君は僕の番じゃないから

椎名さえら

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ルーカス

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夕暮れ時に運河近くをひとりで歩いていた。

リチャードは6歳になり、大分距離を歩けるようになったので、時々彼とも散歩をする道だ。リチャードの番もどこかにいるはずだ…男女どちらかも、年齢もまったく分からないけれど、母親を彼から奪った番というものをこの子は恨むだろうか、と考えることもある。両親にリチャードを預ける義兄が姉のことを貶めるようなことを言いながら育てているとは思えず、それであれば番のことは別に捉えるかな…。

上の学校に通い始めると、今までより、自分と同じくらいの知的好奇心を持った人たちがまわりに溢れ、すごく刺激を受けている。姉のことを考えることも前より減ったし、番のこともよりフラットに捉えるようになった気がする。例え出会ってたとしても番というものはあくまでも選択肢の一つであり、だからこそ私は義兄にこれからも番であることを言うつもりはない。




「オリヴィア」

懐かしい声が響いて、私は振り向いた。

「お姉ちゃん」





少し痩せた姉は、番の人が帰郷するのに合わせて自分も久しぶりに故郷の町を見たいと戻ってきたらしい。さすがに実家に顔を出す勇気はなく、義兄とデートでよくこの道を歩いていたから、懐かしさに駆られてやってきたというわけか。番の人の姿は見当たらなかった。とにかくそうしたら偶然に私が先に歩いていた、というわけだ。

姉との再会はそれこそ何回も考えていたけれど、いざ叶ってしまえば、正直に言えば私は何も感じなかったーーこの人は姉だけど、もう私の知っている姉ではない、そんな感じで。


『あの人…怒ってるよね?』

『ううん怒ってないよ。リチャードのことも放り出さずに、ちゃんと面倒みてくれてるよ』

子供の名前を聞くと、姉の綺麗な顔がくしゃくしゃに歪んだ。子供を置いていったことは、さすがに良心が咎めるようだ。

『あの時もう何も考えられなくて…家に離婚の書類を置いておくので精一杯で』

そうだ、あの日そうやって姉はサインをして離婚の書類を実家においていった。義兄はその書類を見た瞬間に心を決めたと言っていた、とルーカスに聞いた。

『私のこと…勝手だって、最悪の母親だって、罵っていいよ』

姉がそう言うが、私は首を横に振った。

『ううん、そうして欲しいならしてあげるけど、そうじゃなかったら必要ないからしない。冷たいように聞こえるかも知れないけど、だってお姉ちゃんの人生だもん』

姉はそれを聞くと、俯いて押し黙った。

『お姉ちゃん、今、幸せ?』

私はどうしてもそれだけを知りたかった。

『………うん、幸せよ、すごく』

姉はそういって、にっこりと微笑んだ。





姉に連絡先を聞いたが教えてくれなかった。しばらく食い下がると、やがて彼女は根負けして街の名前を教えてくれた。ここから数時間行ったところにある、どちらかというとエリーゼの帰った街の近くだ。本当に来たかったら、その街の中心部にある聖堂近くにある本屋に来て、姉の名前を言ってくれたら会えるはずだ、と。私が一歩前に出て彼女に何か言おうとすると、姉は後ずさって逃げるように私の目の前から足早に去っていった。

すぐに行動するべきなのは分かっていたが、私の足はそれ以上動かず、彼女の後ろ姿を見送った。

「オリヴィア、家を訪ねていったのにいないから探したよ」

でも君は夕暮れ時に此処にいるのが好きだからすぐ分かったけどね、と言いながら、ぽんと肩を叩かれて見上げるとそこには今日も美しいルーカスが立っていた。彼は上の学校を卒業した後、弁護士になり、今は街の大きな弁護士事務所で雇ってもらって新米弁護士として出発したところだ。彼は私の顔を見て、ぎょっとしたように呟いた。

「泣いてる、どうした?何があった?」
「ルーカス…」

私はあふれる涙を慌てて拭った。

「ごめん…」
「謝る必要はないけど、本当にどうした?」

ルーカスはじっと私の表情を眺めて、困ったように尋ねた。

「うん………」

どうやって話すか、少しだけ悩んだ。


普段は私にちゃんと距離を取っているルーカスが、心配だからと私の手を取った。彼の手の暖かさに励まされて、私はつっかえながら話し始めた。

姉に再会したこと、姉が痩せていたこと、それから姉が不自然なほどに袖と襟がぴっちりした服をきていたこと、少しだけ見えた首元に青紫の痣があったこと。姉に幸せか、と尋ねたときに、幸せよと答えた声が異常なほどに震えていたこと。番の人の姿は見当たらなかったから多分逃げてきたんだと思われること。なんとか姉を捕まえておかなければいけないと思ったのに、あまりにも怯えた姉の姿にどうしても足が動かなかったこと。

ルーカスは黙って私の話を聞いた後、よく頑張ったな、と頭をぽんと叩いてくれた。それから、口の中であの野郎と罵っているのが聞こえた。

「義兄さんに言おうかと思ってるけど…ルーカスだったらどうする?」
「俺か?俺も…お義兄さんに言って彼に決めてもらうと思う」

ルーカスも、この数年義兄が姉を待っているのを知っている。彼の人柄と、彼の静かな愛にルーカスは感銘を受けていた。

「い、いまから義兄さんの家に行く」

私がそう言うと、彼は頷いた。

「ルーカスも一緒に来てくれる?」
「もちろんだ」


急な来訪にも嫌な顔をひとつしなかった義兄は、私の話を黙って聞いていた。ルーカスはリチャードと遊んでくれている。正直な話、子供にはこの話を聞かせたくなかったからルーカスに感謝した。

「話を大事にする前に、まず俺に話してくれてありがとう」

義兄はいつものように静かにそう言った。私が姉を捕まえられなかったことを詫びると、彼はきっぱりと首を横に振った。

「オリヴィアに嫌な役割をさせてしまって申し訳なかったね。あとは俺に任せてくれる?」

私達が部屋を出ると、ルーカスがリチャードを抱っこしたまま義兄に言った。

「今から向かうんですよね?俺も連れて行って下さい、あいつの居場所に心当たりがあります」
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