家の扉に押しつけられていた。ユウの片方の手は扉について自身の体を支えており、もう片方は沙代の腰に回っている。そしてユウは妖艶に笑った。唇の隙間からは鋭い牙が覗いている。しかし沙代にはどうでもよかった。
そう、ユウが吸血鬼だろうがどうでもいいではないか。女だとか大人たちの言う夜の住人だとか、そんな小さなこと。
大事なのはユウが綺麗な金の瞳で沙代を見ていること。欲に濡れた表情をしていること。彼女の牙が自分の首筋に突き立てられれば、疼いている体は快楽を得られるはずだ。
ユウの牙の冷たい感触に呼吸を詰めた――そのときだった。
「そこまでだ。縹木」
「――!」
ひゅうっ! と風が吹き抜け、沙代ははっと我に返った。
「……!? っっ!!!」
ようやく正常な思考で現状を認識した沙代は、咄嗟にユウを突き飛ばした。しかし全力だったはずなのに、ユウは「おっと」と軽く後ろによろめいた程度だった。
「あなた……」
「……はあ、切れちゃったかー。もう紅月、邪魔しないでよ」
目を見開く沙代にため息をつき、ユウはあぐらをかいた。いつの間にか瞳は藍色に戻り、牙も人間と変わらない長さにまで短くなっている。彼女の向こうに、仁王立ちでこちらを睨む青年の姿が見えた。
深いワインレッドの髪と、同じ色の瞳を持ったこちらも恐ろしく顔の整った青年だった。しかし冷たく強張った表情から紡がれる言葉は重く、王の命令のような威圧が含まれている。
「こんな小さな街にまで逃げ込むとは……そんなにあの屋敷は嫌いか?」
「うん、嫌い。ていうかこんなところまで追っかけてくるってどんだけ暇なの? 仕事しなよ」
「これも一族の長としての義務だ。早く戻るぞ」
「ちぇー……」
ユウは渋々といったように立ち上がり、裾についた汚れを払った。そして状況が理解できていない沙代ににっこりと笑いかける。
「ごめんね、怖がらせて。しばらくは僕たちの気配で下級は近づけないはずだから、そのうちに早く家に帰りな」
「え……」
「じゃあね。二度と会わないことを祈るよ」
コートを翻し、ユウは紅月と呼んだ青年に近づいていった。しかし途中で「あっ」と立ち止まる。
「……!」
ユウの手元で銀色の何かが煌めいた。それがナイフだと気づくのに数瞬。その間に、ユウは自分の手首をそれで傷つけていた。
「おい、縹木」
「これくらいいいでしょ」
咎めるような青年と悪びれた様子のないユウのやり取りを、沙代は声も出せずに見つめていた。ユウはどこからか取り出した小瓶を傷口に押し当てる。じわりと溢れ出た鮮血が一滴、小瓶に落ちた。
そしてユウは蓋を閉めると、丁寧に石畳の上に置いた。思わず沙代の視線がそちらに移る。
「僕のお願いを聞いてくれようとした、お礼だよ」
「!」
はっと顔を上げると、もうユウも青年もどこにもいなかった。
◆ ◆ ◆
翌日、沙代の母親はすっかり元気になって朝日を迎えた。何だったのかしらと首を捻る母親が見つけたのは、窓際に置かれた何も入っていない小さな小瓶。
「あら? どうしたの、この小瓶」
「ああ……うん、ちょっとね」
「何か入れて飾るの? 小さなお花とか、ビーズとか?」
「……そうだね。何かいいのがあったら入れようかな」
「あったらって、何もなきゃ殺風景じゃない」
そう言う母親に、沙代は曖昧に笑っておいた。
昨夜会った不思議な少女と青年は吸血鬼だった。
人間よりも遥かに長い時を生きる吸血鬼の血は、毒でもあり薬でもある。人間の血が多く混ざっているような下級の血はドロドロとした人体を犯す毒だが、何千年何万年と生きる純血貴族の血は宝石のように美しく、人間が飲めばどんな病をも治すのだ。
そして、吸血鬼は血が濃く力が強いほど、ぞっとするほどの美貌を持つのだという。
何故なら夜は目が利かない。光を必要とする人間は本能的に闇を避ける。
「だから夜は出歩いては駄目よ。夜に街を歩くのは人じゃないの」
しかし、十数年母親のその言葉を信じてきた沙代は今夜初めて言いつけを破った。
母親が急に倒れたのだ。原因はわからない。しかし呼吸が荒くひどい汗と熱だった。沙代は何とか母親をベッドに運び、分厚いショールをぐるぐると巻いて家を出た。
小さな街に唯一いる医者の家はここから少し遠い。まして夜の往診なんてと思ったが、この前近所の女の子が沙代の母と同じように急に熱を出したとき、その医者は血相を変えて飛び込んできた女の子の父親を拒絶するどころか手早く道具をまとめて往診に向かってくれたという話を聞いた。だから沙代はそれに懸けてみることにしたのだ。
父親のいない沙代を女手一つで育ててくれている母親。このまま帰らぬ人になんてことになったらこの先どうすればいいかわからない。
吹きすさぶ風に体を震わせながら、沙代は足早に歩いた。ショールのせいで前はほとんど見えない。しかし《あれ》は若い女を好むから、必要なことだ。
誰もいない街。大通りに昼の賑やかさは影も形もない。息を吸って、医者の家への近道である細道に入った。
夜に出歩くことをしないから、この街に街灯なんてものはない。だから大通りだろうと路地裏だろうとさほど明るさは変わらない。しかしやはり月明かりが届きやすいのは大通りだから、さっきから沙代は壁に手を伝わせながら歩いている。
そんな沙代の進む方向に、ぼんやりと何か小さな光が見えた気がした。
「っ!?」
思わずびくんと体が跳ねる。足が止まる。
しかしそれは気のせいだったらしく、瞬きをしたら光はもう見えなかった。
「人……?」
代わりに声が聞こえてきた。鈴の音のような、耳にすっと入ってくる涼やかな声だ。
暗闇の中で何かが動き、更に身を固くする沙代の前に現れたのは、少年だった。
月明かりの届かないはずの路地裏に、目が覚めるほどの眩い銀髪が浮かび上がる。同じく透き通るような白磁の肌。繊細な線で彩られた整った顔の中で、藍色の瞳がくっきりと印象的だった。
綺麗だ――思わずそう見蕩れてしまった沙代の胸に、次いで警戒心が湧き起こる。それは美しいが故の猜疑心であった。
薄い唇が動く。
「こんな夜にどうしたの? 女の子が出歩くのは危ないよ」
「……ぁ……わ、たし」
声がガクガクと震えてしまう。声だけではない。体中だ。藍色の双眸に見据えられ、体が言うことをきかない。
しかし少年は沙代の態度に悟ったのか、更に近づこうとしていたのをやめて苦笑した。
「あー……ごめんね、僕怪しいよね。こんな時間に出歩いて女の子に声かけてちゃ、そりゃ吸血鬼だって疑われるか」
「っ!!」
吸血鬼。それこそこの街の人間が恐れる夜の住人だった。沙代が会わないようにと願っていた存在。
しかし少年はあろうことか、「んー」と少しだけ考える素振りを見せた後急に近づくと沙代の手を掴んだ。
「!!」
「えいっ」
むぎゅっ。
………むぎゅ?
突然のことに身動き一つ取れなかった沙代が恐る恐る目を開くと、掴まれた自分の手は少年によって、少年自身の胸に押しつけられていた。
……柔らかい。
きょとんと、思わず確かめるように握り込んでしまう。
「ちょっと、何してるの」
「………女?」
「そうだよ。少しは安心したかな?」
「……うん」
昔から大人たちから聞く吸血鬼とは男で、だから若い女の血を好むと決まっている。女の吸血鬼がいないわけではないが、それはかなり稀少で屋敷に大事に大事に囲われているはずだ。
少年は警戒を緩めた沙代にほっとしたように笑って、もう一度さっきの質問を繰り返した。
「それで、君はどうしてこんな夜に出歩いてるの?」
少年……もとい少女の名前はユウというらしい。
旅人で、日が暮れるギリギリに街に着いたのはいいけれど宿は既に扉を閉めてしまっており、どうしようかと悩んでいたのだそうだ。話してみればごくまっとうな受け答えをする少女で、同年代とは思えないほどかなり落ち着いた雰囲気を纏っていることもあり沙代の警戒はすっかり解けた。
「うちに泊まればいいよ」
「いいの?」
「うん、ついてきてくれたお礼」
「そんなのお礼してもらうほどのことになるのかなあ」
女の子の一人旅ということで、ユウはそれなりに腕が立つらしい。だから医者の家まで送ってあげるよという言葉に甘えてこうして歩いているのだが、沙代からすれば怖くてたまらなかったのだから一晩ベッドを貸すくらいどうということもなかった。
しかし医者の家にたどり着いた沙代は、下げられた『出張中』の札に絶望した。
「うそ……どうしよう」
「……困ったね」
「お母さん……!」
家を出たときの母の様子を思い出し、沙代は崩れ落ちる。必ず医者を連れてくるからと言った自分に母親は辛い体を無理に起こして笑ったのだ。それなのに。
「……沙代。とりあえず帰ろう」
「嫌っ!」
そっと肩に触れたユウの手を振り払った。帰って母親の熱がもし更に上がっていたら。医者が来ないと伝えたらどうなる。まさか、息をしていなかったら。悪い方向にばかり思考が行ってしまう。
全身が凍るような感覚に沙代は自分の体をぎゅっと抱きしめた。嫌だ、怖い。怖い。
「……沙代」
ユウは屈んで沙代の顔を覗き込んできた。
「ねえ。お母さんの体を治す薬があるって言ったら、どうする?」
「……!」
沙代はばっと顔を上げた。
「本当!? どこっ、どこにあるの!?」
「僕が持ってる。どんな病気も治せる薬だよ」
「ちょうだい! お願い!」
「いいよ。でもとても大事なものなんだ。沙代が一つ、僕の願いを聞いてくれるならあげる」
「何でも言って! 何でもする! だからお母さんを助けて!」
「……言ったね」
ユウの瞳が、怪しく金色に揺らめいた。
「……え?」
ユウの腕を縋るように掴んでいた沙代は、そこで不思議に思う。
ユウの瞳は藍色ではなかったか。
しかしその疑問はすぐに霧散して消えた。それよりも金の瞳が綺麗だったからだ。藍色の瞳も宝石のようで綺麗だったけれど、金の双眸は更に強い輝きを伴って沙代を惹き付けた。
だからいつの間にか薄い唇の隙間から鋭い牙が覗いていても、不思議に思わなかった。ユウの顔が鼻先に触れそうなほど近づいていても気にならなかった。しかも、どこからか香りが漂ってくる。ほのかに甘く、もっとと吸い寄せられそうな香りだ。それがユウの体から立ち上るものだとはすぐにわかった。
「僕のお願い、聞いてくれるんだよね?」
「うん」
沙代は迷いなく頷いた。すると、ユウは嬉しそうに目を細める。その表情に沙代の体の奥で何か熱いものが鼓動した。熱はじんわりと体中に広がっていく。ユウの瞳の輝きは一層強くなり、香りも酔いそうなほどに沙代の体中を浸食していた。
「……お願いって、何?」
「……君の血を、ちょうだい」
「……っ!!」
じっと見つめながら耳元で囁かれ、沙代はゾクゾクっと全身を震わせた。それは恐怖ではない。むしろ微かな期待を含んでいた。
「……だめ?」
強請るように鼻先が沙代の首筋をかすめる。低くかすれた声が空気を震わせ、沙代の肌に触れる。
「君のココ……すっごくいい匂い。食べちゃいたい……」
「いい……よ」
沙代は震える声でそう言った。
いつの間にか沙代の背中は医者の家の扉に押しつけられていた。ユウの片方の手は扉について自身の体を支えており、もう片方は沙代の腰に回っている。そしてユウは妖艶に笑った。唇の隙間からは鋭い牙が覗いている。しかし沙代にはどうでもよかった。
そう、ユウが吸血鬼だろうがどうでもいいではないか。女だとか大人たちの言う夜の住人だとか、そんな小さなこと。
大事なのはユウが綺麗な金の瞳で沙代を見ていること。欲に濡れた表情をしていること。彼女の牙が自分の首筋に突き立てられれば、疼いている体は快楽を得られるはずだ。
ユウの牙の冷たい感触に呼吸を詰めた――そのときだった。
「そこまでだ。縹木」
「――!」
ひゅうっ! と風が吹き抜け、沙代ははっと我に返った。
「……!? っっ!!!」
ようやく正常な思考で現状を認識した沙代は、咄嗟にユウを突き飛ばした。しかし全力だったはずなのに、ユウは「おっと」と軽く後ろによろめいた程度だった。
「あなた……」
「……はあ、切れちゃったかー。もう紅月、邪魔しないでよ」
目を見開く沙代にため息をつき、ユウはあぐらをかいた。いつの間にか瞳は藍色に戻り、牙も人間と変わらない長さにまで短くなっている。彼女の向こうに、仁王立ちでこちらを睨む青年の姿が見えた。
深いワインレッドの髪と、同じ色の瞳を持ったこちらも恐ろしく顔の整った青年だった。しかし冷たく強張った表情から紡がれる言葉は重く、王の命令のような威圧が含まれている。
「こんな小さな街にまで逃げ込むとは……そんなにあの屋敷は嫌いか?」
「うん、嫌い。ていうかこんなところまで追っかけてくるってどんだけ暇なの? 仕事しなよ」
「これも一族の長としての義務だ。早く戻るぞ」
「ちぇー……」
ユウは渋々といったように立ち上がり、裾についた汚れを払った。そして状況が理解できていない沙代ににっこりと笑いかける。
「ごめんね、怖がらせて。しばらくは僕たちの気配で下級は近づけないはずだから、そのうちに早く家に帰りな」
「え……」
「じゃあね。二度と会わないことを祈るよ」
コートを翻し、ユウは紅月と呼んだ青年に近づいていった。しかし途中で「あっ」と立ち止まる。
「……!」
ユウの手元で銀色の何かが煌めいた。それがナイフだと気づくのに数瞬。その間に、ユウは自分の手首をそれで傷つけていた。
「おい、縹木」
「これくらいいいでしょ」
咎めるような青年と悪びれた様子のないユウのやり取りを、沙代は声も出せずに見つめていた。ユウはどこからか取り出した小瓶を傷口に押し当てる。じわりと溢れ出た鮮血が一滴、小瓶に落ちた。
そしてユウは蓋を閉めると、丁寧に石畳の上に置いた。思わず沙代の視線がそちらに移る。
「僕のお願いを聞いてくれようとした、お礼だよ」
「!」
はっと顔を上げると、もうユウも青年もどこにもいなかった。
◆ ◆ ◆
翌日、沙代の母親はすっかり元気になって朝日を迎えた。何だったのかしらと首を捻る母親が見つけたのは、窓際に置かれた何も入っていない小さな小瓶。
「あら? どうしたの、この小瓶」
「ああ……うん、ちょっとね」
「何か入れて飾るの? 小さなお花とか、ビーズとか?」
「……そうだね。何かいいのがあったら入れようかな」
「あったらって、何もなきゃ殺風景じゃない」
そう言う母親に、沙代は曖昧に笑っておいた。
昨夜会った不思議な少女と青年は吸血鬼だった。
人間よりも遥かに長い時を生きる吸血鬼の血は、毒でもあり薬でもある。人間の血が多く混ざっているような下級の血はドロドロとした人体を犯す毒だが、何千年何万年と生きる純血貴族の血は宝石のように美しく、人間が飲めばどんな病をも治すのだ。
そして、吸血鬼は血が濃く力が強いほど、ぞっとするほどの美貌を持つのだという。
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