パクチーの王様 ~俺の弟と結婚しろと突然言われて、苦手なパクチー専門店で働いています~

菱沼あゆ

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夫ですが、緊張します

パクチーを食べたら……

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「あれ、美味しかったですっ。
 なんかこう、パイナップルが入って、甘酸っぱい」
と後半、酔っていたので、うろ覚えな店のメニューを褒めながら、歩いているうちに、逸人の店が通りの先の方に見えてきた。

「此処、いい場所ですよねー。
 あんないい店から歩いて帰れますよ」
と笑うと、逸人は、

「うちも、あんないい店とか言われるようになるといいんだが」
と言ってくる。

「なりますよ。
 だって、逸人さんがやってるんですから」
と笑うと、逸人は俯き、

「……なんの根拠にもなってないが」
と言いながらも、少し笑っていた。

 今は暗く、灯りもついていないので、よく見えない店舗の方を見ながら、芽以は訊いた。

「あのー、なんで、パクチー専門店を開こうと思ったんですか?」

 苦手なものを克服したいからと言うのは聞いたが、それだけなのだろうかと少し気になっていたからだ。

 逸人は夜空を見上げ、白い息を吐きながら黙っていたが、やがて、口を開いた。

「昔――
 パクチーを我慢して食べたら、いいことがあったからだ」

「いいことってなんですか?」
と逸人を見上げた瞬間、芽以はアスファルトのくぼみに足を取られ、つまずいていた。

 うひゃっ、と間抜けな声を上げたときには、逸人が抱きとめてくれていた。

 うわっ。
 逸人さんの匂いがするっ。

 後ろから逸人に抱きすくめられるような形になった芽以は硬直する。

 いや、自分と同じ洗剤の香りなんだがっ。

 なんでだろうっ、緊張が頂点にっ、と思いながら、芽以は慌てて逸人から離れた。

「すっ、すみませんっ」
と謝ると、逸人は溜息をつき、
 
「俺が着るより、お前に着せるべきだな、トレンチ」
と言った。

「は?
 レンチですか?」

「……レンチで殴り殺すぞ」

 トレンチコートだ、と言う。

「言ったろう。
 トレンチコートの肩の飾りは、倒れた仲間を引っ張り起こすためにあるんだ」

 素っ気なくそう言い、逸人は先を歩き出す。

 仲間か……、と芽以は逸人の小さな頭を見上げ、微笑んだ。

「逸人さん、私のことも仲間だと思ってくださってますか?」
と呼びかけると、逸人は、珍しく、

「……は?」
と少し間抜けな声を上げ、振り返る。

「私のことも、一緒に店をやる仲間だと思ってくださったら、嬉しいですっ」
と芽以は、立ち止まった逸人の白く大きな手を両手で握る。

「私っ、ずっと受付嬢しかやってこなくて。
 受け付けることと、愛想を振ることしか出来ませんがっ。

 これからも頑張りますのでっ、見捨てないでくださいっ」
と言うと、逸人は、

「いや、他の男に愛想は振らなくていいが……」
と言ったあとで、

「……お前はよくやってると思うよ。
 前の会社の仕事もよくやってた」
と言ってきた。

 やってた?

「俺はお前の会社に行くことはなかったが、たまに会社の前を通ってたんだ。
 嫌な客も居るだろうに、お前は、いつも笑顔でニコニコ応対してた」

「み、見てくださってたんですかっ」
と逸人の手を握る手に力を込めると、

「たまたま視界に入っただけだ。

 それから、手を離せ。
 不用意に男に愛想を振ったり、手を握ったりするな」
と素っ気なく言ってくる。

 ……いや、貴方、私の夫ですよね、と思いはしたが、その辺の男友だちより、確かに、よそよそしい感じはしていた。

 まあ、押し付けられた嫁だからな、と思う。

 店の前まで歩き、鍵を出す逸人の背を見ながら、芽以は思っていた。

 でも、私、逸人さんと働くの、楽しいですよ。

 厨房に行ったときと、料理を運ぶときは、ちょっと息を止めてますが。

 だんだん、息を止められる時間が長くなってきた気がするし。

 いつか、きっと、素潜りしたとき、役に立つに違いありません。

 パクチーだって、そのうち、劇的に好きになれると信じてますしね。

 そう思いながら、
「ほら、入れ」
と逸人が開けてくれたドアをくぐる。

 ありがとうございます、と頭を下げた。

 ちょっと、看守が囚人を牢へと急かすような口調なのが、気になるが、と思いながらも――。


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