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偽装婚約者のキケンな企み
突然、社長に呼ばれました
しおりを挟む秋名つぐみは、婚約者、半田奏汰が入っている風呂場のガラス扉の前に、ひとり、しゃがんでいた。
すりガラスだし、曇っているので、向こうからこちらの動きは見えないはずだ。
つぐみは手にしていたワイングラスの中に、小瓶から茶色い液体を数滴垂らし入れた。
しめしめ。
これで奏汰さんは死――
と思ったとき、
「つぐみーっ」
という絶叫とともに、ガラス扉が跳ね開けられた。
ひゃーっ、と脳天から突き抜けるような悲鳴を上げたつぐみは、グラスを手にしたまま、飛んで逃げる。
事の起こりは一ヶ月前。
秋名つぐみは入社して半年のまだ全然使えない秘書だった。
先輩たちが忙しかったので、初めて社長に珈琲を持っていくことになり、緊張しつつも、社長室へと向かった。
「し、失礼します」
つぐみが珈琲を持ってきたのを見て、先輩秘書の西和田が、社長が居る奥の院のような部屋のドアをノックする。
「社長、珈琲お持ちしました」
西和田は一応、そう言ったが、珈琲は元々社長の注文だ。
特に返事を聞く必要もなかったらしく、西和田はすぐに扉を開けてくれた。
普通、こういうとき、男性秘書が扉を開けてくれるなんてことはないのだが、別に、つぐみをお姫様扱いしてくれているわけではない。
西和田の顔には、はっきりと、こいつ、なにか粗相をしないだろうか。いっそ、俺が持っていこうかな、と書かれていた。
大丈夫ですっ、頑張りますっ、とつぐみが目で訴えると、西和田は、より不安そうな顔をする。
頑張るな。
ただ、置いてくればいいから。
そう西和田の顔には書かれていた。
この間、わずか一秒足らず。
秘書はその場で口に出して言ってはまずいやり取りも多いので、アイコンタクトだけはこの半年で立派に使えるようになっていた。
粗相が多いので、みなに目で訴えられることが多いから――
というのも、その理由のひとつだが。
「失礼します」
と入ると、大きな窓を背に座る半田奏汰は、頬杖をつき、スマホを片手に目を閉じていた。
半田グループの会長の孫に当たる男で、まだ若く、古参の重役などからは、時折、小僧扱いされているが、なかなかの切れ者らしい。
……寝てらっしゃるのだろうかな。
それにしても綺麗な顔だ、とつい、つぐみはマジマジと眺めてしまった。
人の顔が整っているかどうかは、目を閉じているときにわかる気がする。
愛想の良さや目力で、それらしく誤摩化すことが出来ないからだ。
こういう場合、そうっと置いて帰ったんでいいんですか? 西和田さんっ。
それとも、冷めるから持って帰るべきなんですかっ? 西和田さんっ。
助けて、西和田さんっ、と振り返ってみたが、二枚の板チョコにも見える社長室の焦茶の扉は、ぴたりと閉ざされていた。
と、とりあえず、置いて帰ろう。
つぐみは、そっと珈琲を大きなデスクの端に置こうとしたが、カチャリと音を立ててしまい、ひっ、と息を呑む。
寝ている社長を起こしたら、成敗されるっ、と思ってしまったからだ。
だが、頬杖をついたまま、片目を開けた奏汰は、
「寝てない」
と短く言ってきた。
そして、つぐみを見、
「おい、秘書」
と呼んでくる。
いや、名前覚えてください、と思ったのだが、秘書室の数居る秘書の中でも、まだ配属も決まっていない自分のことなど覚えていなくて当然か、とも思っていた。
「秘書、ちょっと来い」
ちょいちょいっと奏汰に手招きされる。
な、なんだろう。
私、今の短時間になんのご無礼をしましたかねっ、と固まっていると、そんなつぐみにイラついたように奏汰は低い声で、
「……早く来い」
と言ってきた。
ひっ、と再び、つぐみは息を呑んだ。
殺されるっ、と思いながらも、
「は、はいっ」
と震える声で返事をし、奏汰の近くに行くと、いきなり、奏汰はつぐみの肩に手を回し、自分の方に抱き寄せた。
「笑え」
と命じられるが、なんのことだかわからない上に、さっき見た美しい奏汰の顔が真横にあるので、卒倒しそうになる。
奏汰の手はスマホを構えていた。
一枚撮られる。
「もっと楽しそうに笑え」
スマホの画面に映る顔を確認しながら、自分は笑いもせずに、奏汰は言ってくる。
「わ、笑ってます……」
そう訴えてみたのだが、顔が強張っている、と言われる。
じゃあ、この頬が触れそうな位置にある顔を退けるか。
肩に回った手を外してくださいっ、と思っていたのだが、それも言えないくらい緊張していた。
奏汰はこちらを振り向き、言ってくる。
「くすぐろうか。
それとも、キスでもしようか」
大真面目に言う奏汰に、なんでですかっ、と思っていると、
「とても打ち解けているように見えないからだ。
人はスキンシップがあると、距離が近くなると聞く。
だから、キスのひとつもしてみようかと言ったまでだ」
いやいやいや。
そんなことされたら、ますます顔面蒼白になってしまいますけどっ、と思っているつぐみの表情を見て、奏汰は、
「じゃ、俺にキスされたくなかったら、死ぬ気で笑え。
いや、笑う必要はない。
俺を愛し、信頼しているかのような表情で微笑め」
と無茶を言ってくる。
あのー、それは一体、どんな表情なのですか、と思ったが、奏汰自身もわかっているようにはなかった。
だが、幾らイケメン社長とはいえ、こんなことでファーストキスを奪われるのも嫌なので、なんとかそれらしい表情を作ってみた。
奏汰は何枚か撮った写真を確認したあと、
「まあ、これでいいか」
と呟き、手を離してくれた。
ほっとしていると、それを何処かへ送信している。
「あの、それ」
と言ったのだが、奏汰は、
「よし、行っていいぞ」
と既にこちらには興味を失ったように言って、スマホを置いた。
秘書としては、すぐに消えるべきだとわかっていたが、今の写真を何処に送ったのか気になって仕方がない。
訊いてはまずいのかな、と思いながらも、まだ奏汰の横に立ったまま、訊いてみた。
「あのー、社長。
今の写真は、どちらに送られたんですか?」
奏汰は仕事の手を止め、こちらを見て言う。
無断で写真を送った以上、教えてやらねばならないか、と思ったようだった。
「昔からお世話になっている白河さんという人だ」
白河さん……。
一度、社内で遠目に見たことがあるな、と思った。
確か、品のいい老夫婦だ。社長を訪ねてきたことがある。
社長が珍しく打ち解けて話していたから記憶にあったのだ。
「あの、それで、何故、私の写真を白河さんに」
「お前の写真じゃない。
俺の嫁の写真だ」
は?
「いや、なんでもいいんだ。
それらしい女なら」
と言いながら、奏汰は、メールを受信したらしいスマホを片手に取った。
パソコンの画面をスクロールさせてチェックしながら、小器用に片手でスマホを操作する。
「お前のことは、白河さんもまだご存知なかったからな」
なにやら秘密兵器のようですね、と思ったが、単に、粗相が多くて、お客様にお茶を持って出たりしないからなのたが。
「確かにお前は接客関係には、いまいち使えないが、その間抜けで動きが緩慢なところが、おっとりしたお嬢様に見えなくもない」
とあまりお褒めの言葉とも思えないことを言ったあとで、奏汰は、
「可愛らしいお嬢さんねって言われたぞ。
よくやったな」
とこちらを見て少し笑う。
初めて社長に褒められましたよ……。
でもまあ、よくやったな、と言われても、この外見に作ってくれたのは親なので、私の手柄ではないのですが、と思っていると、それが伝わったようで、奏汰は、こちらを見上げ、
「同じ容姿でも年配の人間に受けるかどうかは性格による。
表情に滲み出てくるものがあるからな」
と言ってくる。
「白河さんは今、体調が思わしくなくてな。
そう長くはないと言われている。
仲人をされるのが趣味で、次で百組だったのにと病室で言っておられるそうだ」
「次で百組ですか。
達成出来なかったら、今にも化けて出て来そうですね」
と思わず言ってしまい、おい……と言われた。
しかし、武蔵坊弁慶や深草少将ではないが、その手の目標を打ち立てると、ギリギリのところで達成できない、というイメージがあるのだが。
だが、これで白河さんに思い残すことがなくなると言うのなら、まあ、いいことしたかな、と遠目にしか見たことのない人の良さそうな老人の姿を思い浮かべ、思っていた。
一週間後、奏汰に白河藤次郎が奇跡的に持ち直したと聞くまでは――。
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