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しおりを挟む店内は冷房でキンキンに効いていた。
汗が蒸発して体が冷えてきた私は店員さんを呼んでホットを注文した。前にもいた若い女の子。大学生かな。だとすれば私より三・四歳年下なのか。若い。(いいなー)と思う。そのころの私は〈デート商法の彼〉に引っかかっていた。だからあの頃に戻りたいとか、そういうんじゃない。
厨房へ入って行く彼女の丸いお尻を頬杖ついて見ながら(ただ目に入っただけ!)大きなため息をついていると、
「あぁ、あなたは北条工業の」
と声がした。視線を動かした私も「あっ」と小さく声をあげていた。
「えっと、煤影サンですよね?」
煤影サンの目の動きが止まった。見つめられる。(あれ? 違ったかな。違う人じゃないよね。煤影サンだもん)と、心の中でオロオロし始めたとき、
「なぜ私の名前を知っているのですか」
と彼が聞いてきた。
「あ。私、伊豆川っていいます。えっと、納涼祭の時にウチの社長と話しているのを……私、近くにいて。その時お名前を聞いたから。あの時は、本当にお世話になりました」
私みたいな下っ端にお礼を言われて、煤影さんが嬉しいかどうかわからない。でも、この人がウチの会社に忍び込もうとした産業スパイ(マジか!)を捕まえてくれたんだもん。やっぱお礼言っとかなきゃ、って思ったんだ。
「いえ、あれはたまたまです」
「そんな。謙遜ですよね? すごく強いんだなって、私、感心しちゃった」
と私が勢いこんでいうと、はにかんだ煤影さんの口元からちらっと八重歯がのぞいた。歳上の男の人を前にしてなんだけど(うわ、八重歯可愛い……)って思った。この時の私の頭からは、初めて煤影氏を見た時の警戒心はすっかり消え去り、好感しかない。
「ところで、ため息をついていたようですが、何か悩み事でも?」
と聞かれて、我にかえった。私、煤影サンを立たせたままだ。お礼言うとか話すとか、その前に座ってもらわなきゃいけなかったんだ、って。
「座って! ここ、座ってください」
慌てて腰を浮かせて私は窓際に移動し、空いたソファの座面をパンパン叩いた。煤影さんがクスクスしながら私の隣に腰を下ろす。
隣同士で座って、一旦気持ちが落ち着いてから。
「あ。対面のソファが空いてるのに。私ったらつい勢いで」
と、恥ずかしさで頬が焼けるのを感じ、私は俯きながらちらっと煤影サンの表情をうかがった。
(隣に座らせておいて、やっぱりあっちに移動してください、なんて……言えないよ~)
「ハハ。良いですよ。隣り合わせで座るというのは新鮮ですね。貴女は面白い人だ」
と、煤影サンは気を悪くしたふうもなく片手をあげて店員さんを呼んだ。私の中で彼に対する好感度がまた上がってしまう。
アイスコーヒーを注文している煤影さんを見ながら、
(面白いって言われたの、二度目……前に私にそう言ったのは……)千賀氏の顔が頭に浮かんだ。席は違うけど、この喫茶店で。そしたらまた大きなため息が出てしまった。テーブルに肘をつきため息の余韻を堪えていると、「どうしましたか?」と、煤影サンが気遣わしげに私を見た。
「仕事で失敗しちゃって」
「失敗を引きずり過ぎるのはよろしくないです」
煤影サンが私の背中にそっと手を置いた。それだけで私、目の奥がじんと熱くなって。
「私、ほんっと、ダメなんです。役に立ててなくて」
仕事の話なんてするつもりなかったのに。うっかり弱音を吐いたせいか、私の心の中、堰き止めていたものが、うわって溢れかけていた。
「伊豆川さん、まだまだ若いのですから。失敗でめげている場合ではありませんよ」
「ある案件のリーダーを初めて任されたんです、私」
「わっ、スゴイじゃないですか」
「すごくないです。全っ然ダメダメで」
煤影サンの手のひらがあやすように私の背中をポンポンしてきて(優し……っ)そう思ったら私、もうだめだった。
「……会社の、超・優秀な人材が転職しないように引き止めるはずだったのに。けど、あっさり辞められちゃって」
「超がつくほど優秀な人材ですか」
「そうです。超がついちゃうんです。なんたってスタンフォード出てるんだもん。千賀さんって人なんですけど」
そしたら、私の背中を優しくさすっていた彼の手が止まった。私がぼんやり彼を見ると、
「あぁ、申し訳ありません。それは私のせいですね」
と、何故か頭を下げてきた。
「え?」
「実は私、ヘッドハンターをしていまして」
咄嗟に理解できなかった私が目をぱちぱちさせていると、
「千賀直氏をお誘いしたのは、私です」
と煤影サンが言った。
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