眠らせ森の恋

菱沼あゆ

文字の大きさ
上 下
1 / 58
偽装婚約者のキケンな企み

突然、社長に呼ばれました

しおりを挟む

 
 秋名あきなつぐみは、婚約者、半田奏汰はんだ かなたが入っている風呂場のガラス扉の前に、ひとり、しゃがんでいた。

 すりガラスだし、曇っているので、向こうからこちらの動きは見えないはずだ。

 つぐみは手にしていたワイングラスの中に、小瓶から茶色い液体を数滴垂らし入れた。

 しめしめ。
 これで奏汰さんは死―― 

 と思ったとき、

「つぐみーっ」
という絶叫とともに、ガラス扉が跳ね開けられた。

 ひゃーっ、と脳天から突き抜けるような悲鳴を上げたつぐみは、グラスを手にしたまま、飛んで逃げる。



 事の起こりは一ヶ月前。

 秋名あきなつぐみは入社して半年のまだ全然使えない秘書だった。

 先輩たちが忙しかったので、初めて社長に珈琲を持っていくことになり、緊張しつつも、社長室へと向かった。

「し、失礼します」

 つぐみが珈琲を持ってきたのを見て、先輩秘書の西和田にしわだが、社長が居る奥の院のような部屋のドアをノックする。

「社長、珈琲お持ちしました」

 西和田は一応、そう言ったが、珈琲は元々社長の注文だ。

 特に返事を聞く必要もなかったらしく、西和田はすぐに扉を開けてくれた。

 普通、こういうとき、男性秘書が扉を開けてくれるなんてことはないのだが、別に、つぐみをお姫様扱いしてくれているわけではない。

 西和田の顔には、はっきりと、こいつ、なにか粗相そそうをしないだろうか。いっそ、俺が持っていこうかな、と書かれていた。

 大丈夫ですっ、頑張りますっ、とつぐみが目で訴えると、西和田は、より不安そうな顔をする。

 頑張るな。
 ただ、置いてくればいいから。

 そう西和田の顔には書かれていた。

 この間、わずか一秒足らず。

 秘書はその場で口に出して言ってはまずいやり取りも多いので、アイコンタクトだけはこの半年で立派に使えるようになっていた。

 粗相が多いので、みなに目で訴えられることが多いから――

 というのも、その理由のひとつだが。

「失礼します」
と入ると、大きな窓を背に座る半田奏汰はんだ かなたは、頬杖をつき、スマホを片手に目を閉じていた。

 半田グループの会長の孫に当たる男で、まだ若く、古参の重役などからは、時折、小僧扱いされているが、なかなかの切れ者らしい。

 ……寝てらっしゃるのだろうかな。

 それにしても綺麗な顔だ、とつい、つぐみはマジマジと眺めてしまった。

 人の顔が整っているかどうかは、目を閉じているときにわかる気がする。

 愛想の良さや目力めぢからで、それらしく誤摩化すことが出来ないからだ。

 こういう場合、そうっと置いて帰ったんでいいんですか? 西和田さんっ。

 それとも、冷めるから持って帰るべきなんですかっ? 西和田さんっ。

 助けて、西和田さんっ、と振り返ってみたが、二枚の板チョコにも見える社長室の焦茶の扉は、ぴたりと閉ざされていた。

 と、とりあえず、置いて帰ろう。

 つぐみは、そっと珈琲を大きなデスクの端に置こうとしたが、カチャリと音を立ててしまい、ひっ、と息を呑む。

 寝ている社長を起こしたら、成敗されるっ、と思ってしまったからだ。

 だが、頬杖をついたまま、片目を開けた奏汰は、
「寝てない」
と短く言ってきた。

 そして、つぐみを見、
「おい、秘書」
と呼んでくる。

 いや、名前覚えてください、と思ったのだが、秘書室の数居る秘書の中でも、まだ配属も決まっていない自分のことなど覚えていなくて当然か、とも思っていた。

「秘書、ちょっと来い」

 ちょいちょいっと奏汰に手招きされる。

 な、なんだろう。

 私、今の短時間になんのご無礼をしましたかねっ、と固まっていると、そんなつぐみにイラついたように奏汰は低い声で、

「……早く来い」
と言ってきた。

 ひっ、と再び、つぐみは息を呑んだ。

 殺されるっ、と思いながらも、
「は、はいっ」
と震える声で返事をし、奏汰の近くに行くと、いきなり、奏汰はつぐみの肩に手を回し、自分の方に抱き寄せた。

「笑え」
と命じられるが、なんのことだかわからない上に、さっき見た美しい奏汰の顔が真横にあるので、卒倒しそうになる。

 奏汰の手はスマホを構えていた。

 一枚撮られる。

「もっと楽しそうに笑え」

 スマホの画面に映る顔を確認しながら、自分は笑いもせずに、奏汰は言ってくる。

「わ、笑ってます……」

 そう訴えてみたのだが、顔が強張っている、と言われる。

 じゃあ、この頬が触れそうな位置にある顔を退けるか。

 肩に回った手を外してくださいっ、と思っていたのだが、それも言えないくらい緊張していた。

 奏汰はこちらを振り向き、言ってくる。

「くすぐろうか。
 それとも、キスでもしようか」

 大真面目に言う奏汰に、なんでですかっ、と思っていると、

「とても打ち解けているように見えないからだ。

 人はスキンシップがあると、距離が近くなると聞く。

 だから、キスのひとつもしてみようかと言ったまでだ」

 いやいやいや。

 そんなことされたら、ますます顔面蒼白になってしまいますけどっ、と思っているつぐみの表情を見て、奏汰は、

「じゃ、俺にキスされたくなかったら、死ぬ気で笑え。

 いや、笑う必要はない。

 俺を愛し、信頼しているかのような表情で微笑め」
と無茶を言ってくる。

 あのー、それは一体、どんな表情なのですか、と思ったが、奏汰自身もわかっているようにはなかった。

 だが、幾らイケメン社長とはいえ、こんなことでファーストキスを奪われるのも嫌なので、なんとかそれらしい表情を作ってみた。

 奏汰は何枚か撮った写真を確認したあと、
「まあ、これでいいか」
と呟き、手を離してくれた。

 ほっとしていると、それを何処かへ送信している。

「あの、それ」
と言ったのだが、奏汰は、

「よし、行っていいぞ」
と既にこちらには興味を失ったように言って、スマホを置いた。

 秘書としては、すぐに消えるべきだとわかっていたが、今の写真を何処に送ったのか気になって仕方がない。

 訊いてはまずいのかな、と思いながらも、まだ奏汰の横に立ったまま、訊いてみた。

「あのー、社長。
 今の写真は、どちらに送られたんですか?」

 奏汰は仕事の手を止め、こちらを見て言う。

 無断で写真を送った以上、教えてやらねばならないか、と思ったようだった。

「昔からお世話になっている白河しらかわさんという人だ」

 白河さん……。

 一度、社内で遠目に見たことがあるな、と思った。

 確か、品のいい老夫婦だ。社長を訪ねてきたことがある。

 社長が珍しく打ち解けて話していたから記憶にあったのだ。

「あの、それで、何故、私の写真を白河さんに」

「お前の写真じゃない。
 俺の嫁の写真だ」

 は?

「いや、なんでもいいんだ。
 それらしい女なら」
と言いながら、奏汰は、メールを受信したらしいスマホを片手に取った。

 パソコンの画面をスクロールさせてチェックしながら、小器用に片手でスマホを操作する。

「お前のことは、白河さんもまだご存知なかったからな」

 なにやら秘密兵器のようですね、と思ったが、単に、粗相そそうが多くて、お客様にお茶を持って出たりしないからなのたが。

「確かにお前は接客関係には、いまいち使えないが、その間抜けで動きが緩慢かんまんなところが、おっとりしたお嬢様に見えなくもない」
とあまりお褒めの言葉とも思えないことを言ったあとで、奏汰は、

「可愛らしいお嬢さんねって言われたぞ。
 よくやったな」
とこちらを見て少し笑う。

 初めて社長に褒められましたよ……。

 でもまあ、よくやったな、と言われても、この外見に作ってくれたのは親なので、私の手柄ではないのですが、と思っていると、それが伝わったようで、奏汰は、こちらを見上げ、

「同じ容姿でも年配の人間に受けるかどうかは性格による。
 表情ににじみ出てくるものがあるからな」
と言ってくる。

「白河さんは今、体調が思わしくなくてな。
 そう長くはないと言われている。

 仲人をされるのが趣味で、次で百組だったのにと病室で言っておられるそうだ」

「次で百組ですか。
 達成出来なかったら、今にも化けて出て来そうですね」
と思わず言ってしまい、おい……と言われた。

 しかし、武蔵坊弁慶や深草少将ではないが、その手の目標を打ち立てると、ギリギリのところで達成できない、というイメージがあるのだが。

 だが、これで白河さんに思い残すことがなくなると言うのなら、まあ、いいことしたかな、と遠目にしか見たことのない人の良さそうな老人の姿を思い浮かべ、思っていた。


 一週間後、奏汰に白河藤次郎しらかわ とうじろうが奇跡的に持ち直したと聞くまでは――。


しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜

春日あざみ
キャラ文芸
<第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました!> 宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。 しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——? 「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!

リトライさせていただきます!〜死に戻り令嬢はイケメン神様とタッグを組んで人生をやり直す事にした。今度こそ幸せになります!!〜

ゆずき
恋愛
公爵家の御令嬢クレハは、18歳の誕生日に何者かに殺害されてしまう。そんなクレハを救ったのは、神を自称する青年(長身イケメン)だった。 イケメン神様の力で10年前の世界に戻されてしまったクレハ。そこから運命の軌道修正を図る。犯人を返り討ちにできるくらい、強くなればいいじゃないか!! そう思ったクレハは、神様からは魔法を、クレハに一目惚れした王太子からは武術の手ほどきを受ける。クレハの強化トレーニングが始まった。 8歳の子供の姿に戻ってしまった少女と、お人好しな神様。そんな2人が主人公の異世界恋愛ファンタジー小説です。 ※メインではありませんが、ストーリーにBL的要素が含まれます。少しでもそのような描写が苦手な方はご注意下さい。

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない

椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ 初夜、夫は愛人の家へと行った。 戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。 「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」 と言い置いて。 やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に 彼女は強い違和感を感じる。 夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り 突然彼女を溺愛し始めたからだ ______________________ ✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定) ✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです ✴︎なろうさんにも投稿しています 私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ

あまりさんののっぴきならない事情

菱沼あゆ
キャラ文芸
 強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。  充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。 「何故、こんなところに居る? 南条あまり」 「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」 「それ、俺だろ」  そーですね……。  カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。

【完結】私たち白い結婚だったので、離婚してください

楠結衣
恋愛
田舎の薬屋に生まれたエリサは、薬草が大好き。薬草を摘みに出掛けると、怪我をした一匹の子犬を助ける。子犬だと思っていたら、領主の息子の狼獣人ヒューゴだった。 ヒューゴとエリサは、一緒に薬草採取に出掛ける日々を送る。そんなある日、魔王復活の知らせが世界を駆け抜け、神託によりヒューゴが勇者に選ばれることに。 ヒューゴが出立の日、エリサは自身の恋心に気づいてヒューゴに告白したところ二人は即結婚することに……! 「エリサを泣かせるなんて、絶対許さない」 「エリサ、愛してる!」 ちょっぴり鈍感で薬草を愛するヒロインが、一途で愛が重たい変態風味な勇者に溺愛されるお話です。

【完結】召しませ神様おむすび処〜メニューは一択。思い出の味のみ〜

四片霞彩
キャラ文芸
【第6回ほっこり・じんわり大賞にて奨励賞を受賞いたしました🌸】 応援いただいた皆様、お読みいただいた皆様、本当にありがとうございました! ❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。. 疲れた時は神様のおにぎり処に足を運んで。店主の豊穣の神が握るおにぎりが貴方を癒してくれる。 ここは人もあやかしも神も訪れるおむすび処。メニューは一択。店主にとっての思い出の味のみ――。 大学進学を機に田舎から都会に上京した伊勢山莉亜は、都会に馴染めず、居場所のなさを感じていた。 とある夕方、花見で立ち寄った公園で人のいない場所を探していると、キジ白の猫である神使のハルに導かれて、名前を忘れた豊穣の神・蓬が営むおむすび処に辿り着く。 自分が使役する神使のハルが迷惑を掛けたお詫びとして、おむすび処の唯一のメニューである塩おにぎりをご馳走してくれる蓬。おにぎりを食べた莉亜は心を解きほぐされ、今まで溜めこんでいた感情を吐露して泣き出してしまうのだった。 店に通うようになった莉亜は、蓬が料理人として致命的なある物を失っていることを知ってしまう。そして、それを失っている蓬は近い内に消滅してしまうとも。 それでも蓬は自身が消える時までおにぎりを握り続け、店を開けるという。 そこにはおむすび処の唯一のメニューである塩おにぎりと、かつて蓬を信仰していた人間・セイとの間にあった優しい思い出と大切な借り物、そして蓬が犯した取り返しのつかない罪が深く関わっていたのだった。 「これも俺の運命だ。アイツが現れるまで、ここでアイツから借りたものを守り続けること。それが俺に出来る、唯一の贖罪だ」 蓬を助けるには、豊穣の神としての蓬の名前とセイとの思い出の味という塩おにぎりが必要だという。 莉亜は蓬とセイのために、蓬の名前とセイとの思い出の味を見つけると決意するがーー。 蓬がセイに犯した罪とは、そして蓬は名前と思い出の味を思い出せるのかーー。 ❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。.:*:.。.✽.。.:*:.。.❁.。. ※ノベマに掲載していた短編作品を加筆、修正した長編作品になります。 ※ほっこり・じんわり大賞の応募について、運営様より許可をいただいております。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

鬼と契りて 桃華は桜鬼に囚われる

しろ卯
キャラ文芸
幕府を倒した新政府のもとで鬼の討伐を任される家に生まれた桃矢は、お家断絶を避けるため男として育てられた。しかししばらくして弟が生まれ、桃矢は家から必要とされないばかりか、むしろ、邪魔な存在となってしまう。今更、女にも戻れず、父母に疎まれていることを知りながら必死に生きる桃矢の支えは、彼女の「使鬼」である咲良だけ。桃矢は咲良を少女だと思っているが、咲良は実は桃矢を密かに熱愛する男で――実父によって死地へ追いやられていく桃矢を、唯一護り助けるようになり!?

処理中です...