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はじめまして

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──ねえ待って、ちょっと待ってってば


──待たないよ


──なら、どこへ行くのか教えて、ねえっ


──カヤの行きたい所に連れていってあげる


──え



振り向いた黒い仮面の向こう。
男は木漏れ日を遮り、愉しげに笑っていた。






「俺が、連れ出してあげる」





 



 
 





物語はこの二十分程前。
整備されていない山道をひた走る、化粧箱のような馬車の中から始まる。


子女・一色香夜いしきかやは、三週間程前に全てをなくした。
最も、両親が残した莫大な遺産は彼女に所有権があるのだから、"全て"という表現は誤っているのかもしれない。

けれど、優しい両親と可愛い弟・荘一郎を一挙に亡くした。
まだ二十に満たない香夜にとって、家族の笑顔が生活の大多数を占めていたにも関わらず、彼女だけが"生き残り"として生き永らえた。


そんな香夜を引き取ったのは、ある貴族の次男坊だった。
彼女とその次男坊は遠縁の親戚でありながら、実際面識は無い。
香夜がかけがえのない家族を引き換えに得た莫大な遺産は、齢十九という、一人でそれを背負うには心許無い彼女を引き取りたいという人間を数多寄せ付けた。
しかし、全てをなくし過敏になっていた彼女の心は人の欲を敏感に嗅ぎ分け、目を通した殆どの手紙をそのまま暖炉にくべてしまっていた。


そして彼女は、「何も持たず僕の家に来なさい」という、件の遠縁の次男坊の手紙を選び手に取る──





 
「嬢、直に着く」
「もう暫しご辛抱下さいね」
「ありがとう」


数着の着替えと化粧道具、それから幼い頃から身の回りの世話をしてくれた使いの者を数人だけ連れて、香夜は次男坊の住まう街、御坂に向かっていた。
窓から外を眺めれば、木々の合間に美しい街並みが迫っている。


御坂。
帝都東京の外れに位置する其処は、美しい街並みと豊かな自然、そして商売人達の活気溢れる様子に、神さえも坂を転がるように入り浸ると言われている街。
片田舎で暮らしていた香夜も、その白亜の美しい街並みに心が躍らないと言えば嘘になる。
それでも、大きな溜息を吐き出した。



自分を引き取ってくれる事はありがたいが、この先の生活に何が待っているのか。
目当ては遺産か、それとも。

浮かぶのは暗い想像ばかり。
表にこそ出さないものの、徐々に鮮明になるその町に向かうのは億劫だった。



──この小さな箱から逃げ出せるものなら、逃げ出してしまいたい。



そんな事を考えた時だった。

突然、馬車が大きく揺れる。
しかし道を大きく外れる事無く、馬を上手く諫めて停車する。

手綱を引いていた使いが血相を変えて振り返り、香夜は自分に怪我はないという意を込めて微笑んで見せた。


「怪我はないんだな」
「うん、ありがとうしいくん」
「しいくんって呼ぶな」
「小石を噛んだかな、シノノメ」
「ああ。悪いな嬢、ちょっと待ってろ。ヨリ、手伝え」
「うーいうい」


黒い背広姿の二人が馬車から舞い降りると、馬車の後方に回りあれやこれやと言い合いを始めた。
時折聞こえる漫才のような言い合いに苦笑しながら、香夜は長旅の疲れに身を任せ、そっと瞼を閉じる。


 

 






「ねえ」



その声が聞こえたのは目を閉じて暫く経ってから。
悪戯っ子の様な、けれどあまりに優しいそれは、空耳だと思う程だった。


「起きているんでしょう?」


目を開けて飛び込むのはマントを身に付けた見知らぬ男。
悲鳴を上げようと開けた香夜の口を素早く塞ぎ、男は自分の唇の前に人差し指を立てた。

唇は形の良い弧の字を描く。
香夜がこれ以上騒がない事を見越したのだろう、口元を塞いでいた掌は、すっと目の前に差し出される。
目元は仮面で隠れていて見えないけれど、その男が心底楽しそうに笑っている事は、混乱する香夜にも容易に解った。


「おいで」
「……あなた、誰?」
「誰でしょう?ほら、急いで」


漫才は未だ外から聞こえてくる。
箱の中の変化に、二人は気付いていないようだ。
掌が退いた今、悲鳴を上げる事もできる。でも。




──この手を取れば、逃げ出せるんじゃないか。




緊張と打算を織り交ぜて男の手に右手を乗せれば、男はまた楽しそうに笑った。


「離さないで」


男はそれだけ言うと、馬車の外の二人と反対側の扉を勢いよく蹴り飛ばし、香夜の手を引いて箱の外へ飛び出す。
香夜も手を引かれた勢いで、外に飛び出し、足を縺れさせながら懸命についていく。


「嬢!」


背広が片方吠えた時、香夜は漸く、これまで馬車の扉が一度も開けられていなかった事に気がつく。
背後に二人の声を聞きながら、脚に絡みつくワンピースを懸命に持ち上げながら。香夜は懸命に男に問うた。



「ねえ待って!ちょっと待ってってば!」
「待たないよ」
「なら、どこへ行くのか教えて!?ねえっ!」
「香夜の行きたい所に、連れていってあげる」
「……え……?」
「俺が、連れ出してあげる」



走りながら振り返った男は、やはり愉しそうに笑っていた。



二人は深い緑の茂る森へ駆けていく。










「シノノメ……!」
「慌てんな。嗚呼くそっ、気付かなかった。術者の仕業か」
「追いかけるか」
「……まずはツグミさんに連絡だ」

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