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さようなら、旦那様
谷中の夕暮れ
しおりを挟むドバイと違い、冷たい風の吹く日本の夕暮れ。
真珠が縁側に出ると、まだ咲いているあの朝顔が出迎えてくれる。
はかなさより、しぶとさを感じるこの朝顔が真珠はなんだか好きだった。
古い木塀の向こう、女子高生たちが楽しげに通り過ぎていく。
谷中に帰ってきたんだな、と真珠は、しみじみと思った。
七輪出して、サンマでも焼くかな、と思いながら中に入る。
暗く狭い廊下の天井から吊り下げたモザイクガラスのライトが目に入る。
日が暮れてきたので、パチリとつけてみた。
カラフルなガラスが暖色系の灯りに輝き、廊下を照らし出す。
ここに三つつけたいんだけどな、本当は……と思いながら、そのブルー系のモザイクガラスを眺めていた。
近いうちに、佳苗さんたちに連絡とってお土産持っていこう。
そんなことを考えながら、七輪の前に米をとごうと真珠は台所に向かった。
流し台に置かれたままのお好みソースが目に入る。
昼、お好み焼きにしたので、買ってきたのだ。
原材料の中のデーツの文字を見ながら、真珠は、
こうしていると、なにもかも夢だったような気がしてくるな、と思っていた。
霧の中に突き立つ超高層ビルの群れとドバイフレーム。
作りかけの人工島にある海中ベッド。
ラクダが横切る砂漠の夕暮れ。
街中で吹き上がるドバイ・ファウンテン。
……あ~、どの思い出にも、困ったことに有坂さんがいる。
真珠は冷たい水で米をといだあと、縁側の見える居間に戻り、茶香炉で乳香を焚いてみた。
乳香は、じわじわと下からの熱で溶け出し、甘い香りが部屋に静かに広がっていった。
ドバイのあちこちで嗅いだ香りだ。
あのホテルでも微かに香ってたな……とつい、桔平のことを思い出してしまう。
なにかが少し違う気がするのは、ここに桔平の香りが混ざっていないからだろうか、と思ったとき、玄関の引き戸が開く音がした。
「誰だ、鍵かけてない物騒な奴はっ」
桔平の声だった。
ええっ? と真珠は振り返る。
有坂さん、何故、ここにっ!?
仕事があるから、すぐには追って来られないと思ってたのにっ、と惑う真珠の許に、
「勝手なことしやがってっ。
なにかあったらどうするつもりだっ」
と言いながら桔平は勝手にドカドカ上がってくる。
襖を引き開け、桔平は叫んだ。
「お前の身体はもうお前ひとりのものじゃないんだぞっ」
「……誰のものなんですか」
まごうことなき桔平の姿を見て、呆然としながら、真珠は訊き返す。
妊娠してるとかない気がしますが、と思う真珠に桔平は、
「俺のものに決まってるだろうが、莫迦め!」
と言い放った。
桔平は真珠を抱き締め、
「長かかったぞ、十一時間っ。
人生で一番長いフライトだったっ」
と訴えてくる。
「俺も完全個室のファーストクラスで来たぞっ。
お前に逃げられ、ひとり泣き濡れるためだっ」
とても泣き濡れていたとは思えない押しの強さで桔平は、まくし立ててくる。
「いろいろ考えたんだ。
逃げたということは、俺のことが嫌いなのだろうか。
いやいや、そんなはずはない」
なんですか、その自信、と思ったが……。
「身持ちの固いお前が身体を許したんだ。
お前は俺のことを好きなはずだ。
ちょっと混乱して逃げ出しただけだと自分に言い聞かせてきた。
それにしても、好きなのに逃げ出すとか。
ああ、こんなめんどくさい奴、もし、商売相手なら、どんな好条件だろうが、俺は切るっ!
とも思ったけどなっ」
そんな文句を言いながらも、桔平は、まだ真珠を抱いている。
間近に真珠を見つめ、
「キスしてもいいか」
と訊いてきた。
だが、返事を待たずに、すぐに、
「いや、やっぱり、お前が『キスしてください、桔平さん』と言え。
それが、俺の心を傷つけたお前への罰だ」
と言ってくる。
「そうですか。
では、覚悟が決まったら言います」
と真珠が言うと、
「そうか。
言えたら、キスしてやろう」
と言いながら、桔平は真珠の顎を手でつかみ、逃げられないようにして口づけてきた。
……いっ、言ってることと、やってることが違うんですけどーっ!?
そう真珠は逃げかかったが、桔平は平然と言ってくる。
「今のは俺がしたくしてしたキスだ。
お前がキスしてくださいと言ってするのは、このあと、いつか未来でするキスだ」
真珠がその言葉を口にする日は来ないか、来ても遥か先だと思っているようだった。
ほんとうに困った人だ……と思いながらも、真珠は桔平に抱き締められていた。
でも、これで完璧になったな、と真珠は思う。
有坂さんの香りが混ざって初めて、この乳香の香りは完成する気がする。
真珠は目を閉じ、その甘い香りを嗅いだ。
「……日本に戻ってから、お父さんに電話したんです」
桔平の腕の中で真珠はそう言った。
「なんだ。
俺にお前を売り飛ばしたことの文句を言いにか」
「いえ……。
自分でもなにを言いたかったのかよくわからないまま電話してしまったんですけど。
そしたら、お父さん、すべてを察したように言いました。
『幸せになれたろう。
僕の大切なお姫様』って」
「お父さんは、わかってらしたんだな。
俺こそがお前に最もふさわしい夫だと」
だからなんでそんなに自信過剰なんですか、と思ったが、桔平は言う。
「俺がお前に、こんな風にメロメロになって。
一生お前を大事にすると誓うって、最初からわかってたんだよ」
そう言いながら桔平は真珠のこめかみに口づけてきた。
そして、文句を言ってくる。
「でも、お前の方は妻としての自覚が足りないな」
「は?」
「俺への愛も足りない。
お前に逃げられたら、俺はズタボロになって、仕事どころじゃなくなるのに。
わかってて逃げ出すとか、愛も、俺に愛される覚悟も足りないぞ」
……いや、あなたのことだから、いい加減なことはしないはずなので。
たぶん十一時間のフライト、ずっと仕事しながら来てましたよね。
そう思いながらも、真珠は、そうですね、すみません、と謝った。
「私、あなたが追ってきてくれることを望んでいたのかもしれません。
最初、船で逃げようと思ってたんですよ。
そしたら航行中は追いかけて来れないかなって。
その間、物思いに耽れるって思ったのに。
飛行機にしてしまった時点で、私、あなたに追いかけて来て欲しかったのかもしれません」
だが、桔平は、
「いや、船だろうが、追うぞ、ヘリで」
と言う。
「ロープで降りてくるんですか?」
「……普通にヘリポートに降りるよ。
何者だ俺は」
眉をひそめる桔平の頭の中でも、真珠の妄想と同じように、桔平は怪盗のようにマントをひるがえして、ロープにつかまっているようだった。
笑ってしまう。
真珠は桔平の腕に抱かれたまま、庭を見た。
気づくと桔平も外を見ている。
「私たち、見てますね、谷中で朝顔」
真珠はドバイで桔平に言った。
あの谷中の、夕焼けどきにはちょっと切なくなるような風景の中。
縁側から庭先の朝顔を二人でそっと眺めて微笑むような。
そんな人生を送りたい、と。
それはキラキラした桔平の世界とは真逆の世界だろうと思って言ったのだが。
今、こうして、桔平に抱かれて、その朝顔を見つめてる――。
「ヘブンリーブルーだな」
「え?」
「このずっと咲いてる朝顔、ヘブンリーブルーだろ。
花言葉は『堅い約束』」
俺たちにピッタリだな、と桔平は言った。
「お前は約束通り、困っている俺を助けに駆けつけてきてくれた」
自分を見つめる桔平に赤くなりながらも真珠は言う。
「有坂さん、なにも困ってなかったじゃないですか」
「……困ってたよ、ずっと。
五年の間、お前に逢いたくて」
そう言いながら、桔平はそっと口づけてくる。
「そういえば、俺が砂漠の街にホテルを建てようと思ったのは、お前が言った言葉が頭にあったからかもしれないな」
「え?」
「言ったじゃないか」
『困ったことがあったら呼んでください。
いつでも何処でも、あなたが呼ぶのなら。
砂漠でも、宇宙でも。
きっと駆けつけるから――』
「じゃあ、次は宇宙だな、俺がホテル建てるの」
と桔平は笑ったあとで、真珠を見つめ、言ってきた。
「……まだ言いたくならないか?」
「え?」
「キスしてくださいって、言いたくならないか?」
いや、あなたさっきから、何度も勝手にしてますけど……と照れて俯く真珠に桔平は言った。
「そうだ。
あれでもいいぞ。
お前でもしゃべれるアラビア語があったじゃないか」
「……なんでしたっけね?」
桔平は真珠の額に自分の額をぶつけて微笑む。
「『今宵、お前に夜伽を命じよう』」
桔平はアラビアンナイトに出てくる王様のようにそう言うと、もう一度、唇を重ねてきた。
縁側の向こうでは、ドバイの空のような色のヘブンリーブルーが谷中の夕暮れの風にふわりふわりと揺れていた。
完
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推理物のお話も大好きですが、菱沼様のラブコメはもっと大好きです。
これからの展開に期待と楽しみしかありません!
johndoさん、
ありがとうございますっ(⌒▽⌒)
いや~、どのジャンルの話にしようかなと迷ったんですが。
久しぶりにラブコメにしてみました╰(*´︶`*)╯♡
ありがとうございますっ。
頑張りますね~っ(*^▽^*)