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エピローグ
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家に帰宅した夫婦は、2人で寝室に籠もると、長椅子に隣り合って座り、過去をお互いの目線から共有し合った。
彼はとにかくエラのことが好きでずっと影から見守っていたというが、花を差し出された時以外に彼女は彼を見かけたことが一度もなかったように思う。勿論、彼女がジェームズの婚約者となってからはとにかくエラには姿を見られないように気をつけていたと彼は言うが、街の人は彼の存在に気づいていなかったのだろうか。
「誰かが気づいていたとは思えないな。そもそも俺はほとんど社交の場には出ていない。ジェームズと並んでいない限り、誰も俺たちを結びつけて考えることはない。戦場でも直属の上司以外は気づかなかったくらいだ」
それはそうかもしれない、ともエラは思った。義母の用心深すぎる性格から思うと、ジェームズ、アンドレイも彼の存在を知らされていたとは思い難い。
そして、彼とジェームズは、顔立ちこそは似ているが、陰と陽ほどの違いがあるから、2人を結びつけて考える人は確かにいなかったに違いない。
「基本的には、あの人に指示されて狭い世界で生きていたからな…親しい知り合いも作らないように気をつけていた」
小さい頃は彼の存在が発覚するのを恐れた義母に学校に通うことを止められ、屋敷に秘密裏に呼ばれてジェームズと同じ家庭教師がつけられていたそうだ。最低限の生活費を保証する代わりにまともに働くという行為も禁止されていて、その制約に息苦しさを感じた彼は日雇いの労働者に紛れて、肉体労働をするしかなかった。日雇いの労働者は他人に興味がなく、かつジェームズの生きる世界とはかけ離れていたから彼の存在が勘付かれるリスクはほぼなかったからだ。彼がこれだけ引き締まった身体を持っているのは当然で、日々肉体を酷使して生きていた証だった。
日陰者としての生活に不満がないわけではなかったが、彼が10代半ば頃から母親が病気がちになってからは、義母が義父に隠れて今まで以上の金銭的援助をしてくれるようになり、母のために我慢していたのだという。そして戦争に行くということの代償に、彼の母に最高の医療を受けさせてくれたので彼はその点は感謝していた。彼の母は彼が戦争に出征している間に亡くなったが、最後は苦しまずに穏やかな顔だったと医者に聞いたそうだ。
(でも…お母様は最期のときにはきっと彼に…側にいてほしかったんじゃかしら…)
ジェームズの尻拭いをするために彼を戦争に向かわせ、母の今際の際に彼が立ち会えなかったなんて…考えるだにおぞましい行為だ。勿論エラが指摘するまでもなく、そんなことは彼だって分かっているだろう。彼には選択肢がなかっただけだ。
「ラウル、貴方こそこの家から自由になるべきだと思うわ」
エラが思わずそう言うと、夫はーーラウルは瞬いた。
「自由になっても君がいなかったら、俺にとってそれは意味がないことだよ」
自分は間違いなくおかしくなっているとエラは思う。
彼の盲目的な愛が、エラの心をぞくぞくと痺れさせるのだ。ラウルはまるで鳥の刷り込みのように、彼女に惚れ込んでいる。その一心不乱な愛が彼女の渇いた心を満たしていくのを彼女は感じていた。彼の愛は、母親の今際の際に会えない代わりにエラが手に入ると聞いたら、それでいい、と頷くような危うさを孕んでいる。そうしてその歪んだ愛を自分は何よりも必要としているのだ。
「貴方も私も…どうかしてるのかも知れないわね」
「それは否定しない…だが俺はこれ以上ないくらいに幸せだ」
エラが少しだけ彼へと身体を傾けると、ラウルが逞しい身体に彼女を引き寄せてくれる。彼がつけているアンバーの香りの香水と、彼女の薔薇の香水の香りが混じり合ってエラはうっとりとする。もうエラは夫に抱き寄せられても嫌悪感を感じない。彼はジェームズではないのだ。
「君が俺を受け入れてくれて、これから一緒に生きていけるなんて…未だに信じられないよ」
彼の囁きが彼女の心を高ぶらせる。
「ねえ、ラウル…明日なんだけど…」
エラの提案に、夫は優しく頷いた。
彼はとにかくエラのことが好きでずっと影から見守っていたというが、花を差し出された時以外に彼女は彼を見かけたことが一度もなかったように思う。勿論、彼女がジェームズの婚約者となってからはとにかくエラには姿を見られないように気をつけていたと彼は言うが、街の人は彼の存在に気づいていなかったのだろうか。
「誰かが気づいていたとは思えないな。そもそも俺はほとんど社交の場には出ていない。ジェームズと並んでいない限り、誰も俺たちを結びつけて考えることはない。戦場でも直属の上司以外は気づかなかったくらいだ」
それはそうかもしれない、ともエラは思った。義母の用心深すぎる性格から思うと、ジェームズ、アンドレイも彼の存在を知らされていたとは思い難い。
そして、彼とジェームズは、顔立ちこそは似ているが、陰と陽ほどの違いがあるから、2人を結びつけて考える人は確かにいなかったに違いない。
「基本的には、あの人に指示されて狭い世界で生きていたからな…親しい知り合いも作らないように気をつけていた」
小さい頃は彼の存在が発覚するのを恐れた義母に学校に通うことを止められ、屋敷に秘密裏に呼ばれてジェームズと同じ家庭教師がつけられていたそうだ。最低限の生活費を保証する代わりにまともに働くという行為も禁止されていて、その制約に息苦しさを感じた彼は日雇いの労働者に紛れて、肉体労働をするしかなかった。日雇いの労働者は他人に興味がなく、かつジェームズの生きる世界とはかけ離れていたから彼の存在が勘付かれるリスクはほぼなかったからだ。彼がこれだけ引き締まった身体を持っているのは当然で、日々肉体を酷使して生きていた証だった。
日陰者としての生活に不満がないわけではなかったが、彼が10代半ば頃から母親が病気がちになってからは、義母が義父に隠れて今まで以上の金銭的援助をしてくれるようになり、母のために我慢していたのだという。そして戦争に行くということの代償に、彼の母に最高の医療を受けさせてくれたので彼はその点は感謝していた。彼の母は彼が戦争に出征している間に亡くなったが、最後は苦しまずに穏やかな顔だったと医者に聞いたそうだ。
(でも…お母様は最期のときにはきっと彼に…側にいてほしかったんじゃかしら…)
ジェームズの尻拭いをするために彼を戦争に向かわせ、母の今際の際に彼が立ち会えなかったなんて…考えるだにおぞましい行為だ。勿論エラが指摘するまでもなく、そんなことは彼だって分かっているだろう。彼には選択肢がなかっただけだ。
「ラウル、貴方こそこの家から自由になるべきだと思うわ」
エラが思わずそう言うと、夫はーーラウルは瞬いた。
「自由になっても君がいなかったら、俺にとってそれは意味がないことだよ」
自分は間違いなくおかしくなっているとエラは思う。
彼の盲目的な愛が、エラの心をぞくぞくと痺れさせるのだ。ラウルはまるで鳥の刷り込みのように、彼女に惚れ込んでいる。その一心不乱な愛が彼女の渇いた心を満たしていくのを彼女は感じていた。彼の愛は、母親の今際の際に会えない代わりにエラが手に入ると聞いたら、それでいい、と頷くような危うさを孕んでいる。そうしてその歪んだ愛を自分は何よりも必要としているのだ。
「貴方も私も…どうかしてるのかも知れないわね」
「それは否定しない…だが俺はこれ以上ないくらいに幸せだ」
エラが少しだけ彼へと身体を傾けると、ラウルが逞しい身体に彼女を引き寄せてくれる。彼がつけているアンバーの香りの香水と、彼女の薔薇の香水の香りが混じり合ってエラはうっとりとする。もうエラは夫に抱き寄せられても嫌悪感を感じない。彼はジェームズではないのだ。
「君が俺を受け入れてくれて、これから一緒に生きていけるなんて…未だに信じられないよ」
彼の囁きが彼女の心を高ぶらせる。
「ねえ、ラウル…明日なんだけど…」
エラの提案に、夫は優しく頷いた。
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