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第1章 夢幻泡影の章
第7話 安城領回復を目指して
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こうして訪れた天文十四年、九月の二十日。於大の方との離縁から一年の月日が流れたこの日。東雲の岡崎城では決戦の機運が高まっていた。いや、高まっていたというよりも、昂っていたという方が正しいかもしれない。
戦場に出る大将とは思えぬ色白な額に付けられた鉢金が広間に差し込む朝日に照らされて、キラリと光る。そこへ、随念院と真喜姫改め田原御前が竹千代を連れて広忠の元へとやって来た。
「ととさま」
「おお、竹千代。朝早くに済まぬ」
床机に腰掛け、戦に赴く武士としての広忠の姿に、竹千代はいささか恐れの念を抱いているようでもある。しかし、父であることをしっかりと認識しているのか、真っ直ぐに広忠と目を合わせている。
「広忠殿、お抱きになられますか?」
「いや、凱旋した折に抱くことといたす。伯母上、それまで竹千代のことをお頼み申します」
「承りました。ささっ、竹千代君。あちらへ参りましょう」
「では、殿。ご無事のお戻りを」
「うむ。必ずや勝って戻るゆえ、くれぐれも竹千代を頼むぞ、御前」
随念院に連れられて広間を去っていく竹千代。その去り際の哀しいを帯びた目が、広忠の胸に刻みつけられる。田原御前もまた、不安と哀しみを振り払うように笑みを作って退出していった。
妻子らとのあいさつも済んだところを見計らって、酒井左衛門尉忠次が早足で寄ってくる。
「殿。松平右京亮殿が手勢を率いて土居の本多広孝と合流したとの由。上和田はしかと睨みつけておくゆえ安心して安城を攻められたい、とのこと」
「うむ、大叔父上が出陣したとあらば、上和田の松平三左衛門なぞ蛇に睨まれた蛙であろう」
酒井左衛門尉の口から出た、松平右京亮義春。彼は広忠にとっては大叔父、すなわち先日一周忌法要を終えた松平長親の四男なのである。広忠からの頼みを快諾してくれた、頼れる身内。
しかし、睨みつけるといっても、長期戦となれば話は別。是が非でも数日中に安城城を奪取する必要がある。
「広忠殿、我が祖父より長沢松平とともに手筈通り、牧野への備えを固めておるゆえ、背後はご案じなされますな、と言伝を預かっております!」
「左様か。五井松平の元心殿がおれば安心じゃ。そればかりか、岡崎に援兵まで派遣してくださり、まこと嬉しき限り」
「はっ、帰陣いたしましたら、その旨ただちに祖父へお伝えいたしまする」
広忠を見て、歯を見せてにっかりと笑う青年。この青年は松平外記忠次、広忠より五つ年上の二十五歳。広忠にとって頼れる兄貴分である。
「そうじゃ、水野と去就を共にする形原松平は深溝松平でしかと見張っておりますゆえ、何かあればすぐにお伝えいたしまする!」
広忠が水野と同盟を破棄した際、同じく同盟を破棄するかと思われた形原松平であるが、当主・家広が信元の同母妹を娶っている縁もあり水野との関係は今なお続いている。
そんな形原松平が南より押し寄せないとも限らず、そちらには深溝松平好景が目を光らせているとのこと。ちなみに、深溝松平好景は五井松平外記にとって従兄にあたる。
「安芸、留守はそちに任せたい。雅楽助とともにしかと岡崎を守ってくれよ」
「ハッ、お任せくだされ!」
「殿の留守、しかとお預かりいたしまする!」
岡崎の留守居役として、石川安芸守忠成、酒井雅楽助政家らを残す。
そして、広忠と共に安城城攻めに向かうは酒井左衛門尉忠次をはじめ、本多平八郎忠豊・忠高父子、大久保新八郎忠俊・七郎左衛門忠勝父子、大久保甚四郎忠員、新八郎と甚四郎の甥っ子・四郎五郎忠政、植村新六郎氏明といった武闘派の面々。
「戦に本多衆と大久保衆は欠かせぬ。頼むぞ皆の衆!」
広忠からの呼びかけに、力強く「おう!」と応える頼もしき強者たち。いかめしい面も、合戦の折には実に頼もしく映る。
そこへ、小姓たちが酒と勝ち栗を運んでくる。出陣式においては見慣れた光景であるが、土器の杯が回りだすと、いよいよ合戦が始まるのだという空気になる。
しかし、緊張や恐怖といった感情による張り詰めた空気などなく、皆が気合十分といった表情で酒を呑んでいく。
「皆の者、よいか!」
そう言って床机から勢いよく立ち上がった広忠は、杯を頭上に振りかぶった。次の瞬間には、地面に叩きつけられて割れた土器の杯が転がっていた。
「必ずや勝利し、安城城を我らが手に、松平の手に取り戻す!エイエイ!」
「「オー!!」」
広忠の声に合わせ、鬨の声を上げる三河武士たち。こうして、出陣式を終えた広忠ら岡崎の松平勢の動きは迅速であった。
松平外記率いる五井松平に加え、城外で松平昌久率いる大草松平、松平重親の能見松平の諸勢と合流。矢矧川を渡河して東海道沿いに西へ進軍していく。
その様子を山崎城から確認したのは松平蔵人信孝であった。
「広忠め、ここで動いてきたか。よし、ただちに安城城へ使者を出せ。およそ二千の松平勢が矢作川を渡河し、安城城へ向かってきている。松平広忠の馬印と五井松平の鳩酸草紋と大草松平の庵に三階菱紋、能見松平の五葉雪笹紋を確認したとな」
「ははっ!」
能見と大草の両松平家が包囲するより早く、山崎城から安城城へと早馬が走った。その知らせを受け、安城城に籠る六百ほどの織田勢は籠城を選択。一兵とも打って出ることはなく、広忠率いる松平勢の思うように城を包囲させた。
「殿、総攻めの下知を!」
「平八郎、分かっておる。よしっ、今日中に陥落させる危害で臨め!全軍、かか――」
敗戦の影響で士気も低く、そのうえ援軍も間に合わぬ急襲。もはや勝利は疑うべくもない。そんな気概をもって号令一下、因縁の城を陥落せしめんとした、その刹那。
「と、と、殿!」
血相を変えて、此度の戦で初陣を迎えた十四歳の大久保四郎五郎が血相を変えて広忠の元へ駆け寄ってきた。
「いかがした、四郎五郎!」
「一大事にござりまする!織田木瓜の旗、織田の援軍が参りました!」
「援軍じゃと?周辺の城や砦から集まってきたのであろう。数は数百ほどであろうで適当にあしらって……」
「いえ!こちらと同数かそれ以上の数!このままでは城攻めはおろか、岡崎への退路すらも危うくなる――と伯父が申しておりました!」
広忠もまた四郎五郎の表情が乗り移ったような面持ちで馬上から小手をかざした刹那、西や北より貝の音が響いてくる。松平勢に接近した織田勢から数条の矢が放たれ、それは広忠の身にも迫ってくる。
広忠が太刀を抜き、我が身に降り注ぐ矢を払い落しながら陣頭指揮を執る様を見て、馬上より笑うは織田信秀。傍らに控える弟の織田孫三郎信光と共に、慌てふためいて織田勢の急襲を防ぐ松平勢の姿を馬上より眺めていた。
「信光、見よ。岡崎の小童めが、死地を彷徨うておるわ」
「真ですな。見事な奇襲にござりましたが、惜しむならくは城内の間者を見抜けなかったことにござりましょう」
「ふふふ、広忠めも急襲とはいかなるものか、これにて理解したであろう。あの憎たらしい清康のもとへ旅立つ前に、良き冥途の土産となったであろうぞ。よし、よいか!手筈通り、貝と鬨の声で見事に安城での狩りを成功させよ」
傍らに一通りの指図を終えると、織田軍は信秀の手足の如く、命令通りの動きを成していく。そうとも知らず、広忠は勢子に追い立てられた鹿の如く待子の方へと追い込まれていく。
「兄上、もしかせずとも、あれをお使いになられまするので?」
「いかにも。実戦で用いるに値するか、確認しておく必要もある。美濃勢が相手では使用する機会に恵まれぬが、三河の弱小国衆相手ならば手ごろであろう」
「種子島……はたして実戦で用いるに値する代物にござりましょうか」
「知らぬ。それを確かめるため、広忠が仕掛けてくるのを朝な夕なと待っておったのよ」
織田軍が安城まで運んできたものについて語る兄弟。兄・信秀は今年で三十五歳、弟・信光は五つ下の三十歳。若さと経験のつり合いが取れている年頃である。
程よく経験を積んできた兄弟から見れば、広忠の血気にはやる戦い方は実に若く見えた。大将自ら刀を振るって、指揮を執るのも間に合っていない。これでは、軍勢は統率が取れず、支離滅裂となるは必定。
事実、松平勢は不意に現れた織田の大軍を前に陣形も崩れ、逃げる者と戦い続ける者が入り混じり、戦うどころの騒ぎではなかった。そこへ、安城城の城兵らも武功を稼ぐ好機と捉えて城門を開き、打って出てくる。
「松平広忠殿とお見受けいたす!我こそは織田信秀が侍大将――」
『松平の総大将を討ち取る好機!』と槍を引っ提げ駆け寄ってきた織田の侍大将であったが、横から風をきって飛んできた矢が眉間に突き立ち、どうっと地面の上に倒れ込み、そのまま動くことはなかった。
「殿!ご無事で!」
「四郎五郎か、助かったぞ。じゃが、名乗っておる最中に討ったのでは、誰の首か分からぬぞ」
「い、今はそれどころではござりませぬ!ともかく今は撤退を!」
駆けつけてきたのは大久保四郎五郎忠政だけではなかった。大久保新八郎と甚四郎の兄弟も馳せつけて来たのだ。
「殿、お味方は総崩れ、退くより他はござりませぬ」
「黙れ!このままおめおめと岡崎城へ逃げ帰れと申すか!見よ、あの丘の上に信秀めの馬印も翻っておるではないか!これこそ、神仏が信秀を討つ好機をお与えくださった証!断じて退くことは許さぬ!」
新八郎が分からずやの若殿を説得しようと試みる間にも、「広忠の首を取れ!」と織田兵が斬り込んでくる。もはや、押し問答している暇すらなかった。
そんな折であった。勢子に追い立てられた三河の哀れな小鹿に向けて、ダーンと大地を振るわせる轟音が響いたのは。
「ぎゃっ!」
轟音が広忠の鼓膜にも届くと同時に、彼の側にいた松平兵が悲鳴を上げて倒れていく。矢を受けたわけでもなく、ましてや槍で刺されたのでも、刀で斬られたのでもない。
「の、信秀め、このような妖術まで用いるとは……!」
当時、最新兵器であった種子島こと火縄銃。火縄銃を知っていれば、織田信秀は貴重な鉄砲を持っていることで、動揺させることもできた。
しかし、火縄銃という兵器を知らない松平兵にとっては、妖術の類としか思えず、信秀が想定していた反応とはまったく異なっている。
それでも人間の生物としての本能であろう。これより進んではならぬと、本能が警鐘を鳴らしていたのだ。
ゆえ、刀を抜き、馬に一鞭くれて敵中へ斬り込まんとする広忠も、轟音の直後、側にいた者が倒れたのを見てすくんでしまい、前に進めなくなってしまっていた。
広忠が辺りを見渡せば、織田勢の突撃により大混乱に陥る松平勢が視界に映る。城内から織田兵が打って出て、援軍の突撃に勢いを添え、防戦に努める味方が討ち死にしていく、さながら地獄絵図。
こうなっては崩れた陣形を立て直すことも、ましてや織田信秀との決戦など思い浮かばなかった。
「ええい!退くな!尾張の奴ばら、我ら三河武士の敵ではない!あやつらは妖術などという搦め手を用いなければ、まともに我らに立ち向かえぬ腰抜け共ぞ!」
松平の当主として、織田の当主を前にして退くことなどできなかった。広忠にも、広忠の、松平の当主としての意地があるのだから。
だが、一つ広忠にも予想できなかったのは、己の声が誰にも届いていないことであった。太刀打ちの音や鬨の声にかき消されてしまっている。
そもそも、命のやり取りをしている時に、他人の声など耳にも入らない。自分が死ぬかもしれないという緊迫した状況下では、やむを得ない事由ではあるのだが。
「くそっ!」
誰にも己の声が届かない、思うように戦が運ばず、大勢の味方が討たれ、逃げ出していく。この戦場に散らばる、あらゆる事柄への苛立ちをぶつけるように、近くの織田兵を馬上から斬り伏せる。
そんな折であった。突如、広忠の愛馬が叫び、暴れ出した。何とか落ち着かせようとする広忠であったが、愛馬の臀部に一筋の矢が突き立っているのが視界に入る。
「すまぬ、そなたにまで耐えがたい苦痛を強いてしまった――」
ここへ来て、己の無力さにとことんまで嫌気が指した広忠。己の意地を貫き、過去の敗戦を償おうと思い立った戦で、手ひどい敗戦を被った。多くの兵が討たれ、長らく辛苦を共にしてきた愛馬にまで苦痛を与えてしまっている。
――いっそ、このまま討ち取られてしまった方が良いのではないか。
不意に、己の心のうちに潜む悪魔が囁きかけてくる。己の心の弱さまで敵に回してしまった広忠の目を覚まさせたのは、家臣たちの叱咤であった――
戦場に出る大将とは思えぬ色白な額に付けられた鉢金が広間に差し込む朝日に照らされて、キラリと光る。そこへ、随念院と真喜姫改め田原御前が竹千代を連れて広忠の元へとやって来た。
「ととさま」
「おお、竹千代。朝早くに済まぬ」
床机に腰掛け、戦に赴く武士としての広忠の姿に、竹千代はいささか恐れの念を抱いているようでもある。しかし、父であることをしっかりと認識しているのか、真っ直ぐに広忠と目を合わせている。
「広忠殿、お抱きになられますか?」
「いや、凱旋した折に抱くことといたす。伯母上、それまで竹千代のことをお頼み申します」
「承りました。ささっ、竹千代君。あちらへ参りましょう」
「では、殿。ご無事のお戻りを」
「うむ。必ずや勝って戻るゆえ、くれぐれも竹千代を頼むぞ、御前」
随念院に連れられて広間を去っていく竹千代。その去り際の哀しいを帯びた目が、広忠の胸に刻みつけられる。田原御前もまた、不安と哀しみを振り払うように笑みを作って退出していった。
妻子らとのあいさつも済んだところを見計らって、酒井左衛門尉忠次が早足で寄ってくる。
「殿。松平右京亮殿が手勢を率いて土居の本多広孝と合流したとの由。上和田はしかと睨みつけておくゆえ安心して安城を攻められたい、とのこと」
「うむ、大叔父上が出陣したとあらば、上和田の松平三左衛門なぞ蛇に睨まれた蛙であろう」
酒井左衛門尉の口から出た、松平右京亮義春。彼は広忠にとっては大叔父、すなわち先日一周忌法要を終えた松平長親の四男なのである。広忠からの頼みを快諾してくれた、頼れる身内。
しかし、睨みつけるといっても、長期戦となれば話は別。是が非でも数日中に安城城を奪取する必要がある。
「広忠殿、我が祖父より長沢松平とともに手筈通り、牧野への備えを固めておるゆえ、背後はご案じなされますな、と言伝を預かっております!」
「左様か。五井松平の元心殿がおれば安心じゃ。そればかりか、岡崎に援兵まで派遣してくださり、まこと嬉しき限り」
「はっ、帰陣いたしましたら、その旨ただちに祖父へお伝えいたしまする」
広忠を見て、歯を見せてにっかりと笑う青年。この青年は松平外記忠次、広忠より五つ年上の二十五歳。広忠にとって頼れる兄貴分である。
「そうじゃ、水野と去就を共にする形原松平は深溝松平でしかと見張っておりますゆえ、何かあればすぐにお伝えいたしまする!」
広忠が水野と同盟を破棄した際、同じく同盟を破棄するかと思われた形原松平であるが、当主・家広が信元の同母妹を娶っている縁もあり水野との関係は今なお続いている。
そんな形原松平が南より押し寄せないとも限らず、そちらには深溝松平好景が目を光らせているとのこと。ちなみに、深溝松平好景は五井松平外記にとって従兄にあたる。
「安芸、留守はそちに任せたい。雅楽助とともにしかと岡崎を守ってくれよ」
「ハッ、お任せくだされ!」
「殿の留守、しかとお預かりいたしまする!」
岡崎の留守居役として、石川安芸守忠成、酒井雅楽助政家らを残す。
そして、広忠と共に安城城攻めに向かうは酒井左衛門尉忠次をはじめ、本多平八郎忠豊・忠高父子、大久保新八郎忠俊・七郎左衛門忠勝父子、大久保甚四郎忠員、新八郎と甚四郎の甥っ子・四郎五郎忠政、植村新六郎氏明といった武闘派の面々。
「戦に本多衆と大久保衆は欠かせぬ。頼むぞ皆の衆!」
広忠からの呼びかけに、力強く「おう!」と応える頼もしき強者たち。いかめしい面も、合戦の折には実に頼もしく映る。
そこへ、小姓たちが酒と勝ち栗を運んでくる。出陣式においては見慣れた光景であるが、土器の杯が回りだすと、いよいよ合戦が始まるのだという空気になる。
しかし、緊張や恐怖といった感情による張り詰めた空気などなく、皆が気合十分といった表情で酒を呑んでいく。
「皆の者、よいか!」
そう言って床机から勢いよく立ち上がった広忠は、杯を頭上に振りかぶった。次の瞬間には、地面に叩きつけられて割れた土器の杯が転がっていた。
「必ずや勝利し、安城城を我らが手に、松平の手に取り戻す!エイエイ!」
「「オー!!」」
広忠の声に合わせ、鬨の声を上げる三河武士たち。こうして、出陣式を終えた広忠ら岡崎の松平勢の動きは迅速であった。
松平外記率いる五井松平に加え、城外で松平昌久率いる大草松平、松平重親の能見松平の諸勢と合流。矢矧川を渡河して東海道沿いに西へ進軍していく。
その様子を山崎城から確認したのは松平蔵人信孝であった。
「広忠め、ここで動いてきたか。よし、ただちに安城城へ使者を出せ。およそ二千の松平勢が矢作川を渡河し、安城城へ向かってきている。松平広忠の馬印と五井松平の鳩酸草紋と大草松平の庵に三階菱紋、能見松平の五葉雪笹紋を確認したとな」
「ははっ!」
能見と大草の両松平家が包囲するより早く、山崎城から安城城へと早馬が走った。その知らせを受け、安城城に籠る六百ほどの織田勢は籠城を選択。一兵とも打って出ることはなく、広忠率いる松平勢の思うように城を包囲させた。
「殿、総攻めの下知を!」
「平八郎、分かっておる。よしっ、今日中に陥落させる危害で臨め!全軍、かか――」
敗戦の影響で士気も低く、そのうえ援軍も間に合わぬ急襲。もはや勝利は疑うべくもない。そんな気概をもって号令一下、因縁の城を陥落せしめんとした、その刹那。
「と、と、殿!」
血相を変えて、此度の戦で初陣を迎えた十四歳の大久保四郎五郎が血相を変えて広忠の元へ駆け寄ってきた。
「いかがした、四郎五郎!」
「一大事にござりまする!織田木瓜の旗、織田の援軍が参りました!」
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広忠が太刀を抜き、我が身に降り注ぐ矢を払い落しながら陣頭指揮を執る様を見て、馬上より笑うは織田信秀。傍らに控える弟の織田孫三郎信光と共に、慌てふためいて織田勢の急襲を防ぐ松平勢の姿を馬上より眺めていた。
「信光、見よ。岡崎の小童めが、死地を彷徨うておるわ」
「真ですな。見事な奇襲にござりましたが、惜しむならくは城内の間者を見抜けなかったことにござりましょう」
「ふふふ、広忠めも急襲とはいかなるものか、これにて理解したであろう。あの憎たらしい清康のもとへ旅立つ前に、良き冥途の土産となったであろうぞ。よし、よいか!手筈通り、貝と鬨の声で見事に安城での狩りを成功させよ」
傍らに一通りの指図を終えると、織田軍は信秀の手足の如く、命令通りの動きを成していく。そうとも知らず、広忠は勢子に追い立てられた鹿の如く待子の方へと追い込まれていく。
「兄上、もしかせずとも、あれをお使いになられまするので?」
「いかにも。実戦で用いるに値するか、確認しておく必要もある。美濃勢が相手では使用する機会に恵まれぬが、三河の弱小国衆相手ならば手ごろであろう」
「種子島……はたして実戦で用いるに値する代物にござりましょうか」
「知らぬ。それを確かめるため、広忠が仕掛けてくるのを朝な夕なと待っておったのよ」
織田軍が安城まで運んできたものについて語る兄弟。兄・信秀は今年で三十五歳、弟・信光は五つ下の三十歳。若さと経験のつり合いが取れている年頃である。
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事実、松平勢は不意に現れた織田の大軍を前に陣形も崩れ、逃げる者と戦い続ける者が入り混じり、戦うどころの騒ぎではなかった。そこへ、安城城の城兵らも武功を稼ぐ好機と捉えて城門を開き、打って出てくる。
「松平広忠殿とお見受けいたす!我こそは織田信秀が侍大将――」
『松平の総大将を討ち取る好機!』と槍を引っ提げ駆け寄ってきた織田の侍大将であったが、横から風をきって飛んできた矢が眉間に突き立ち、どうっと地面の上に倒れ込み、そのまま動くことはなかった。
「殿!ご無事で!」
「四郎五郎か、助かったぞ。じゃが、名乗っておる最中に討ったのでは、誰の首か分からぬぞ」
「い、今はそれどころではござりませぬ!ともかく今は撤退を!」
駆けつけてきたのは大久保四郎五郎忠政だけではなかった。大久保新八郎と甚四郎の兄弟も馳せつけて来たのだ。
「殿、お味方は総崩れ、退くより他はござりませぬ」
「黙れ!このままおめおめと岡崎城へ逃げ帰れと申すか!見よ、あの丘の上に信秀めの馬印も翻っておるではないか!これこそ、神仏が信秀を討つ好機をお与えくださった証!断じて退くことは許さぬ!」
新八郎が分からずやの若殿を説得しようと試みる間にも、「広忠の首を取れ!」と織田兵が斬り込んでくる。もはや、押し問答している暇すらなかった。
そんな折であった。勢子に追い立てられた三河の哀れな小鹿に向けて、ダーンと大地を振るわせる轟音が響いたのは。
「ぎゃっ!」
轟音が広忠の鼓膜にも届くと同時に、彼の側にいた松平兵が悲鳴を上げて倒れていく。矢を受けたわけでもなく、ましてや槍で刺されたのでも、刀で斬られたのでもない。
「の、信秀め、このような妖術まで用いるとは……!」
当時、最新兵器であった種子島こと火縄銃。火縄銃を知っていれば、織田信秀は貴重な鉄砲を持っていることで、動揺させることもできた。
しかし、火縄銃という兵器を知らない松平兵にとっては、妖術の類としか思えず、信秀が想定していた反応とはまったく異なっている。
それでも人間の生物としての本能であろう。これより進んではならぬと、本能が警鐘を鳴らしていたのだ。
ゆえ、刀を抜き、馬に一鞭くれて敵中へ斬り込まんとする広忠も、轟音の直後、側にいた者が倒れたのを見てすくんでしまい、前に進めなくなってしまっていた。
広忠が辺りを見渡せば、織田勢の突撃により大混乱に陥る松平勢が視界に映る。城内から織田兵が打って出て、援軍の突撃に勢いを添え、防戦に努める味方が討ち死にしていく、さながら地獄絵図。
こうなっては崩れた陣形を立て直すことも、ましてや織田信秀との決戦など思い浮かばなかった。
「ええい!退くな!尾張の奴ばら、我ら三河武士の敵ではない!あやつらは妖術などという搦め手を用いなければ、まともに我らに立ち向かえぬ腰抜け共ぞ!」
松平の当主として、織田の当主を前にして退くことなどできなかった。広忠にも、広忠の、松平の当主としての意地があるのだから。
だが、一つ広忠にも予想できなかったのは、己の声が誰にも届いていないことであった。太刀打ちの音や鬨の声にかき消されてしまっている。
そもそも、命のやり取りをしている時に、他人の声など耳にも入らない。自分が死ぬかもしれないという緊迫した状況下では、やむを得ない事由ではあるのだが。
「くそっ!」
誰にも己の声が届かない、思うように戦が運ばず、大勢の味方が討たれ、逃げ出していく。この戦場に散らばる、あらゆる事柄への苛立ちをぶつけるように、近くの織田兵を馬上から斬り伏せる。
そんな折であった。突如、広忠の愛馬が叫び、暴れ出した。何とか落ち着かせようとする広忠であったが、愛馬の臀部に一筋の矢が突き立っているのが視界に入る。
「すまぬ、そなたにまで耐えがたい苦痛を強いてしまった――」
ここへ来て、己の無力さにとことんまで嫌気が指した広忠。己の意地を貫き、過去の敗戦を償おうと思い立った戦で、手ひどい敗戦を被った。多くの兵が討たれ、長らく辛苦を共にしてきた愛馬にまで苦痛を与えてしまっている。
――いっそ、このまま討ち取られてしまった方が良いのではないか。
不意に、己の心のうちに潜む悪魔が囁きかけてくる。己の心の弱さまで敵に回してしまった広忠の目を覚まさせたのは、家臣たちの叱咤であった――
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霞花怜
歴史・時代
絵師・栄松斎長喜は、蔦屋重三郎が営む耕書堂に居住する絵師だ。ある春の日に、斎藤十郎兵衛と名乗る男が連れてきた「喜乃」という名の少女とで出会う。五歳の娘とは思えぬ美貌を持ちながら、周囲の人間に異常な敵愾心を抱く喜乃に興味を引かれる。耕書堂に居住で丁稚を始めた喜乃に懐かれ、共に過ごすようになる。長喜の真似をして絵を描き始めた喜乃に、自分の師匠である鳥山石燕を紹介する長喜。石燕の暮らす吾柳庵には、二人の妖怪が居住し、石燕の世話をしていた。妖怪とも仲良くなり、石燕の指導の下、絵の才覚を現していく喜乃。「絵師にはしてやれねぇ」という蔦重の真意がわからぬまま、喜乃を見守り続ける。ある日、喜乃にずっとついて回る黒い影に気が付いて、嫌な予感を覚える長喜。どう考えても訳ありな身の上である喜乃を気に掛ける長喜に「深入りするな」と忠言する京伝。様々な人々に囲まれながらも、どこか独りぼっちな喜乃を長喜は放っておけなかった。娘を育てるような気持で喜乃に接する長喜だが、師匠の石燕もまた、孫に接するように喜乃に接する。そんなある日、石燕から「俺の似絵を描いてくれ」と頼まれる。長喜が書いた似絵は、魂を冥府に誘う道標になる。それを知る石燕からの依頼であった。
【カクヨム・小説家になろう・アルファポリスに同作品掲載中】
※各話の最後に小噺を載せているのはアルファポリスさんだけです。(カクヨムは第1章だけ載ってますが需要ないのでやめました)
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
東洋大快人伝
三文山而
歴史・時代
薩長同盟に尽力し、自由民権運動で活躍した都道府県といえば、有名どころでは高知県、マイナーどころでは福岡県だった。
特に頭山満という人物は自由民権運動で板垣退助・植木枝盛の率いる土佐勢と主導権を奪い合い、伊藤博文・桂太郎といった明治の元勲たちを脅えさせ、大政翼賛会に真っ向から嫌がらせをして東条英機に手も足も出させなかった。
ここにあるのはそんな彼の生涯とその周辺を描くことで、幕末から昭和までの日本近代史を裏面から語る話である。
なろう・アルファポリス・カクヨム・マグネットに同一内容のものを投稿します。
渡世人飛脚旅(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)
牛馬走
歴史・時代
(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)水呑百姓の平太は、体の不自由な祖母を養いながら、未来に希望を持てずに生きていた。平太は、賭場で無宿(浪人)を鮮やかに斃す。その折、親分に渡世人飛脚に誘われる。渡世人飛脚とは、あちこちを歩き回る渡世人を利用した闇の運送業のことを云う――
左義長の火
藤瀬 慶久
歴史・時代
ボーイミーツガールは永遠の物語――
時は江戸時代後期。
少年・中村甚四郎は、近江商人の町として有名な近江八幡町に丁稚奉公にやって来た。一人前の商人を目指して仕事に明け暮れる日々の中、やがて同じ店で働く少女・多恵と将来を誓い合っていく。
歴史に名前を刻んだわけでも無く、世の中を変えるような偉業を成し遂げたわけでも無い。
そんな名も無き少年の、恋と青春と成長の物語。
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