27 / 33
24.いざ夜会へ
しおりを挟む
ステインバーグ家での夜会までの日にちがほぼなくて、助かった。
ドレスを買おうにも時間がない、ということを理由にいわゆる貴族令嬢が着るような豪華なイブニングドレスを拒否出来たからだ。
そもそもアンジェリカは社交界で人気があるから、ステインバーグ家の夜会には多くの貴族が参加すると思われる。ということは、クラウディア=サットンの知人や友人、また数年前にサットン家が没落したことを知っている人に会う可能性は極めて高い。
そんな中、私がセルゲイの弟である、また氷の騎士として有名だったトラヴィスの同伴者として、貴族令嬢らしく着飾って人前に出ることはやはり避けたかった。
といっても、さすがにエヴァンス侯爵家――しかも伊達男で有名なセルゲイで既に有名な――の次男、かつて氷の騎士として名を馳せたトラヴィスが治療師として連れている女性としてあまりみすぼらしい格好は出来ないのも事実だった。
なので私はいわゆる上級使用人が着るようなイブニングドレスを手に入れた。これならば一目で私が使用人だということが分かるし、彼が連れていても恥ずかしくないだろう。また貴族たちは私が使用人の格好さえしていれば、万が一クラウディア=サットンだと気づいても、見て見ぬふりをするものだ。
「おい、なんでそんなドレスを選んだんだ」
シンプルなライトベージュのドレスを着た私が、トラヴィスの部屋に顔を出すと彼が眉間に深い深い皺を寄せて唸った。執事に手配してもらったそのドレスは今朝届いたばかりだが、手直しがなくても着れるようなゆったりしたデザインだった。
「今までのドレスに比べて、格段に上等ですよ。私にはこれで十分です。そもそも、ちゃんとしたイブニングドレスを手配する時間はなかったですし」
私がそう答えると、自分こそ普段着と変わらないトラヴィスが顔を顰めた。どうやらその可能性には思い至らなかったようだ。
「ちっ……仕方ない。だが装飾品は?」
「必要ないですよ」
私はぐるっと目を回してみせた。このドレスに、身の丈に合わないアクセサリーをしている方が逆に目立つ。どうやらトラヴィスもそう思ったのか、眉間に皺を寄せた。
「まぁいい、ちょっと待ってろ」
彼はそう言うと、ゆっくりと歩いて自分の寝室へと姿を消した。杖はなくても、屋敷内であればもう危なげなく歩くことが出来る。
すぐに戻ってきた彼の手には、ネックレスが握られていた。
「これをつけろ」
「……これはなんですか?」
「いいから、命令だ」
渡されたそれは、予想に反してあまり高価そうなものではなかった。少しくすんだ銀色の鎖に、やはり銀で作られた鍵のモチーフがついている。宝石といえば、白い小さな石――ダイアモンドとは到底思えない――が申し訳程度に鍵を彩っているくらいだ。ネックレスとしての値打ちはあまりないかもしれないが、デザインはアンティーク調で気に入ったし、私の手にしっくり馴染んだ。
「このネックレス、とても可愛いですね。何か思い出があるものでしょうか……?」
トラヴィスの眉間の皺が少しだけ薄くなった。
「いいからつけてこい」
こうなればトラヴィスは質問に答えないつもりに違いない。
「承知しました」
私は彼に断って洗面所に行くと鏡を見ながらそれをつけた。ネックレスをつければ、少しだけお洒落もしたくなるから不思議だ。アイヴィー・エンドに来た時は肩下ほどだった髪が、今はもう胸の辺りまで伸びている。それまでのポニーテールを止め、簡単にハーフアップのまとめ髪にすると、洗面所を出た。
クラウディアの顔はどちらかというとタレ目なので、こうすることで目がきりりと大きく見えて、似合うはずである。
トラヴィスはソファに座って、いつものように本を読んで待っていた。
「お待たせしました」
「ああ」
トラヴィスがちらりと私を見上げて、目を少し見開いた。
「なんだその髪型は」
「え? 似合わないですか? この方が貸していただいたネックレスがよりよく映えるかと思ったんですけど……元に戻しましょうか」
「いや、そのままでいい」
食い気味に言われて、私は瞬いた。
「その……悪くない……似合っている。だからそのままにしておいてくれ」
トラヴィスが小さく呟き、右手で自分の口元を押さえた。みるみる彼の耳が赤く染まっていくのが分かった。
(……褒めてくれた?)
トラヴィスにつられて顔が紅潮していくのが自分でも分かった。
自分が好意を寄せている男性が、褒めてくれることがこんなに嬉しいとは思わなかった。
(少しだけ、化粧もしたらよかったな)
トラヴィスが喜んでくれたかも、などと浮かれたことを一瞬考えた。だがすぐに、今からアンジェリカに会うのだ、と思い直し、心を落ち着かせた。アンジェリカは間違いなく着飾っているだろうし、彼女を囲む『あくでき』の登場人物たちは全員輝いているはずだ。
クラウディア=サットンもしくはユーリなど、見劣りするだけだ。
(うん、私は『あくでき』の登場人物たちに今からお会いすることが出来るんだわ――そうよ、すごいことなのよ。だからファンとして楽しまなきゃ)
ともすれば沈みがちになる心を、そう思うことで励ました。――以前はセルゲイ一人に会えるだけでもあんなにはしゃいでいたのに、今日はどうしてかそこまで楽しく感じられなかったけれど。
☆
夜会はとてつもなく綺羅びやかだった。
ステインバーグ家は、この国の貴族では珍しくない副業の、海運業が非常に順調だと物語で描かれていた。だからこそ、アンジェリカが和風の食材をたしなむ、という表記も納得がいくのだ。とにかく豪華絢爛な屋敷には圧倒された。
アイヴィー・エンドはアイヴィー・エンドでとてもセンスが良いが、落ち着いた内装だ。それに対してステインバーグ家はとにかくどこもかしこも高級そうな装飾や家具が集められていた。かといってけばけばしさは一切ない。
大広間の広さや豪華さも桁違いだった。
「おい、どうした?」
大広間の大きな扉の少し手前で私が思わず足を留めてしまったので、訝しげにトラヴィスが尋ねてきた。私達の周囲をひっきりなしに貴族たちが歩いている。私が壁際に移動すると、トラヴィスもついてきた。ここならば通行の邪魔にならないだろう。それから彼に小声で謝罪した。
「ごめんなさい、あまりにも素敵なお屋敷で驚いてしまいました」
「そういうことか」
さすがにトラヴィスは慣れているようだったが、彼は杖をついていない左腕を私に差し出した。
「ここから人が多い。俺を支えてくれ」
私は逡巡した。
今日は使用人としてやってきたのに、これではトラヴィスにエスコートされているように他人からは見えてしまうからだ。
「私がなんのために夜会に来たのかは理解していますが、これでは、あまりにも――」
ためらう私への彼の返答はあっさりしていた。
「気にするな。俺の足が悪いことはみんな知っているから、支えてくれていると思うだろうよ」
そう言われてようやく心を決めた。
彼の左腕につかまると、大広間へと入っていった。
それからトラヴィスは一気に注目の的だった。
たくさんの貴族や、子息たち、ご令嬢たちが話しかけてきたが、彼は慇懃無礼に対応した。彼らと話す間中、トラヴィスの表情は相変わらず“無”であった。それでも体調を心配する声にも丁寧に答え、必要があれば私のことを治療師だと紹介した。
そして幸いにもクラウディア=サットンの知り合いには今の所一人も会っていないから、誰も彼の説明を疑うことなく受け入れていた。
トラヴィスには心配していたような“奇妙”な言動はまったく見られず、顔色をみている限りでは、無理をしすぎているような感じもしなかった。時々、身体が小さく震えるのが気になったが、それでもなんとか衝動を抑えているようだった。どうしようもなくなったら、彼が私に言ってくれるはずだから、そのときは廊下に連れ出したら良いだろう。
ほとんどの令嬢たちが、トラヴィスにダンスの相手をねだった。
だが彼は、この足ですからね、と杖を指し示し、肩をすくめることでその全ての誘いをやり過ごしていた。
「またそう言って。以前からどれだけ誘っても踊ってくださらなかったじゃないの」
一人の貴族令嬢が頬をふくらませると、隣にいた令嬢が仕方ないとばかりに苦笑した。
「氷の騎士様ですものね、トラヴィス様は。マスクされている姿が本当にいつだって素敵で」
(え、マスクは怪我をしたからつけているのではなくて、以前から……?)
令嬢の言葉でそう気づいて、私は驚いた。
「ほんと、トレードマークっていえばこのマスク姿ですわよね。ああ、トラヴィス様がどなたと最初にダンスされるのかだけでも見たいものですわ――願わくば、私だといいのだけれど」
ぱちぱち、とつけまつげがたくさんついた目を瞬いて、しなを作っているがトラヴィスには通用しなかった。
「また御冗談を」
彼の返事はそれだけだった。
トラヴィスが無表情のままそれきり口をつぐむと、その令嬢たちはすごすごと去っていった。
塩対応どころの話ではなかった。
しかもこの会話から察するに、トラヴィスは足を怪我する以前から誰ともワルツひとつも踊らなかったらしい。
(うん、これは『氷の騎士』って名前になるの当然かもしれない)
以前からこのような対応だったとしたら、その二つ名には説得力があった。
やがて大広間にセルゲイが、またしばらくしてアンジェリカが登場すると人々の視線は一斉にそちらに向かった。ちらりと視線を送ればアンジェリカの隣には、黒髪の野性的な見目麗しい若い男性がいた――スタングリードに違いない。
(やっぱり私おかしいな、全然わくわくしないや)
「トラヴィス! こちらに来い」
と人に囲まれたセルゲイが大広間の真ん中から声をかけてきたので、トラヴィスは舌打ちした。
「めんどくさい」
「トラヴィス!」
「……でもめちゃくちゃ呼ばれてますよ?」
トラヴィスは小さくため息をついた。
「仕方ない、今行かなかったら兄上はずっと呼び続けるだろうな。お前はここで待ってろ。俺が戻ってきたらそのまま帰宅するつもりだからそのつもりでいろ」
「お一人で大丈夫ですか?」
「ああ、瞬殺してくる」
「しゅ……、承知しました」
さすがに大広間の中央に、この服装のまま行くことは出来ない。トラヴィスが杖をつきながらゆっくりセルゲイの元へ向かうのを見送ってから、私は壁際へと下がった。セルゲイはトラヴィスの事情を知っているそぶりだったから、彼がいれば問題ないだろう。
(ああ、疲れた……)
以前クラウディア=サットンのときはこういう夜会も当たり前のように参加していた。
(平民で本当に気が楽だ。やっぱり私は将来、リハビリ施設を開いて……そうやって生きていきたい)
綺麗に着飾り、ワイングラスを片手に歓談している貴族たちを眺めながらぼんやりそんなことを思った。セルゲイの元へ向かったトラヴィスからは意識的に視線を逸らしてしまった。だってそこにはアンジェリカがいるのだから。楽しげに会話する彼らを見守る強さはどうやら今日の私にはないようだ。
「ディア?」
突然声をかけられてそちらに視線を送り、私は驚いた。
「リヒャルト……様?」
そこにはクーパー家子息、クラウディア=サットンのかつての婚約者が立っていたのだった。
ドレスを買おうにも時間がない、ということを理由にいわゆる貴族令嬢が着るような豪華なイブニングドレスを拒否出来たからだ。
そもそもアンジェリカは社交界で人気があるから、ステインバーグ家の夜会には多くの貴族が参加すると思われる。ということは、クラウディア=サットンの知人や友人、また数年前にサットン家が没落したことを知っている人に会う可能性は極めて高い。
そんな中、私がセルゲイの弟である、また氷の騎士として有名だったトラヴィスの同伴者として、貴族令嬢らしく着飾って人前に出ることはやはり避けたかった。
といっても、さすがにエヴァンス侯爵家――しかも伊達男で有名なセルゲイで既に有名な――の次男、かつて氷の騎士として名を馳せたトラヴィスが治療師として連れている女性としてあまりみすぼらしい格好は出来ないのも事実だった。
なので私はいわゆる上級使用人が着るようなイブニングドレスを手に入れた。これならば一目で私が使用人だということが分かるし、彼が連れていても恥ずかしくないだろう。また貴族たちは私が使用人の格好さえしていれば、万が一クラウディア=サットンだと気づいても、見て見ぬふりをするものだ。
「おい、なんでそんなドレスを選んだんだ」
シンプルなライトベージュのドレスを着た私が、トラヴィスの部屋に顔を出すと彼が眉間に深い深い皺を寄せて唸った。執事に手配してもらったそのドレスは今朝届いたばかりだが、手直しがなくても着れるようなゆったりしたデザインだった。
「今までのドレスに比べて、格段に上等ですよ。私にはこれで十分です。そもそも、ちゃんとしたイブニングドレスを手配する時間はなかったですし」
私がそう答えると、自分こそ普段着と変わらないトラヴィスが顔を顰めた。どうやらその可能性には思い至らなかったようだ。
「ちっ……仕方ない。だが装飾品は?」
「必要ないですよ」
私はぐるっと目を回してみせた。このドレスに、身の丈に合わないアクセサリーをしている方が逆に目立つ。どうやらトラヴィスもそう思ったのか、眉間に皺を寄せた。
「まぁいい、ちょっと待ってろ」
彼はそう言うと、ゆっくりと歩いて自分の寝室へと姿を消した。杖はなくても、屋敷内であればもう危なげなく歩くことが出来る。
すぐに戻ってきた彼の手には、ネックレスが握られていた。
「これをつけろ」
「……これはなんですか?」
「いいから、命令だ」
渡されたそれは、予想に反してあまり高価そうなものではなかった。少しくすんだ銀色の鎖に、やはり銀で作られた鍵のモチーフがついている。宝石といえば、白い小さな石――ダイアモンドとは到底思えない――が申し訳程度に鍵を彩っているくらいだ。ネックレスとしての値打ちはあまりないかもしれないが、デザインはアンティーク調で気に入ったし、私の手にしっくり馴染んだ。
「このネックレス、とても可愛いですね。何か思い出があるものでしょうか……?」
トラヴィスの眉間の皺が少しだけ薄くなった。
「いいからつけてこい」
こうなればトラヴィスは質問に答えないつもりに違いない。
「承知しました」
私は彼に断って洗面所に行くと鏡を見ながらそれをつけた。ネックレスをつければ、少しだけお洒落もしたくなるから不思議だ。アイヴィー・エンドに来た時は肩下ほどだった髪が、今はもう胸の辺りまで伸びている。それまでのポニーテールを止め、簡単にハーフアップのまとめ髪にすると、洗面所を出た。
クラウディアの顔はどちらかというとタレ目なので、こうすることで目がきりりと大きく見えて、似合うはずである。
トラヴィスはソファに座って、いつものように本を読んで待っていた。
「お待たせしました」
「ああ」
トラヴィスがちらりと私を見上げて、目を少し見開いた。
「なんだその髪型は」
「え? 似合わないですか? この方が貸していただいたネックレスがよりよく映えるかと思ったんですけど……元に戻しましょうか」
「いや、そのままでいい」
食い気味に言われて、私は瞬いた。
「その……悪くない……似合っている。だからそのままにしておいてくれ」
トラヴィスが小さく呟き、右手で自分の口元を押さえた。みるみる彼の耳が赤く染まっていくのが分かった。
(……褒めてくれた?)
トラヴィスにつられて顔が紅潮していくのが自分でも分かった。
自分が好意を寄せている男性が、褒めてくれることがこんなに嬉しいとは思わなかった。
(少しだけ、化粧もしたらよかったな)
トラヴィスが喜んでくれたかも、などと浮かれたことを一瞬考えた。だがすぐに、今からアンジェリカに会うのだ、と思い直し、心を落ち着かせた。アンジェリカは間違いなく着飾っているだろうし、彼女を囲む『あくでき』の登場人物たちは全員輝いているはずだ。
クラウディア=サットンもしくはユーリなど、見劣りするだけだ。
(うん、私は『あくでき』の登場人物たちに今からお会いすることが出来るんだわ――そうよ、すごいことなのよ。だからファンとして楽しまなきゃ)
ともすれば沈みがちになる心を、そう思うことで励ました。――以前はセルゲイ一人に会えるだけでもあんなにはしゃいでいたのに、今日はどうしてかそこまで楽しく感じられなかったけれど。
☆
夜会はとてつもなく綺羅びやかだった。
ステインバーグ家は、この国の貴族では珍しくない副業の、海運業が非常に順調だと物語で描かれていた。だからこそ、アンジェリカが和風の食材をたしなむ、という表記も納得がいくのだ。とにかく豪華絢爛な屋敷には圧倒された。
アイヴィー・エンドはアイヴィー・エンドでとてもセンスが良いが、落ち着いた内装だ。それに対してステインバーグ家はとにかくどこもかしこも高級そうな装飾や家具が集められていた。かといってけばけばしさは一切ない。
大広間の広さや豪華さも桁違いだった。
「おい、どうした?」
大広間の大きな扉の少し手前で私が思わず足を留めてしまったので、訝しげにトラヴィスが尋ねてきた。私達の周囲をひっきりなしに貴族たちが歩いている。私が壁際に移動すると、トラヴィスもついてきた。ここならば通行の邪魔にならないだろう。それから彼に小声で謝罪した。
「ごめんなさい、あまりにも素敵なお屋敷で驚いてしまいました」
「そういうことか」
さすがにトラヴィスは慣れているようだったが、彼は杖をついていない左腕を私に差し出した。
「ここから人が多い。俺を支えてくれ」
私は逡巡した。
今日は使用人としてやってきたのに、これではトラヴィスにエスコートされているように他人からは見えてしまうからだ。
「私がなんのために夜会に来たのかは理解していますが、これでは、あまりにも――」
ためらう私への彼の返答はあっさりしていた。
「気にするな。俺の足が悪いことはみんな知っているから、支えてくれていると思うだろうよ」
そう言われてようやく心を決めた。
彼の左腕につかまると、大広間へと入っていった。
それからトラヴィスは一気に注目の的だった。
たくさんの貴族や、子息たち、ご令嬢たちが話しかけてきたが、彼は慇懃無礼に対応した。彼らと話す間中、トラヴィスの表情は相変わらず“無”であった。それでも体調を心配する声にも丁寧に答え、必要があれば私のことを治療師だと紹介した。
そして幸いにもクラウディア=サットンの知り合いには今の所一人も会っていないから、誰も彼の説明を疑うことなく受け入れていた。
トラヴィスには心配していたような“奇妙”な言動はまったく見られず、顔色をみている限りでは、無理をしすぎているような感じもしなかった。時々、身体が小さく震えるのが気になったが、それでもなんとか衝動を抑えているようだった。どうしようもなくなったら、彼が私に言ってくれるはずだから、そのときは廊下に連れ出したら良いだろう。
ほとんどの令嬢たちが、トラヴィスにダンスの相手をねだった。
だが彼は、この足ですからね、と杖を指し示し、肩をすくめることでその全ての誘いをやり過ごしていた。
「またそう言って。以前からどれだけ誘っても踊ってくださらなかったじゃないの」
一人の貴族令嬢が頬をふくらませると、隣にいた令嬢が仕方ないとばかりに苦笑した。
「氷の騎士様ですものね、トラヴィス様は。マスクされている姿が本当にいつだって素敵で」
(え、マスクは怪我をしたからつけているのではなくて、以前から……?)
令嬢の言葉でそう気づいて、私は驚いた。
「ほんと、トレードマークっていえばこのマスク姿ですわよね。ああ、トラヴィス様がどなたと最初にダンスされるのかだけでも見たいものですわ――願わくば、私だといいのだけれど」
ぱちぱち、とつけまつげがたくさんついた目を瞬いて、しなを作っているがトラヴィスには通用しなかった。
「また御冗談を」
彼の返事はそれだけだった。
トラヴィスが無表情のままそれきり口をつぐむと、その令嬢たちはすごすごと去っていった。
塩対応どころの話ではなかった。
しかもこの会話から察するに、トラヴィスは足を怪我する以前から誰ともワルツひとつも踊らなかったらしい。
(うん、これは『氷の騎士』って名前になるの当然かもしれない)
以前からこのような対応だったとしたら、その二つ名には説得力があった。
やがて大広間にセルゲイが、またしばらくしてアンジェリカが登場すると人々の視線は一斉にそちらに向かった。ちらりと視線を送ればアンジェリカの隣には、黒髪の野性的な見目麗しい若い男性がいた――スタングリードに違いない。
(やっぱり私おかしいな、全然わくわくしないや)
「トラヴィス! こちらに来い」
と人に囲まれたセルゲイが大広間の真ん中から声をかけてきたので、トラヴィスは舌打ちした。
「めんどくさい」
「トラヴィス!」
「……でもめちゃくちゃ呼ばれてますよ?」
トラヴィスは小さくため息をついた。
「仕方ない、今行かなかったら兄上はずっと呼び続けるだろうな。お前はここで待ってろ。俺が戻ってきたらそのまま帰宅するつもりだからそのつもりでいろ」
「お一人で大丈夫ですか?」
「ああ、瞬殺してくる」
「しゅ……、承知しました」
さすがに大広間の中央に、この服装のまま行くことは出来ない。トラヴィスが杖をつきながらゆっくりセルゲイの元へ向かうのを見送ってから、私は壁際へと下がった。セルゲイはトラヴィスの事情を知っているそぶりだったから、彼がいれば問題ないだろう。
(ああ、疲れた……)
以前クラウディア=サットンのときはこういう夜会も当たり前のように参加していた。
(平民で本当に気が楽だ。やっぱり私は将来、リハビリ施設を開いて……そうやって生きていきたい)
綺麗に着飾り、ワイングラスを片手に歓談している貴族たちを眺めながらぼんやりそんなことを思った。セルゲイの元へ向かったトラヴィスからは意識的に視線を逸らしてしまった。だってそこにはアンジェリカがいるのだから。楽しげに会話する彼らを見守る強さはどうやら今日の私にはないようだ。
「ディア?」
突然声をかけられてそちらに視線を送り、私は驚いた。
「リヒャルト……様?」
そこにはクーパー家子息、クラウディア=サットンのかつての婚約者が立っていたのだった。
24
お気に入りに追加
728
あなたにおすすめの小説

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?
おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました!
皆様ありがとうございます。
「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」
眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。
「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」
ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。
ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視
上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

恋人が聖女のものになりました
キムラましゅろう
恋愛
「どうして?あんなにお願いしたのに……」
聖騎士の叙任式で聖女の前に跪く恋人ライルの姿に愕然とする主人公ユラル。
それは彼が『聖女の騎士(もの)』になったという証でもあった。
聖女が持つその神聖力によって、徐々に聖女の虜となってゆくように定められた聖騎士たち。
多くの聖騎士達の妻が、恋人が、婚約者が自分を省みなくなった相手を想い、ハンカチを涙で濡らしてきたのだ。
ライルが聖女の騎士になってしまった以上、ユラルもその女性たちの仲間入りをする事となってしまうのか……?
慢性誤字脱字病患者が執筆するお話です。
従って誤字脱字が多く見られ、ご自身で脳内変換して頂く必要がございます。予めご了承下さいませ。
完全ご都合主義、ノーリアリティ、ノークオリティのお話となります。
菩薩の如き広いお心でお読みくださいませ。
小説家になろうさんでも投稿します。

職業『お飾りの妻』は自由に過ごしたい
LinK.
恋愛
勝手に決められた婚約者との初めての顔合わせ。
相手に契約だと言われ、もう後がないサマンサは愛のない形だけの契約結婚に同意した。
何事にも従順に従って生きてきたサマンサ。
相手の求める通りに動く彼女は、都合のいいお飾りの妻だった。
契約中は立派な妻を演じましょう。必要ない時は自由に過ごしても良いですよね?
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。
皇帝の番~2度目の人生謳歌します!~
saku
恋愛
竜人族が治める国で、生まれたルミエールは前世の記憶を持っていた。
前世では、一国の姫として生まれた。両親に愛されずに育った。
国が戦で負けた後、敵だった竜人に自分の番だと言われ。遠く離れたこの国へと連れてこられ、婚約したのだ……。
自分に優しく接してくれる婚約者を、直ぐに大好きになった。その婚約者は、竜人族が治めている帝国の皇帝だった。
幸せな日々が続くと思っていたある日、婚約者である皇帝と一人の令嬢との密会を噂で知ってしまい、裏切られた悲しさでどんどんと痩せ細り死んでしまった……。
自分が死んでしまった後、婚約者である皇帝は何十年もの間深い眠りについていると知った。
前世の記憶を持っているルミエールが、皇帝が眠っている王都に足を踏み入れた時、止まっていた歯車が動き出す……。
※小説家になろう様でも公開しています

《完結》愛する人と結婚するだけが愛じゃない
ぜらいす黒糖
恋愛
オリビアはジェームズとこのまま結婚するだろうと思っていた。
ある日、可愛がっていた後輩のマリアから「先輩と別れて下さい」とオリビアは言われた。
ジェームズに確かめようと部屋に行くと、そこにはジェームズとマリアがベッドで抱き合っていた。
ショックのあまり部屋を飛び出したオリビアだったが、気がつくと走る馬車の前を歩いていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる