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第二章 覗き女
不忍の池
しおりを挟む「周五郎さん、お帰りだんすか?」
回転扉を閉めようとした咲夜の許に、桂が現れた。
着物に酒の匂いが染みついている。
今日も大変そうだな、と思いながら、
「ええ、そう。長太郎が送っていってくれたわ」
と言うと、桂は辺りを見回し、手招きをする。
呼ばれるまま、顔を近づけた。
「知ってただんすか?
長太郎さん、不忍の池の茶屋で女と会ってたって」
「不忍の池?」
と咲夜が訊き返すと、もうっ、と桂は咲夜の肩を叩く。
あやうく、階段から落ちそうになった。
見ていたらしい、左衛門が下で顔をしかめている。
危うく第二の明野になるところだった、と思いながら、今、凄い力で叩かれた肩を押さえ、
「そ、それが、なに?」
と咲夜は訊いた。
「もうっ。
咲夜さんは、そこらの町娘より箱入りだんすからねっ。
不忍の池と言えば、出合茶屋だんすよっ。
長太郎さん、町の女と密会してたんだんすっ」
「誰が見たの?」
貸本屋さんだんすっ、と抑えている声がどんどん大きくなってくる。
「素人の女だったみたいだって言ってただんすが。
後ろ姿で顔までは見えなかったって」
そのとき、下で話し声が聞こえ、左衛門が誰かに返事をしながら、手だけでこちらに合図した。
まずい。
長太郎の珍しい話に気を取られていた。
戻らなければっ。
咲夜が慌てて、扉の向こうに戻ろうとしたとき、二階の廊下からも客が現れた。
「あれ~、お客さんっ、お部屋はあっちだんすよっ」
と桂がそれを押し返そうとする。
咲夜は慌ててしゃがみ、足許の灯籠の火を吹き消した。
もともと暗い廊下が更に暗くなる。
下の明かりも一瞬消えた。
どうやら、左衛門の仕業のようだった。
暗がりで誰かが手を引き、見えないのに、からくり扉を開けてくれたようだった。
そのまま押し込まれる。
「今、此処に女が居なかったか?」
いきなり掻き消えた女に驚いた客が叫んでいる。
「私ならずっと居ましただんすけど?」
と桂がすっ惚けていた。
「あんたじゃないよ。
もっと驚くくらい奇麗な女だったよっ」
「お客さん~っ?」
と桂が睨み、い、いや、すまん、と客が謝っている。
桂は詫びにと、金の代わりの紙花をもらったようだった。
あとで、現金と替えられるのだ。
すっかり機嫌のよくなった桂は、
「いや、本当に誰も居なかっただんすよ」
と言ったあとで、
「ほら、此処ですから。
あれだすんよ」
と声をひそめて客に言う。
「きっと幽霊花魁だんすよ……」
お前かっ、広めてるのは~っ、と思ったが、まさか出て行くわけにもいかない。
咲夜は、そのまま暗がりでじっとしていた。
やがて、客も桂も居なくなる。
いつの間にか、からくり部屋の中の行灯の火が消えていたらしく、明かりもつけないまましゃがみ込んでいたのだが。
よく考えれば、この中に入ってしまえば、火をつけても別に問題はなかった。
外に光が洩れないようになっているからだ。
窓はまるでないかのように木が打ちつけられているので、今は本当に真っ暗だ。
種火も消えてしまっているらしい。
ふと気づけば、自分の側に誰か居る。
だが、霊ではないとわかった。
その姿が見えないからだ。
霊ならば、闇の中の方がよく見える。
「……長太郎?」
そう咲夜は呼びかけてみた。
人にはそれぞれ、独特の匂いがある。
それは、身につけているものの匂いなのかもしれないが。
それでなのか、気配でなのか。
誰が居るのか、親しい人間なら大体わかった。
長太郎はいつものように、さっと火をつけてくれることもなく、じっとしている。
今、桂に聞いた話が頭をよぎった。
『出合茶屋だんすよっ。
町の女と密会してたんだんすっ』
聞いてすぐに本人を目の前にすると、本当だったのか、と問うてみたくなる。
だが、見間違いならいいが、真実だった場合は、知らぬふりをしてあげるのが親切だろうな、と思い、黙った。
「……ねえ、長太郎。
明かりをつけてよ」
そう呼びかけてみるが、長太郎は動かない。
仕方ないなあ、と手探りで動こうとしたとき、やっと彼は立ち上がった。
暗闇だと言うのに、迷うことなく移動していく。
長太郎は火打石で起こした火を、びいどろの行灯に移した。
ぽうっと部屋に明かりが広がる。
長太郎の姿が見え、大きく揺らめく影が部屋の畳と襖に映し出された。
「今日は戻ってくるの、早かったわね」
そう言ってみたが、特に返事はなかった。
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