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第三章 のっぺらぼう
消えずの行灯
しおりを挟む小平は夜道を走って逃げていた。
ぽうっと川端の屋台の行灯に火が灯っているが、人気はない。
これが噂の本所の『消えずの行灯』かと思ったが、蕎麦屋の店主はしゃがんで、どんぶりを洗っていただけだった。
本所七不思議のひとつ、消えずの行灯。
誰もおらず、油も足さないのに、行灯の火が消えない蕎麦屋があって、そこを訪れると不幸になると言う。
これとは逆に、あかりなしそばという話もある。
行灯の火をつけてもつけても消えるというのだ。
これに遭遇しても、やはり不幸になると言う。
不幸ってなんの不幸だよ、と思いながらも、小平は店主の丸い背中にほっとしていた。
「へい、なんにしやしょう」
男はどんぶりを洗いながら訊いてくる。
「いや」
蕎麦を食ってる場合じゃないんだが、と思いながら、小平は振り返る。
暗い江戸の夜。
得体の知れないものが追ってきている気配があった。
自分の頭の中では、それは着物をはだけた女になっていた。
早く逃げた方がいいと思いながらも、明かりもない暗い道。
人気のある場所に居たいのも確かだった。
何も注文せず、何度も闇を振り返る自分に、店主が訊いた。
「旦那ぁ、もしかして、何かから逃げていらっしゃるんで?」
いや、と小平は繰り返す。
同心の自分が何かから逃げているなど言えるか。
そう思ったとき、男がどんぶりを手に振り返った。
「そりゃあ、もしかして――
こんな顔の奴からですかい?」
顔のない男を想像していた小平は悲鳴を上げた。
男には顔があった。
だが、輪郭は確かに男なのだが、その目鼻立ちは女のものだった。
何処かで見た、女の顔。
ひいっ、と叫び、小平は目を覚ました。
頭の上に誰かがしゃがんでいる気がして、寝たまま身構えたが、そこには誰も居なかった。
『仕方ない。
これを片付けてくれ』
まるで物のように運ばれていった女。
眩しい朝の光が障子越しに降り注いでいる。
ああ、最悪な夜明けだ。
なんでこんな夢を――。
いや、わかっている。
昨日、『あれ』を見たからだ。
「今日はまた一段と機嫌が悪いですねぃ」
屋台の寿司屋の前で、弥吉にそう言われ、うるせえや、とわめいたとき、
「小平」
と自分を呼ぶ声がした。
だから、偉そうなんだよ、てめえは、と思いながらも、小平は那津を振り返る。
「なんか用か」
「例の辻斬りのことだが」
「何も進展してねえよ」
と素っ気なく言って、機嫌が悪いなと弥吉に言われたのと、同じ事を言われる。
ほらね、と弥吉は笑っていた。
あの一件以来、弥吉はこのエセ坊主ならぬエセ侍に弥吉は心酔しているようだった。
いさささか大人げなかったか、と反省した小平は、ぼそりと言った。
「ちょっと夢見が悪かったのよ」
へえー、夢見がねえ、と笑った弥吉が言う。
「じゃあ、夢占いとかどうですかい?
悪いと思った夢が、意外といい夢だったりするそうですよ」
那津が、
「まあ、夢占いは吉と出ることの方が多いからな。
だが、こいつの運の悪さからいって、ロクでもない結果が出そうだが」
とこちらを見た。
江戸の夢占いは大抵、いい結果が出ることになっているのだ。
「夢占いなんぞで気が晴れるわけねえだろ」
そう文句を言いながらも、まだあの夢の内容が胸にわだかまっていたので、つい、那津たちにしゃべってしまった。
話してどうなるものでもないのだが……。
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