とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら

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どくりどくり、と胸の鼓動が激しく鳴り響き、エラは浅く呼吸をしながら見知らぬ初老の男に答えた。

「な、何を仰っているのか…私には分かり兼ねますわ」

マッケンジーは周囲に人がいないことを見てとると、エラに一歩近づき小声で囁いた。

「いいえ、聡明な貴女はきっとお気づきのはずです。あの男は、貴女の夫のジェームス・ブラウンではない。本当のジェームスは…」
「そこまでにしてもらおう、マッケンジー中佐」

冷たい夫の声が、マッケンジーの言葉を遮った。エラの背中にジェームズの手が後ろからそっと添えられた。

「貴方は私の恩を忘れたのか?マッケンジー中佐、貴方が右手を失うだけで済んだのは私のお陰だったんだぞ」
「忘れてはいない…だが…私はこのレディを哀れに思ってしまったのだ…、あんな修羅場に巻き込まれてでもジェームズを庇い、しかし彼女は真実を知らないなどと」
「マッケンジー中佐、貴方の仰っていることは推測の域を出ていない。口を謹んで頂きたい」

今やジェームズは苦しそうに呟くばかりだ。マッケンジーは夫の表情を見ると、口を噤んだ。

「私は…君も幸せにならないといけないよ」

マッケンジーは最後にそう言い置いて、去っていった。彼の眼差しは決して人を貶めようとしている風には感じられず、年若い友人を思いやっていて、至極暖かかった。

ジェームズはその背中をじっと眺めていたが、やがてため息をつき、エラの背中に添えていた手を下ろした。

「エラ」

美しい夫は、妻を見下ろした。

「少し話をしようか」



パーティ会場にいる人々は誰もジェームズとエラについて注視していなかった。ジェームズとエラが2人で広間を出たとしても、夫婦が席を外しただけだと思っているし、興味もない。彼らは今日のパーティで、再構築を試みているブラウン家の長男夫妻として市民権を得た。

ジェームズは廊下を歩いて、空いている部屋を見つけると、エラと共に中に入った。ここならば間違ってでも人が迷い込んでくる可能性もないくらいには会場から離れている。

エラは夫を見上げると、彼の瞳の中に答えを見つけた。


「貴方は…誰なの?」


ふうと彼は深い深い、ため息をついた。


「俺はジェームズの異母兄弟だ」
「異母兄弟…?」
「ああ」

彼はぐしゃぐしゃと自分の髪をかき回している。

この人は、やはりジェームズではなかった。

エラは掠れた声で彼に尋ねた。

「どうして、こんなことを…」

彼は、エラを熱い眼差しで見つめた。

「俺は、少しの間でもいいから君の側にいたかった、ただの哀れな男だよ」




は、ジェームズが産まれる前に、義父が当時屋敷で働いていた下働きの女に産ませた子供だった。当時、義両親の仲には隙間風が吹いていて、義父が浮気をしていたのは公然の秘密であり、義母も容認していたのだという。義母は義父が浮気相手に産ませた子供を認知はしないが、嫌がらせなどはせず、義父が彼らの最低限の生活費を渡すのも見て見ぬ振りをしていた。

彼が産まれた1年後にジェームスが産まれると、義両親の夫婦仲は前ほど険悪ではなくなり、義父は彼の母には見向きもしなくなり生活費を渡すのも滞ったので、私生児を抱えた彼の母はとても苦労しながら彼を育てることになった。義母はその後アンドレイも産み、やっと少し気持ちの余裕が出た中で、ふと夫が他の女に産ませた子供はどんな子供か興味を惹かれ、ある日突然彼の家を訪ねてきたのだという。

「で、では…お義母さまは、ずっと貴方と面識があったの?」
「ああ」

エラはあまりにも思いもよらない話ばかりが続くので、目が眩むような感覚に陥った。目眩を感じて思わず一歩後ずさると、彼が慌てて彼女に手を差し出そうとしたが、触られるのを彼女が嫌がるかと思ったかのように躊躇い、そのまま手をおろした。

「君にはショックな話ばかり続くだろう…良ければそこの長椅子に座りたまえ」

(そうだ…この人はずっとずっと私に、優しかった…そのことは疑いようもない事実だわ)

エラはぼんやりとそう思うと、彼の忠告に従って長椅子に腰かけた。

義母は、彼があまりにもジェームズに似ていることに当惑と嫌悪感を示していたらしいのだが、それでも当主の血を引いた子供が無下に扱われることを良しとせず、それからも最低限の援助を引き続きしてくれることを約束し、その代わりにブラウン家の一大事には彼を差し出すようにと彼の母と約束を交わしたという。

「あの人のことは今でも好きではないが…彼女のお陰で餓死しないですんだから感謝はしている」
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