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社長っ、婚姻届を返してくださいっ!
何処なんですか、此処は……
しおりを挟む見知らぬ会社のロビーで、胡桃沢のどかは目を覚ました。
夜もとっぷりと更けているらしく、外の明かりしかない薄暗いロビーで、のどかは、ぼんやりとしていた。
此処は何処?
私は誰?
というのが記憶喪失の定番だが。
残念ながら記憶はある。
いや、何故、此処に居るのかだけはわからないのだが、
と思いながら、のどかが起き上がり、広いロビーを見回したとき、緑の非常灯がある隅の方から急いで警備員が駆けてきた。
太った人の良さそうな警備員だったが、すごい勢いでやってきたので、思わず、捕まるっ! と思ってしまい、逃げ出しそうになった。
だが、のどかが立ち上がるより先に警備員が、
「お目覚めですか?」
と微笑んで言ってきたので、なんとか踏みとどまる。
不法侵入で警察に突き出されることはなさそうだと思ったからだ。
……よくは思い出せないが、此処に来る直前まで呑んでいた気がする。
やけに喉が乾くこの感じから言って、間違いないだろう。
なんだか頭もぼんやりしているし、と思いながら、のどかは警備員の顔を見、ガラスの向こうを見た。
何処かで見たような夜の街が広がっている。
うちの会社が見える。
此処、もしかして道向かいのビルか? と思いながら、のどかは警備員に訊いた。
「あの、此処は何処ですか?」
「TATHUMI第三ビルです」
やはりそうか。
今まで、ビルの中に入ったことがなかったから、わからなかったのだ。
それにしても、何故、会社の向かいのビルの中で寝てるんだ……、
と思ったとき、気がついた。
自分の肩に見たこともない背広がかかっていることに。
誰のだろう、と思いながら、肩から外してみたとき、ふわりと嗅いだことのないいい、香りがした。
「お目覚めになられたのなら、最上階のオフィスに行かれてください。
ご主人がお待ちですよ」
そう警備員が言ってきた。
「は? ご主人?」
とのどかは訊き返す。
「これをお預かりしております」
と園田というその警備員は名刺を渡してきた。
「お目覚めになられたら、お渡しするようにと、成瀬社長が」
……成瀬社長、とのどかは名刺を見ながら、口の中でその名を繰り返す。
あ~、ナルセってそういえば、向かいのビルに入ってたっけ。
あそこの社長、格好いいけど、目つきが鋭くて苦手なんだよな~、冷たそうで、
と何度か見たことのなる成瀬貴弘の顔を思い出しながら、のどかは思う。
確か、どっかのお坊ちゃんが一族から離反して、新しい会社作ったとかいう……、
と誰かがしていた噂話を思い出したとき、園田が言った。
「先程、成瀬様が警備員室にいらっしゃいまして。
奥様が此処で倒れられて、もう動きたくないとおっしゃているとかで。
暖房を少し強くしてやってくれとおっしゃって、上がっていかれたんですよ」
四月とはいえ、夜はまだまだ冷えますもんね、と笑う園田の顔を見ながら、のどかは思っていた。
奥様……。
って、誰だ?
その話の流れだと、私がその奥様な気がするのだが、気のせいだろうか。
もう一度、自分の手にある名刺を見ながら、のどかは訊いた。
「自分の奥さんに名刺を渡すのって、おかしくないですかね……?」
「……おかしいですね」
とそこは園田も素直に認める。
「と申しますか。
わたくし、成瀬様は独身だと思っておりました」
はい、私もそう聞いておりました。
ましてや、成瀬様の奥様が私だとは私も存じませんで、と酔った頭でぼんやり考えたあと、また、ガラスの向こうを見る。
ところどころ灯りがついている向かいのビルが見えた。
自分が働いているビルだ。
園田を見上げ、のどかは訊いた。
「夢なんですかね? これ」
「さ、さあ。少なくとも私は起きてますけど」
と阿呆なやりとりに園田を突き合わせてしまう。
「とりあえず、成瀬社長のところに行ってみられてはどうですか?」
と言われ、なんだかわからないが、とりあえず、
「ありがとうございます」
と深々と頭を下げ、のどかは歩き出した。
夢か現実かわからない、と思っているせいか、足許がふわふわする。
いや、単にまだ酔っているせいなのかもしれないが――。
のどかはエレベーターに乗り、名刺に書いてある階のボタンを押してみた。
夜遅いからか、誰も乗ってこないまま、その階に着く。
白い壁にナルセの社名が刻まれている。
その前に受付があったが、誰も居ない。
不用心だな、と思いながら、のどかは会社の入り口らしいガラス扉を押し開けた。
「頼もう」
いや、頼もうはなかったかもしれないが。
夢と現実の境が曖昧なうえに、身構えていたせいだろう、きっと。
すると、
「なにが頼もうだ。目が覚めたのか、のどか」
と成瀬貴弘が言った。
……あの成瀬社長が、のどかとか言っている、
とドアの木製のノブをつかんだまま、のどかは固まっていた。
「いいから、入れ」
と言いながら、貴弘は煙草に火をつける。
映画かなにかかと思った。
僧帽筋が発達しすぎない程度に体格のいい、スーツのよく似合う男が煙草を吸ってニヒルに笑う。
今どき見ない光景だと思ってしまったのは、その煙草のせいだろう。
「社内禁煙じゃないんですか?」
電子煙草以外の煙草を吸っている若い人を久しぶりに見た、と思いながらのどかは訊いた。
「社内禁煙だ。喫煙室以外は」
と小さく区切られたガラス張りの場所を指して貴弘は言う。
その狭いガラス張りの場所には応接セットやパソコンやデスクがぎゅうぎゅうに押し込まれている。
「まさか……」
「そう、あそこが通常の仕事スペース。
あとは全部、喫煙室だ」
逆ですよね、と思うのどかに、
「うちの社員はみなヘビースモーカーなんだ」
と言ったあとで、貴弘は煙草をもみ消し、
「だが、お前が煙草が苦手なら消そう」
と言う。
「はあ、苦手ですが、大丈夫です。
もう帰りますので。
ありがとうございました、これ」
とのどかは上着を渡し、帰ろうととした。
「帰るって何処に帰るんだ?」
と訊かれる。
「え、家に」
「……お前、途中で大家さんに出会って、やっぱり、アパート更新しません。
うへへへへって言ってたぞ」
と貴弘は言う。
「うへへへへってなんですか」
「お前の笑い方をリアルに再現してみた。
そりゃあ、なかなか嫁のもらい手がないはずだな」
と貴弘は言い捨てる。
「別に花婿募集してませんし。
誰ももらってくださらなくて結構ですが。
……って、なんの途中ですか?」
と嫌な予感がしながら、のどかは訊いた。
「婚姻届を出しに役所に行く途中に決まってるだろうが」
「誰の?」
「お前の」
もう一本、煙草に火をつけかけて、顔をしかめ、貴弘はそれをしまう。
「なあ、家の外でなら吸ってもいいか?」
「いや、どうでもいいですよ、貴方が吸おうと吸うまいと。
っていうか、私が婚姻届って……」
「覚えてないのか。
さっき出しに行ったろう。
正確には二十一時三十五分十七秒だが」
と腕時計を見て貴弘が言った。
まだ事態について行けてないのどかに、貴弘が細かく説明してくれる。
「地下のバーから歩いて役所まで出しに行ったんだ。
途中でお前のアパートの前を通ったとき、たまたま大家さんと出会って。
光るタスキをかけて、犬の散歩中の大家のおじさんにお前は、契約更新しません、うへへへへって言ったんだ。
いや……」
と真剣な顔で考えたあとで、貴弘は言う。
「ぐへへへへ、だったかな?」
「そっ、そこはリアルに思い出してくださらなくて結構ですっ。
って、ほんとに出しに行ったんですかっ?」
と言ったが、行った、と貴弘は頷く。
「そうだっ。
今日は確か、同期会で――っ」
と蘇りつつある記憶を元に反論を試みたが。
「そう。
お前は、最初、友だちと来てたんだ、バーに。
で、その友だちが次々、彼氏から電話かかってきて、消えていってお前だけが残されてた」
なんという悲しい話を……。
「それでなんとなく俺と話し出して、なんとなく結婚する話になって、なんとなく婚姻届を」
待て待て待て、と思う。
「何故、なんとなく結婚することにっ」
「そこのところは俺もよく思い出せないんだが」
貴方も酔っていたのですが。
まあ、バーだからなと思う。
「お前は程よく、必要書類や印鑑を持っていた。
転職したり、アパートを代わったりするつもりのようだった。
俺もたまたま会社の関係で必要書類と印鑑を持っていて――」
「――持っていてっ?」
とのどかは拳を作り、身を乗り出す。
「そのまま二人で役所に行って、婚姻届を出した」
「タクシーッ!
タクシーを呼んでくださいっ!」
と思わず叫ぶと、貴弘は内線電話をかけ、
「すみませんが、タクシーを一台、玄関前に。
ええ、区役所まで」
と言ってくれた。
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