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第2章 水沫泡焔の章
第28話 尾張の虎、死す
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年が明けて天文二十一年。正月早々関東や畿内にて様々な出来事が起こった。
関東では正月十日に関東管領である山内上杉憲政が北条氏康に追われて越後守護代である長尾景虎を頼る事態に。この一件が数年後、軍神・長尾景虎を関東へ呼び込むことになるのである――
一方、畿内では六角定頼の死を契機として室町幕府将軍・足利義藤と三好方との間で和平が急速に進み、三好長慶を宥免して和解。
正月二十八日には将軍・足利義藤も衣装や刀を美々しく飾り立てた数千の兵を率いて入京するなど、畿内情勢にも大きな変化が訪れていた。
このように東西で情勢に変化が訪れる天文二十一年の三月三日。末森城にて尾張の傑物がこの世を去った。
そう、織田信長の父であり、織田弾正忠家を束ねてきた織田備後守信秀が死去したのである。享年四十二。
家督は嫡男である織田信長が継承、信長は家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる。
されど、称する名を変えようとも、当時の織田弾正忠家を取り巻く状況は依然として悪化したまま。そうした状況下で織田信秀が死去したことの余波に、信長は苦しめられることとなる。
そして、織田信秀の葬儀は萬松寺で行われ、三百人もの僧侶を参集させた壮大なものであった。この信秀の葬儀における信長の行動が、織田弾正忠家において新たな波紋を生じさせていた。
信秀の晩年、末森城にて政務の補佐を行っていた勘十郎信勝。彼は折目高なる肩衣と袴を着用、すなわち正装したうえで礼儀正しく振る舞っていた。このことに、柴田権六らは誇らしげであった。
さらには、「喪主である肝心の信長が現れないとはどういうことか」と傅役の平手中務丞が詰め寄られ、正室・濃姫が肩身の狭い思いをしている中、当の本人は颯爽と登場。
しかし、信長の登場によって無事に葬儀は執り行われたとさ、めでたしめでたし――とはならなかった。
なんと、信長は仏前にて抹香を投げつけるという不行跡を示したのである。重臣らからの信望厚い勘十郎信勝と対照的な行動に、重臣らから指弾されることになってしまうのであった。
「若!一体、なんということを……!」
「爺か。ちと親父に言いたいことがあってな」
「な、何を申し上げたいので……!
「後継者をおれか、勘十郎かを指名せずに急死してしまったことよ。そのせいで、おれを嫌う重臣どもが弟を担ぎ出そうとする有り様。これでは尾張はおろか、織田弾正忠家を束ねることとて困難な道のりとなろう」
信長の危惧は葬儀での非行に憤る平手中務の怒りを鎮めてしまうほどの効力を発揮した。
「して、若殿。これよりいかがいたす。敵は尾張国内のみに非ず。今川をはじめ、尾張を虎視眈々と狙うておる者らも多かろう」
そう発言したのは平手中務とともに信長の傍に控える顎に立派な髭をたくわえた男。彼こそ亡き信秀の右腕であり、信長にとっては叔父にあたる孫三郎信光。小豆坂七本槍の一人として武勇を近隣に轟かせている猛者である。
「叔父御、親父殿は内に敵を抱えたまま今川や斎藤を相手にしてきた」
「ええ、その通り。されど、晩年はこれが災いし、一気に苦境に立たされることとなった」
「いかにも。親父殿は形式的な主君である守護代家や守護家を仰ぎ続けておった。その甘さが仇となった。じゃが、おれは敵に情けなどかけぬ」
「ほう、それは面白いことになりそうじゃ。よし、この孫三郎信光は信長殿を支持するとしようぞ」
豪快に肩を揺らしながら笑う三十七歳の織田孫三郎信光。父とともに数多の戦場を往来してきた叔父は実に頼りになる。そう感じる信長であったが、傍らにいる平手中務の表情は強張ったままであった。
「若殿に味方する織田一門は玄蕃允秀敏は確実でしょうな」
「ほう、あの舅御から動揺する織田家中の調停を依頼されておった玄蕃允か」
「そ、そのようなことまで存じておったか」
「よいか、叔父御。戦に勝つために重要なのは銭と情報。おれは織田一門や勘十郎を推す老臣どもの屋敷に草の者を潜らせておるわ」
抜かりない信長の処置に、さすがの百戦錬磨の強者も舌を巻くこととなった。無論、平手中務とて同じである。そんな若き織田弾正忠家の当主の次なる言葉を待っていた。
「爺。そして叔父御。来月には今川方に寝返った山口左馬助らを成敗することとしようぞ。あやつらを成敗するとなれば、今川より援軍も入ることとなろうが、臆してはならんぞ」
よもや、ここで鳴海の山口氏攻略を口にするとは思っていなかった平手中務と織田孫三郎であったが、さりとて放置もできない。何よりも、外に敵がいることで織田弾正忠家を一つに束ねられると信長は考えていることは両名とも承知していた。
信長は宣言通り、翌四月十七日に約八百の軍勢を率いて鳴海に攻め込んだ。山口九郎次郎教吉が赤塚の地に一千五百の兵を率いてきたことを見つけて、両軍は激突。
どちらも織田家に縁ある者たち。士気が低いこともあって勝敗はつかなかった。結局、互いの捕虜や捕らえた馬を交換して双方は引き上げることとなる。
なお、山口教吉の援軍として近くの笠寺には今川義元の妹婿である浅井小四郎政敏が岡部丹波守元綱、飯尾連龍、葛山長嘉らが入り織田信長を牽制。幸いともいうべきか、織田と今川の軍勢が衝突する事態には至らず。
この事態は、駿府にいる今川義元にも三河に詰める糟屋備前守・山岡景隆・飯尾乗連・二俣扶長ら城将らからも報告が入っていた。
「ふむ、崇孚よ。織田を継いだ信長が鳴海の山口氏を攻めたそうな」
「はい。まだまだ織田備後守死後のお家事情は苦しいようですな」
「ならば、攻勢を強めるとしようぞ。どうにも信長の名を聞くと寒気がするのじゃ」
「さ、寒気とは……!?お体、ご自愛くだされ」
二の腕をさする当主・義元。そんな彼を労わる太原崇孚であったが、突如彼の方がせき込み始める。
「そ、崇孚よ……!そちこそ、体調が優れぬのではないのか!?」
「ど、どうということはございませぬ。昨晩、深酒がすぎたのやもしれませぬ」
「そちは今川の軍師であるぞ。まだまだ働いてもらわねばならぬ。今宵はゆっくり休むがよい」
「ははっ、では今宵はこれにて失礼いたします」
やはり体調が優れぬのか、太原崇孚は引きづるような足取りで退出していく。そんな老僧の後ろ姿を心配げな眼差しで見つめる義元は書見台に置かれた三河からの便りへと視線を落とす。
その報告文書には大給松平親乗の不穏な動きについても記されていた。大給松平は松平宗家とは別に独立した国衆として活動してきた松平一族である。
「ふむ、松平のことじゃ。竹千代から働きかけたいところではあるが、そうもいかぬか。いや、竹千代に代わって岡崎の政務を重臣らと担っておる随念院は大給松平親乗の母ではないか。宗家ではなく、母を通じて働きかけてみるかの」
ぼそぼそと独り言ちる今川義元。だが、彼は母を通じて大給松平親乗を今川に従属させることを考えながらも、第二の対応としてとある男を動かすこととした。
その男とは、今川義元の計らいによって青野松平家を相続した松平甚太郎忠茂である。
「忠茂殿、駿府の御屋形様から何ぞご指示でも入りましたか」
「おお、松井左近尉か。うむ、一向に今川家へ従う姿勢を見せない大給松平を攻めよ、とな」
「では、近日中に出陣となりましょうや」
「うむ、早い方が良い。五月中に攻め潰すことといたそう。無論、この甚太郎自ら采配を執ることと致す!」
かくして、今川方の青野松平家は反今川を掲げる大給松平親乗の居城・大給城を攻める支度に入った。松平甚太郎忠茂率いる青野松平家の軍勢による大給城攻めは翌五月に決行。
大給城は標高二百七メートルに城郭が築かれた典型的な山城。周囲を空堀で囲み、北側の谷には水の手曲輪がある。この水の手曲輪は、さながらダムのように石垣で水をせき止めて飲み水を確保するだけでなく、敵の侵入を防ぐ曲輪なのである。
そんな山城である大給城で行われた戦いで松平甚太郎は奮戦。戦後、今川義元より感状を与えられている。しかし、青野松平家に攻撃を受け、大給松平家の姿勢は揺らぐことはなかった。
その後も大給松平家の抵抗は続き、足助鱸氏や広瀬三宅氏、ついには国境を越え、東美濃の国衆である岩村遠山氏ら周辺勢力と連携の上、反今川氏の活動を活発に展開。今、今川家は三河の地盤固めを何が何でも成し遂げる必要に迫られていた。
ちなみに、足助鱸家の当主・兵庫助は大給松平家の当主である松平親乗の異父弟、すなわち両名ともに随念院が腹を痛めて産んだ我が子。
そんな彼らは織田弾正忠家を継承した信長と姻戚関係にあり、三河国とも交流を持っていた岩村遠山氏らと連携することで織田氏につながり、反今川氏勢力として対抗し続けていくことになる――
「殿。高力与左衛門清長、ただいま参上いたしました。いかなるご用にございましょうか」
「うむ。駿府の太守様から召し出されたゆえ、登城することといたす」
「では、この与左衛門がお供すればよいのですな」
高力与左衛門よりの言葉に静かにうなずく竹千代。十一歳となった彼も、一年経過するごとに大人らしい風格が増しているようであった。
祖母・源応尼や太原崇孚から学問を学び、屋敷では石川与七郎らと剣術の稽古、弓馬の鍛錬、水泳など武士としての体づくりに抜かりなかった。
そんな竹千代にこの年から仕え始めたのが、高力与左衛門清長。竹千代の十二歳年上の二十三歳の好青年である。温順で、仏のように慈愛深い彼だが、幼少期に辛い経験をしている。
竹千代の祖父・松平清康が阿部大蔵定吉の子に斬り殺された守山崩れに乗じて織田信秀が三河に侵攻した際、父・安長と祖父・重長が共に戦死。当時、六歳であった高力与左衛門は叔父・重正に養育され、現在に至る。
竹千代はそんな懐の深い年上の家臣を気に入っており、こうして駿府の館へ出仕する際に供をさせるほどであった。
「殿!この天野三郎兵衛景能もお連れくださいませ!」
「おお、又五郎……ではなく、三郎兵衛も参るがよい」
「ははっ、ありがたき幸せ!」
「ははは、大げさな」
十六歳となった天野又五郎あらため、天野三郎兵衛景能は高力与左衛門とともに竹千代に随行し、駿府館へと向かった。駿府館へ竹千代が到着すると、今川治部太輔は不愉快そうな雰囲気を纏い、脇息に寄りかかっていた。
「太守様。松平竹千代、ただいま参上いたしました」
「おお、竹千代。よくぞ参った。近うよれ」
「ははっ、然らば」
竹千代が義元に召し出されている間、高力与左衛門と天野三郎兵衛は廊下にて待機。主君が今川家当主との謁見を終えて退出してくるのを静かに待っていた。
そんな義元と竹千代の話題は青野松平家による大給松平家攻めのことに始まり、三河情勢について。そして、織田備後守信秀亡き後の織田家についての話など、尾張・三河絡みのことを語り合った。
「竹千代よ。大給松平家の当主はお許にとって従伯父にあたる者であろう」
「はい。我が大伯母の随念院より説得に当たらせるのはいかがでしょう?」
「いや、その手はもう打ってある。されど、あの様子では帰順する気は毛頭なかろう」
大給松平家を帰順させたい義元であったが、竹千代を呼び寄せても打開策が見いだせるわけもなく。
「太守様、鳴海の山口氏を利用して織田方を切り崩す手はいかがにござりまするか」
「うむ、すでに山口左馬助には尾張の土豪らの調略を命じておる。はたして、どれほどの効果があるか定かではないがの」
織田を離反した山口教継による調略。これは義元が思いつかぬはずもなく、すでに取りかかられている。ただし、なかなか効果が現れず、苛立ちすら覚えているところなのである。
織田と今川の和睦は表面上継続している現在。しかし、水面下では織田に与する者と今川に与する者とで軍事衝突が絶えなかった。
「太守様は織田との和睦を破棄するおつもりはございまするか」
「無論、今年のうちに和睦を解消し、尾張侵攻を進めていくつもりじゃ。早う鳴海から織田の脅威を払拭してやらねば、山口左馬助らも安心して当家に従うこともできぬであろうゆえな」
こうして義元は織田弾正忠家の支配が安定しない状況を見て、織田との和睦を解消を見据えて行動を開始した。そんな織田方と今川方の小競り合いの最中である八月四日には、尾張国愛知郡沓掛において植村新六郎氏明も戦死。
織田と今川に挟まれている岡崎の松平宗家にとっても、無傷とはいかない状況が今しばらく続くこととなるのであった。
関東では正月十日に関東管領である山内上杉憲政が北条氏康に追われて越後守護代である長尾景虎を頼る事態に。この一件が数年後、軍神・長尾景虎を関東へ呼び込むことになるのである――
一方、畿内では六角定頼の死を契機として室町幕府将軍・足利義藤と三好方との間で和平が急速に進み、三好長慶を宥免して和解。
正月二十八日には将軍・足利義藤も衣装や刀を美々しく飾り立てた数千の兵を率いて入京するなど、畿内情勢にも大きな変化が訪れていた。
このように東西で情勢に変化が訪れる天文二十一年の三月三日。末森城にて尾張の傑物がこの世を去った。
そう、織田信長の父であり、織田弾正忠家を束ねてきた織田備後守信秀が死去したのである。享年四十二。
家督は嫡男である織田信長が継承、信長は家督継承を機に「上総守信長」を称するようになる。
されど、称する名を変えようとも、当時の織田弾正忠家を取り巻く状況は依然として悪化したまま。そうした状況下で織田信秀が死去したことの余波に、信長は苦しめられることとなる。
そして、織田信秀の葬儀は萬松寺で行われ、三百人もの僧侶を参集させた壮大なものであった。この信秀の葬儀における信長の行動が、織田弾正忠家において新たな波紋を生じさせていた。
信秀の晩年、末森城にて政務の補佐を行っていた勘十郎信勝。彼は折目高なる肩衣と袴を着用、すなわち正装したうえで礼儀正しく振る舞っていた。このことに、柴田権六らは誇らしげであった。
さらには、「喪主である肝心の信長が現れないとはどういうことか」と傅役の平手中務丞が詰め寄られ、正室・濃姫が肩身の狭い思いをしている中、当の本人は颯爽と登場。
しかし、信長の登場によって無事に葬儀は執り行われたとさ、めでたしめでたし――とはならなかった。
なんと、信長は仏前にて抹香を投げつけるという不行跡を示したのである。重臣らからの信望厚い勘十郎信勝と対照的な行動に、重臣らから指弾されることになってしまうのであった。
「若!一体、なんということを……!」
「爺か。ちと親父に言いたいことがあってな」
「な、何を申し上げたいので……!
「後継者をおれか、勘十郎かを指名せずに急死してしまったことよ。そのせいで、おれを嫌う重臣どもが弟を担ぎ出そうとする有り様。これでは尾張はおろか、織田弾正忠家を束ねることとて困難な道のりとなろう」
信長の危惧は葬儀での非行に憤る平手中務の怒りを鎮めてしまうほどの効力を発揮した。
「して、若殿。これよりいかがいたす。敵は尾張国内のみに非ず。今川をはじめ、尾張を虎視眈々と狙うておる者らも多かろう」
そう発言したのは平手中務とともに信長の傍に控える顎に立派な髭をたくわえた男。彼こそ亡き信秀の右腕であり、信長にとっては叔父にあたる孫三郎信光。小豆坂七本槍の一人として武勇を近隣に轟かせている猛者である。
「叔父御、親父殿は内に敵を抱えたまま今川や斎藤を相手にしてきた」
「ええ、その通り。されど、晩年はこれが災いし、一気に苦境に立たされることとなった」
「いかにも。親父殿は形式的な主君である守護代家や守護家を仰ぎ続けておった。その甘さが仇となった。じゃが、おれは敵に情けなどかけぬ」
「ほう、それは面白いことになりそうじゃ。よし、この孫三郎信光は信長殿を支持するとしようぞ」
豪快に肩を揺らしながら笑う三十七歳の織田孫三郎信光。父とともに数多の戦場を往来してきた叔父は実に頼りになる。そう感じる信長であったが、傍らにいる平手中務の表情は強張ったままであった。
「若殿に味方する織田一門は玄蕃允秀敏は確実でしょうな」
「ほう、あの舅御から動揺する織田家中の調停を依頼されておった玄蕃允か」
「そ、そのようなことまで存じておったか」
「よいか、叔父御。戦に勝つために重要なのは銭と情報。おれは織田一門や勘十郎を推す老臣どもの屋敷に草の者を潜らせておるわ」
抜かりない信長の処置に、さすがの百戦錬磨の強者も舌を巻くこととなった。無論、平手中務とて同じである。そんな若き織田弾正忠家の当主の次なる言葉を待っていた。
「爺。そして叔父御。来月には今川方に寝返った山口左馬助らを成敗することとしようぞ。あやつらを成敗するとなれば、今川より援軍も入ることとなろうが、臆してはならんぞ」
よもや、ここで鳴海の山口氏攻略を口にするとは思っていなかった平手中務と織田孫三郎であったが、さりとて放置もできない。何よりも、外に敵がいることで織田弾正忠家を一つに束ねられると信長は考えていることは両名とも承知していた。
信長は宣言通り、翌四月十七日に約八百の軍勢を率いて鳴海に攻め込んだ。山口九郎次郎教吉が赤塚の地に一千五百の兵を率いてきたことを見つけて、両軍は激突。
どちらも織田家に縁ある者たち。士気が低いこともあって勝敗はつかなかった。結局、互いの捕虜や捕らえた馬を交換して双方は引き上げることとなる。
なお、山口教吉の援軍として近くの笠寺には今川義元の妹婿である浅井小四郎政敏が岡部丹波守元綱、飯尾連龍、葛山長嘉らが入り織田信長を牽制。幸いともいうべきか、織田と今川の軍勢が衝突する事態には至らず。
この事態は、駿府にいる今川義元にも三河に詰める糟屋備前守・山岡景隆・飯尾乗連・二俣扶長ら城将らからも報告が入っていた。
「ふむ、崇孚よ。織田を継いだ信長が鳴海の山口氏を攻めたそうな」
「はい。まだまだ織田備後守死後のお家事情は苦しいようですな」
「ならば、攻勢を強めるとしようぞ。どうにも信長の名を聞くと寒気がするのじゃ」
「さ、寒気とは……!?お体、ご自愛くだされ」
二の腕をさする当主・義元。そんな彼を労わる太原崇孚であったが、突如彼の方がせき込み始める。
「そ、崇孚よ……!そちこそ、体調が優れぬのではないのか!?」
「ど、どうということはございませぬ。昨晩、深酒がすぎたのやもしれませぬ」
「そちは今川の軍師であるぞ。まだまだ働いてもらわねばならぬ。今宵はゆっくり休むがよい」
「ははっ、では今宵はこれにて失礼いたします」
やはり体調が優れぬのか、太原崇孚は引きづるような足取りで退出していく。そんな老僧の後ろ姿を心配げな眼差しで見つめる義元は書見台に置かれた三河からの便りへと視線を落とす。
その報告文書には大給松平親乗の不穏な動きについても記されていた。大給松平は松平宗家とは別に独立した国衆として活動してきた松平一族である。
「ふむ、松平のことじゃ。竹千代から働きかけたいところではあるが、そうもいかぬか。いや、竹千代に代わって岡崎の政務を重臣らと担っておる随念院は大給松平親乗の母ではないか。宗家ではなく、母を通じて働きかけてみるかの」
ぼそぼそと独り言ちる今川義元。だが、彼は母を通じて大給松平親乗を今川に従属させることを考えながらも、第二の対応としてとある男を動かすこととした。
その男とは、今川義元の計らいによって青野松平家を相続した松平甚太郎忠茂である。
「忠茂殿、駿府の御屋形様から何ぞご指示でも入りましたか」
「おお、松井左近尉か。うむ、一向に今川家へ従う姿勢を見せない大給松平を攻めよ、とな」
「では、近日中に出陣となりましょうや」
「うむ、早い方が良い。五月中に攻め潰すことといたそう。無論、この甚太郎自ら采配を執ることと致す!」
かくして、今川方の青野松平家は反今川を掲げる大給松平親乗の居城・大給城を攻める支度に入った。松平甚太郎忠茂率いる青野松平家の軍勢による大給城攻めは翌五月に決行。
大給城は標高二百七メートルに城郭が築かれた典型的な山城。周囲を空堀で囲み、北側の谷には水の手曲輪がある。この水の手曲輪は、さながらダムのように石垣で水をせき止めて飲み水を確保するだけでなく、敵の侵入を防ぐ曲輪なのである。
そんな山城である大給城で行われた戦いで松平甚太郎は奮戦。戦後、今川義元より感状を与えられている。しかし、青野松平家に攻撃を受け、大給松平家の姿勢は揺らぐことはなかった。
その後も大給松平家の抵抗は続き、足助鱸氏や広瀬三宅氏、ついには国境を越え、東美濃の国衆である岩村遠山氏ら周辺勢力と連携の上、反今川氏の活動を活発に展開。今、今川家は三河の地盤固めを何が何でも成し遂げる必要に迫られていた。
ちなみに、足助鱸家の当主・兵庫助は大給松平家の当主である松平親乗の異父弟、すなわち両名ともに随念院が腹を痛めて産んだ我が子。
そんな彼らは織田弾正忠家を継承した信長と姻戚関係にあり、三河国とも交流を持っていた岩村遠山氏らと連携することで織田氏につながり、反今川氏勢力として対抗し続けていくことになる――
「殿。高力与左衛門清長、ただいま参上いたしました。いかなるご用にございましょうか」
「うむ。駿府の太守様から召し出されたゆえ、登城することといたす」
「では、この与左衛門がお供すればよいのですな」
高力与左衛門よりの言葉に静かにうなずく竹千代。十一歳となった彼も、一年経過するごとに大人らしい風格が増しているようであった。
祖母・源応尼や太原崇孚から学問を学び、屋敷では石川与七郎らと剣術の稽古、弓馬の鍛錬、水泳など武士としての体づくりに抜かりなかった。
そんな竹千代にこの年から仕え始めたのが、高力与左衛門清長。竹千代の十二歳年上の二十三歳の好青年である。温順で、仏のように慈愛深い彼だが、幼少期に辛い経験をしている。
竹千代の祖父・松平清康が阿部大蔵定吉の子に斬り殺された守山崩れに乗じて織田信秀が三河に侵攻した際、父・安長と祖父・重長が共に戦死。当時、六歳であった高力与左衛門は叔父・重正に養育され、現在に至る。
竹千代はそんな懐の深い年上の家臣を気に入っており、こうして駿府の館へ出仕する際に供をさせるほどであった。
「殿!この天野三郎兵衛景能もお連れくださいませ!」
「おお、又五郎……ではなく、三郎兵衛も参るがよい」
「ははっ、ありがたき幸せ!」
「ははは、大げさな」
十六歳となった天野又五郎あらため、天野三郎兵衛景能は高力与左衛門とともに竹千代に随行し、駿府館へと向かった。駿府館へ竹千代が到着すると、今川治部太輔は不愉快そうな雰囲気を纏い、脇息に寄りかかっていた。
「太守様。松平竹千代、ただいま参上いたしました」
「おお、竹千代。よくぞ参った。近うよれ」
「ははっ、然らば」
竹千代が義元に召し出されている間、高力与左衛門と天野三郎兵衛は廊下にて待機。主君が今川家当主との謁見を終えて退出してくるのを静かに待っていた。
そんな義元と竹千代の話題は青野松平家による大給松平家攻めのことに始まり、三河情勢について。そして、織田備後守信秀亡き後の織田家についての話など、尾張・三河絡みのことを語り合った。
「竹千代よ。大給松平家の当主はお許にとって従伯父にあたる者であろう」
「はい。我が大伯母の随念院より説得に当たらせるのはいかがでしょう?」
「いや、その手はもう打ってある。されど、あの様子では帰順する気は毛頭なかろう」
大給松平家を帰順させたい義元であったが、竹千代を呼び寄せても打開策が見いだせるわけもなく。
「太守様、鳴海の山口氏を利用して織田方を切り崩す手はいかがにござりまするか」
「うむ、すでに山口左馬助には尾張の土豪らの調略を命じておる。はたして、どれほどの効果があるか定かではないがの」
織田を離反した山口教継による調略。これは義元が思いつかぬはずもなく、すでに取りかかられている。ただし、なかなか効果が現れず、苛立ちすら覚えているところなのである。
織田と今川の和睦は表面上継続している現在。しかし、水面下では織田に与する者と今川に与する者とで軍事衝突が絶えなかった。
「太守様は織田との和睦を破棄するおつもりはございまするか」
「無論、今年のうちに和睦を解消し、尾張侵攻を進めていくつもりじゃ。早う鳴海から織田の脅威を払拭してやらねば、山口左馬助らも安心して当家に従うこともできぬであろうゆえな」
こうして義元は織田弾正忠家の支配が安定しない状況を見て、織田との和睦を解消を見据えて行動を開始した。そんな織田方と今川方の小競り合いの最中である八月四日には、尾張国愛知郡沓掛において植村新六郎氏明も戦死。
織田と今川に挟まれている岡崎の松平宗家にとっても、無傷とはいかない状況が今しばらく続くこととなるのであった。
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霞花怜
歴史・時代
絵師・栄松斎長喜は、蔦屋重三郎が営む耕書堂に居住する絵師だ。ある春の日に、斎藤十郎兵衛と名乗る男が連れてきた「喜乃」という名の少女とで出会う。五歳の娘とは思えぬ美貌を持ちながら、周囲の人間に異常な敵愾心を抱く喜乃に興味を引かれる。耕書堂に居住で丁稚を始めた喜乃に懐かれ、共に過ごすようになる。長喜の真似をして絵を描き始めた喜乃に、自分の師匠である鳥山石燕を紹介する長喜。石燕の暮らす吾柳庵には、二人の妖怪が居住し、石燕の世話をしていた。妖怪とも仲良くなり、石燕の指導の下、絵の才覚を現していく喜乃。「絵師にはしてやれねぇ」という蔦重の真意がわからぬまま、喜乃を見守り続ける。ある日、喜乃にずっとついて回る黒い影に気が付いて、嫌な予感を覚える長喜。どう考えても訳ありな身の上である喜乃を気に掛ける長喜に「深入りするな」と忠言する京伝。様々な人々に囲まれながらも、どこか独りぼっちな喜乃を長喜は放っておけなかった。娘を育てるような気持で喜乃に接する長喜だが、師匠の石燕もまた、孫に接するように喜乃に接する。そんなある日、石燕から「俺の似絵を描いてくれ」と頼まれる。長喜が書いた似絵は、魂を冥府に誘う道標になる。それを知る石燕からの依頼であった。
【カクヨム・小説家になろう・アルファポリスに同作品掲載中】
※各話の最後に小噺を載せているのはアルファポリスさんだけです。(カクヨムは第1章だけ載ってますが需要ないのでやめました)
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
東洋大快人伝
三文山而
歴史・時代
薩長同盟に尽力し、自由民権運動で活躍した都道府県といえば、有名どころでは高知県、マイナーどころでは福岡県だった。
特に頭山満という人物は自由民権運動で板垣退助・植木枝盛の率いる土佐勢と主導権を奪い合い、伊藤博文・桂太郎といった明治の元勲たちを脅えさせ、大政翼賛会に真っ向から嫌がらせをして東条英機に手も足も出させなかった。
ここにあるのはそんな彼の生涯とその周辺を描くことで、幕末から昭和までの日本近代史を裏面から語る話である。
なろう・アルファポリス・カクヨム・マグネットに同一内容のものを投稿します。
渡世人飛脚旅(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)
牛馬走
歴史・時代
(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)水呑百姓の平太は、体の不自由な祖母を養いながら、未来に希望を持てずに生きていた。平太は、賭場で無宿(浪人)を鮮やかに斃す。その折、親分に渡世人飛脚に誘われる。渡世人飛脚とは、あちこちを歩き回る渡世人を利用した闇の運送業のことを云う――
左義長の火
藤瀬 慶久
歴史・時代
ボーイミーツガールは永遠の物語――
時は江戸時代後期。
少年・中村甚四郎は、近江商人の町として有名な近江八幡町に丁稚奉公にやって来た。一人前の商人を目指して仕事に明け暮れる日々の中、やがて同じ店で働く少女・多恵と将来を誓い合っていく。
歴史に名前を刻んだわけでも無く、世の中を変えるような偉業を成し遂げたわけでも無い。
そんな名も無き少年の、恋と青春と成長の物語。
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