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あの信号が青になったら

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 十二月の日暮れは早い。
 帰りの会ホームルームが終わってすぐに校舎から飛び出したときはまだ昼間の太陽だった。
 なのに、帰り道の途中で忘れ物に気がついて、学校に取りに戻ってきた頃には、西の空が夕焼けが染まりつつあったんだ。

「あっ」

 五年生の児童玄関で、おれが上履きからランニングシューズに履き替えていると、短い驚きの声が聞こえた。
 見れば、来栖芽衣子くるす めいこが気まずそうな顔で立っていた。

「帰ったんじゃなかったの?」
「プリント忘れたんだよ」

 おれは上履きを下駄箱に突っ込みながら、ぶっきらぼうに答えた。
 慌てて帰ったから、机の中に宿題に出た算数のプリントを忘れてしまったんだ。
 あんなことがあったから、芽衣子の顔を見たくなくて早めに学校を出たのに。
 気まずいのはこっちの方だ。
 おれは内心で動揺しまくっていたけど、それを芽衣子に気づかれたくなくて、平静をよそおって聞き返した。

「お前こそ、こんな時間まで何してたんだよ」
「図書室」

 芽衣子の答えは短い。
 機嫌、悪いのか?
 そう思い、横目で様子を窺ってみたけど、芽衣子はちょうど靴を履き替えているところで、横顔に垂れた髪が表情を隠してしまっていて。
 おれは、芽衣子がどんな顔をしているのか、わからなかった。

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 芽衣子は、基本的には明るい奴だ。
 よく笑うし、声はでかいし、給食のプリンが余れば必ず争奪戦に加わってくるし。
 頭はあんまり良くないみたいだけど、体育は得意で、この前のドッヂボールじゃ女子で唯一最後までコートに立っていた。
 開始早々におれを外野送りにした恨みは忘れていないからな、くそ。
 そんな男勝りの芽衣子だから、男子からは基本的にネタとしてゴリラ扱いされている。
 当の本人は「可愛くない」だの「男女」だのとからかわれても気にした様子もなく、イジってきた男子をふざけて殴ってケラケラ笑ってて。
 おれも他の奴らとおんなじ感じで、芽衣子に絡んで、殴られて、その掛け合いを楽しんでいるうちの一人だった。
 それが、ある日、ちょっとだけ変わった。

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 いつかの昼休み、廊下の端の方に変わった取り合わせがいるのを見つけたんだ。
 芽衣子と、隣のクラスの小山内菜々美おさない ななみ
 男顔負けの体力馬鹿との誉も高い芽衣子と対照的に、菜々美は小さくて細くて大人しくて、女の子って感じの女子だったから、意外に思えて。
 おれは興味を惹かれて、話しかけてみたんだ。

「何やってんだ?」
「わひゃ!?」

 へんな悲鳴をあげた芽衣子。
 菜々美と二人で覗き込んでいたノートを、パッと後ろ手に隠した。

「なによ!? いきなり、ビックリするじゃない!」

 顔を真っ赤にして怒る芽衣子も珍しい。

「菜々美と芽衣子って、仲いいんだな。タイプが全然違うけど」

 菜々美がはにかむ。

「私とメイちゃん、夢が同じなの」
「ナナミ! ちょっと!」

 芽衣子が慌てて止めたけど、おれはそれだけでわかってしまった。

「絵本書いてんのか」
「え?」

 ポカンとなる芽衣子に、菜々美が言う。

「家が近所で、幼馴染? なの、私たち。だから、私が絵本作家になりたいの知ってるの」
「お前、昔からずっと言ってるもんな」

 菜々美は幼稚園の頃から絵を描くのが好きで、将来は絵本作家になりたいと言い続けて早十年、まったくブレてない。
 見た目も中身も子犬のような奴だけど、へんに頑固なところがある。
 その菜々美と夢が同じと言うことは、

「芽衣子も絵本、書いてんのか?」

 おれが尋ねると、芽衣子は言い逃れできないと思ったのか、不承不承で頷いた。

「あたしは童話。絵じゃなくて、文章だけ」
「このノートはね、合作なの。メイちゃんが話を考えてくれて、私が挿絵描いたの」

 おれにノートを見せようとする菜々美を、芽衣子が全力で止める。

「ナナミ! やっ、やめて! 恥ずいから!」
「なんだ? エロいの書いてるのか?」
「違わい! その、ナナミ以外に見せたことないし、全然ヘタで、わ、笑われたくないし」
「大丈夫、大丈夫」
「ナナミ!」

 絶望に呻く芽衣子を尻目に、菜々美がニコニコ顔でおれにノートを手渡した。
 表紙をめくると、一ページ目に描かれた、蔦を這わせたゴシック体のタイトルが目に飛び込んできた。
 題名タイトルは、「ゴンドラドラゴン~ドーラとゴーンのゴンドラ屋さん~」。
 見開きで、ノートの左の頁に文章が書かれていて、右の頁にそのシーンの笑顔描かれていた。
 おれは悶絶する芽衣子を無視して頁をめくり、五分かからずに読み終えた。

「面白いんじゃね?」
「ホント!? わ、笑わないの?」
「笑うって? ギャグシーンはなかったよな?」
「じゃなくて! その、ドラゴンとか、魔法とか……。子供みたいって、思わなかった?」
「それを言ったら、世の中の漫画のほとんどが馬鹿にされちゃうだろ。おれからしたら、これだけ字を書こうって思える奴は凄すぎて、言葉にならねえよ」

 おれなんか、夏休みの読書感想文、原稿用紙三枚埋めるだけで四苦八苦してるのに。
 まあ、笑ったりしないのは、前科があるからで。
 一昨年、菜々美に自作の絵本を読ませられ、「妖精とかいるわけねーし」とか「恋の魔法のおまじないって、ガキくさっ」とか言って爆笑したことがある。
 そのとき、菜々美は大泣きし、おれは母さんに鉄拳制裁と「人の夢を笑うようなクズにはなるな」との有難い教えをうけたのは記憶に新しい。
 おれはただ、教訓をいかし、思ったことを正直に口にしだけだった。
 そしたら、芽衣子はなにがそんなに嬉しかったのか、今まで見せたことのない笑顔で言ったんだ。

「ありがとう。嬉しい」

 どきりとした。
 今まで、一瞬前までは忘れていたことを思い出した。
 明るくて、元気で、誰とでも仲良くなって、よく笑う
 芽衣子。
 実は、すごく可愛い女の子だったって、気付いちゃったんだ。

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 一度意識してしまうと、自分ではどうにもならなかった。
 何をしてても無意識に芽衣子の姿を探してしまうし、家に帰ってもふとした瞬間に芽衣子の顔が浮かんで頭から離れなくなる。
 芽衣子が他の男子と話していればなんかイライラするし、芽衣子がおれに絡んできたら嬉しくてにやけてしまう。
 ああ、これは、あれだな。
 好きになっちゃったって奴だな。
 気持ちを自覚しても、おれはどうしたらいいかわからなかった。
 告白するなんて考えもしなかった。
 そんなことしなくても、芽衣子とは楽しく話せているし、なにより芽衣子の童話を読ませてもらえる男子はおれだけだって言う優越感があったから。
 今の関係を壊すのが怖かったのもある。
 そうだよ。
 おれは、このぬるま湯にずっと浸っていればよかったんだ。
 でも、おれは欲張っちゃって。
 芽衣子の特別になりたくて。
 今日、おれは調子に乗りすぎたんだ。

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 今日の昼休み。
 芽衣子と菜々美は、いつものように廊下の端でノートを覗き込んでいた。
 近寄ってきたおれに気づくと、菜々美が手を振った。

「メイちゃんの新作だよ。とっても面白かったから、読んであげてよ」

 おれが芽衣子の童話を読むのは、これで四回目。
 芽衣子も作品を読まれるのに慣れてきたみたいで、恥ずかしがりながらも菜々美を止めることはしなかった。
 題名タイトルは「銀の月」。
 森に住む小さな魔女が、幼馴染の頼みをきいて、惚れ薬を作るという内容だった。
 思い違いと行き違いで、魔女と幼馴染は互いに誤解してしまうけど、最終的には両想いになる恋愛もの。
 正直、漫画だってバトルものかスポーツものしか読まないので、恋愛ものの感想を求められても困ってしまう。
 おれはいつも通り「面白かったと思う」とありきたりな感想を述べた。
 普段ならこれで解散となるんだけど、菜々美が変なことを言い出した。

「メイちゃんさあ、恋の話を書いたってことは、好きな人でもできたの?」
「ち、違うから! 単に思いついたから書いてみただけだから!」

 全力否定の芽衣子。
 ちょっとホッとしながらどこかでガッカリしてるおれがいた。
 菜々美はつまらなさそうに唇を尖らせていたけれど、今度はおれに話を振ってきた。

「好きな人、いる?」

 おれは、反射的に答えてしまった。

「いるよ」
「え?」
「ホント!?」

 目の色を変えて食いついてきた二人。
 なんで女子ってのは、こう恋愛話が好きなんだ?
 芽衣子が興味津津で聞いてくる。

「誰? 誰なの? 教えてよ!」
「お前らに教えたら言いふらすだろ。とくに菜々美は黙っていられなさそう。問い詰められたらすぐゲロる気がする」
「言わない。神に誓って口にしないから。ね? メイちゃん?」
「モチよ。あたしたちは貝よ。ホタテ貝くらい口が固いいんだから」
「火にかけられたらぱっくり口開いてバター焼にされる奴じゃねえか」
「サユリちゃん? エリコちゃん? それとも、千春ちゃん? 雄二くん?」
「下の名前で言われてもわかんねえよ。男子がひとりはいってるじゃねえか!」

 菜々美は数打ちゃ当たる方式を採用したようで、学年の女子の名前を片っ端からあげ始めたら。
 おれが当たるはずないと高をくくってニヤニヤしていると、芽衣子が悪戯っぽく言ったんだ。
 自分を指差しながら。

「もしかして、あたしだったりしてー」

 きっと、空気が変わったんだと思う。
 ペラペラ喋っていた菜々美が黙り込んで。
 おれの顔は引きつって。
 芽衣子も、「しまったやらかした」って顔をした。
 笑い飛ばせばよかったんだ、おれは。
 でも、良いきっかけなのかもしれないと思って。
 頷いたんだ。
 口に出しては、一言。

「そうだよ」

 言葉にした瞬間から、ドキドキしていて。
 期待と不安の割合は、七対三。
 これまでの関係と、芽衣子の書いた恋の話が、おれを楽観的な頭にしていたんだ。
 だけど、芽衣子は顔を歪ませた。

「冗談でも、そんなこと言わない方がいいよ」

 そう言い残して、菜々美を連れてどこかに行ってしまった。
 おれが告白して、十秒もたたないうちに、終わった。
 終わってしまった、たぶん、おれの初恋。
 なにもしなければ、芽衣子のちょっとした特別でいられたのに。
 全部、ぶっ壊れた気がする。
 午後の授業は頭に入らなかった。

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 そんなわけで、芽衣子と顔を合わせるのは気まずい。
 なのに、玄関で鉢合わせてしまった。
 帰り道は途中まで同じ方向。
 わざわざ別の道から帰るのも不自然だし、走って帰るのも逃げるみたいでカッコ悪い。
 下校時刻をだいぶん過ぎてから校舎を出たので、ほかの奴らの姿もなく、おれと芽衣子、二人っきりの帰り道。
 これが午前中までの関係だったら楽しく馬鹿話でもしながら帰られたんだろうけど、告白して振られたその後だから、何を話していいかわからない。
 芽衣子も同じみたいで、ちらりと隣を見れば、俯き加減で歩いている。
 沈黙に耐えきれなかったのは、おれだった。

「菜々美は?」
「塾」
「芽衣子は、塾、行ってないのか?」
「うん」
「そうか」

 会話が続かない。
 余計に気まずくなった。
 ネタもなくなって、また無言で歩いていると、

「ごめんね」

 芽衣子が、ポツリと言った。
 おれの心臓が跳ね上がった。
 声も上ずってしまう。

「な、なにが?」
「その、昼休みの」

 芽衣子は視線を地面に落としたまま。

「いきなりだったから、びっくりして。あたしが悪ノリして、あんたはそれに乗っかっただけなのにさ。逃げるみたいになっちゃって、ごめん」
「ああ。悪ノリね」

 これは、九死に一生を得たってやつじゃなかろうか。
 悪ノリだったことにしておけば、笑い話で済ませられる。
 あの告白は、無かったことにしておける。
 おれはホッと胸をなでおろし、芽衣子の話に乗っかった。

「おれも悪かったよ。ああ言うのはよくないよな。ごめん」

 これで、おれと芽衣子の関係は元に戻った。
 二人で馬鹿な話をしながら、静かな帰り道を並んで歩く。
 小学校の近くは家がたくさん建っているけど、五分も歩けば道の左右は田んぼになる。
 遮るものがなにもないので、冷たい風が吹き付けてきた。
 芽衣子が肩をすくめて、コートの前襟をギュッと掴んだ。

さむっ! もう本当の冬になっちゃったね」
「十二月からだっけ。先週から雪が降ってるから、今更だけどな」

 北陸に冬が訪れるのは早い。
 例年、立山の初冠雪は十一月の上旬だし、下旬には平野部にも初雪が降ってくる。
 まだ積もってはないけれど、もうすぐスノーブーツじゃないと外が歩けなくなるだろう。
 学校を出て一つ目の交差点で、赤信号につかまった。
 立ち止まった芽衣子が、空を見上げながら言う。

「国語の授業で、先生が『秋の日は釣瓶つるべ落とし』って言ってたけど、冬はもっとはやいよね。夕暮れが駆け足で帰ってくみたい」
「帰ってく?」
「そうでしょ。あたしたちとおんなじでさ。地球の裏側にお日様の家があるの。朝になると世界を照らすお仕事があるから家を出て、一日一生懸命働いて、仕事が終わったから家に帰っていくの。家には、お日様のお嫁さんと子供がいて、パパの帰りを待ってる。だから、お日様は急いで帰るのよ、きっと」

 嬉しそうに微笑んで夕焼けの空を眺める芽衣子。
 彼女の顔は、沈んでいく夕日に照らされて、茜色に染まっていた。
 たぶん学校じゃ絶対に見れない芽衣子の微笑みは、おれの心を落ち着かなくさせた。
 おい、やめろ。
 反則だろ、その顔。
 そんなの見せられたら、また調子に乗っちゃうじゃないか。
 おれと芽衣子の距離は、二十センチほど。
 近くて遠い、そんな距離。
 芽衣子、お前は知らないかもしれないけど、おれはこの距離がもどかしい。
 もっと近くに行きたくて。
 お前の特別になりたくて。
 一度は終わったと思った友達関係に、せっかく戻れたっていうのに。
 気持ちが、抑えられなくなる。
 このままがいい。
 このままの、ちょっとした特別でいいんだ。
 そしたら、ずっと芽衣子と一緒に居られるから。
 そう思って、はたと気付く。
 いつまで?
 女子に興味がなかったおれが好きになっちゃったんだ。
 他の男子も、芽衣子が可愛いって気付くかもしれない。
 そいつが、もし芽衣子に告白して、芽衣子もそいつを好きになったら、おれは?
 考えただけで気分が悪くなるし、胸が痛くなる。
 嫌だ。
 芽衣子の特別には、おれがなりたい。
 誰にも譲りたくない。
 芽衣子は踵でリズムを取りながら、信号が青になるのを待っている。
 彼女の身体が上下するたびに、赤いランドセルからぶら下がった音符のチャームが跳ねている。
 何気ない仕草が可愛くて。
 おれは、やっぱり芽衣子が好きだ。
 はっきりと、自覚した。
 決めた。
 その場の流れだったとは言え、一度した告白をなかったことにするなんて、男らしくないし、カッコ悪い。
 もう一回、ちゃんと伝えよう。
 始まりの合図は、そう、あの信号。
 あの信号が青になったら、手を繋ごう。
 今度は逃げられないように、ぎゅっと。

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 信号が青に変わった。
 おれは、歩き出すのとおんなじに、芽衣子の右手を握った。
 一瞬、ビクッと驚いたのが伝わってきた。
 隣を見ると、芽衣子が目を大きく見開いて、おれを見てた。
 でも、何も言わなかった。
 繋いだ手を振りほどいたり、嫌がるような素振りも、なかった。
 逃げずにいてくれた。
 おれには、それがただ嬉しかった。
 気持ちを伝えようと、口を開く。
 だけど、声が出ない。
 緊張しすぎて、何を言ったらいいかわからない。
 むしろ、今更だけど、おれが逃げたくなってきた。
 この期に及んでビビるなんて、マジでカッコ悪い、おれ。
 結局、何も言えずに帰り道を並んで歩く。
 芽衣子と手を繋いで歩いていく。
 田舎でよかった。
 この時間でよかった。
 手を繋いでるとこ、誰にも見られなくていいから。
 芽衣子の手は冷たくて。
 だけどおれはどんどん熱くなってきて。

 黙ったまま歩き続けて、二つ目の交差点に差し掛かった。
 信号は、赤。
 芽衣子は、どんな顔してるんだろう。
 気になって、ちらりと見る。
 俯き加減の芽衣子。

 夕日はもうすっかり沈んでしまい、彼女の横顔を照らすのは、角のコンビニの白っぽい蛍光灯。
 なのに、芽衣子の顔はまだ茜色に染まっていて。
 おれの胸の高鳴りは、もう止まらなくなっていた。
 芽衣子。
 調子に乗ってもいいか?
 お前のその顔、期待しちゃうぞ。

 あの信号が青になったら。
 好きだと伝えよう。
 きっと好きだと伝えよう。
 あの信号が青になったら。
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