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社長っ、婚姻届を返してくださいっ!

だから、妻じゃないですっ

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「……駄目な性格だな」
と夕暮れの役所前で、こちらを見下ろし、貴弘が言った。

 ほんとですよ……とのどかがガックリうなだれたとき、
「おい、ぐへへへの大家さんが来たぞ」
と貴弘が言った。

「いや、ぐへへへは私ですよ」
と言いながら、前の通りを見ると、コンビニのビニール袋を手に大家さんが役所の門の前を通りかかるところだった。

「おや、今日も二人でお散歩ですか?
 いやあ、あのあと、すぐに次の入居者が決まりましてね。

 できれば来週までに入られたいみたいなんですけど。
 大丈夫ですか?」
と訊かれ、

「はい」
と勝手に貴弘が答える。

「ところで、ご主人、かなり鍛えてらっしゃるようですね」
とスーツの上からでもわかる貴弘の締まった身体を見て、大家のおじさんが笑う。

「私も毎週ジムに通ってるんですけどね」
と何故か、筋肉トークが始まった。

 ……そうだったのですか、大家さん。

 去る間際になって、初めて知りましたよ。

 ナスときゅうりを作るのが上手くて、大量に余らせては、店子に配って回るのは知っていたのですが。

 そして、大家さんと従兄のお嫁さんのおじさんが同じ高校の同級生だという、今更知ったところで、どうなるものでもないことも知ったところで、大家さんとは別れた。

 ……この人と並んでにこやかに手を振ったりなどしたら、本当に夫婦みたいなんだが、と思いながらも、大家さんに罪はないので、笑顔は崩さなかった。

 ちょうど信号は赤。

 渡れない大家さんがいつまでも視界に入っているので、笑った顔のまま、のどかは言った。

「やばいです。
 大家さんの中では、我々はもう完全に夫婦になってますよ」

「……世界中、何処でも、もう夫婦だろ」
と言いながら貴弘は夕陽を背にした区役所を振り返り、

「そういえば、お前、もう処理が済んだのかどうかすら確認しなかったな。
 お前は仕事のできない人か」
とクビになった身にトドメを刺してくる。

 いや、別に仕事にミスがあって、クビになったわけではないのだが……。

「貴方こそ、なにも言わなかったじゃないですか」
と大家さんの姿が消えたので、遠慮なく睨んで言うと、

「いや、俺はこの結婚を反故にするつもりはないからだ」
と貴弘は言う。

「俺はこのままお前と結婚していたい――」

 夕暮れの光に斜め後ろから照らし出された貴弘の顔は、彫りの深さが際立ち、整った顔が更に整って見えた。

 そんな貴弘にまっすぐ見つめられ、不覚にも、どきりとしてしまったが、貴弘の言葉は更に続いた。

「独身だと、いろいろ周りがうるさくてめんどくさいから、とりあえず、誰かと結婚しときたいんだ。

 その点、お前なら、居ても害はなさそうだし。

 見た目もそう悪くないから、妻です、と紹介するのにも悪くない。

 だから、このまま結婚しておいてくれるとありがたいんだが」

「あのー。
 そこで、はあ、そうですか、と頷く女が居たら、見てみたいんですが……」
と言ってはみたのだが、貴弘は、

「腹が減ったな。
 弁当ばかりだったし。

 何処か食べに行くか」
とマイペースに言ってくる。

 そして、
「あのっ」
と頑張って反論しようとしたのどかの言葉にかぶせるように貴弘が言う。

「仕事が完成した祝いにおごってやる。
 いや……、おごってやるはおかしいな、自分の妻なのに」

「だから、妻じゃな――」
と言いかけたのどかの前で、さっき大家さんが消えた向かいの通りを貴弘は見た。

「近くに歩いていける美味い焼き鳥の店があるんだが」

「……お金は払います」

 ついて行くと言ったも同然だが。
 この二、三日まともなものを食べていないうえに、焼き鳥は大好きだ。

 よく冷えた日本酒がよく冷えた小洒落たグラスで出てきたりししたら、もうなにも言うことはない。

 令和のパネルを手にうっかり微笑んでしまったときと同じに、のどかは焼き鳥屋に向かい、流されていった。





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