36 / 101
夫ですが、緊張します
パクチーを食べたら……
しおりを挟む「あれ、美味しかったですっ。
なんかこう、パイナップルが入って、甘酸っぱい」
と後半、酔っていたので、うろ覚えな店のメニューを褒めながら、歩いているうちに、逸人の店が通りの先の方に見えてきた。
「此処、いい場所ですよねー。
あんないい店から歩いて帰れますよ」
と笑うと、逸人は、
「うちも、あんないい店とか言われるようになるといいんだが」
と言ってくる。
「なりますよ。
だって、逸人さんがやってるんですから」
と笑うと、逸人は俯き、
「……なんの根拠にもなってないが」
と言いながらも、少し笑っていた。
今は暗く、灯りもついていないので、よく見えない店舗の方を見ながら、芽以は訊いた。
「あのー、なんで、パクチー専門店を開こうと思ったんですか?」
苦手なものを克服したいからと言うのは聞いたが、それだけなのだろうかと少し気になっていたからだ。
逸人は夜空を見上げ、白い息を吐きながら黙っていたが、やがて、口を開いた。
「昔――
パクチーを我慢して食べたら、いいことがあったからだ」
「いいことってなんですか?」
と逸人を見上げた瞬間、芽以はアスファルトのくぼみに足を取られ、つまずいていた。
うひゃっ、と間抜けな声を上げたときには、逸人が抱きとめてくれていた。
うわっ。
逸人さんの匂いがするっ。
後ろから逸人に抱きすくめられるような形になった芽以は硬直する。
いや、自分と同じ洗剤の香りなんだがっ。
なんでだろうっ、緊張が頂点にっ、と思いながら、芽以は慌てて逸人から離れた。
「すっ、すみませんっ」
と謝ると、逸人は溜息をつき、
「俺が着るより、お前に着せるべきだな、トレンチ」
と言った。
「は?
レンチですか?」
「……レンチで殴り殺すぞ」
トレンチコートだ、と言う。
「言ったろう。
トレンチコートの肩の飾りは、倒れた仲間を引っ張り起こすためにあるんだ」
素っ気なくそう言い、逸人は先を歩き出す。
仲間か……、と芽以は逸人の小さな頭を見上げ、微笑んだ。
「逸人さん、私のことも仲間だと思ってくださってますか?」
と呼びかけると、逸人は、珍しく、
「……は?」
と少し間抜けな声を上げ、振り返る。
「私のことも、一緒に店をやる仲間だと思ってくださったら、嬉しいですっ」
と芽以は、立ち止まった逸人の白く大きな手を両手で握る。
「私っ、ずっと受付嬢しかやってこなくて。
受け付けることと、愛想を振ることしか出来ませんがっ。
これからも頑張りますのでっ、見捨てないでくださいっ」
と言うと、逸人は、
「いや、他の男に愛想は振らなくていいが……」
と言ったあとで、
「……お前はよくやってると思うよ。
前の会社の仕事もよくやってた」
と言ってきた。
やってた?
「俺はお前の会社に行くことはなかったが、たまに会社の前を通ってたんだ。
嫌な客も居るだろうに、お前は、いつも笑顔でニコニコ応対してた」
「み、見てくださってたんですかっ」
と逸人の手を握る手に力を込めると、
「たまたま視界に入っただけだ。
それから、手を離せ。
不用意に男に愛想を振ったり、手を握ったりするな」
と素っ気なく言ってくる。
……いや、貴方、私の夫ですよね、と思いはしたが、その辺の男友だちより、確かに、よそよそしい感じはしていた。
まあ、押し付けられた嫁だからな、と思う。
店の前まで歩き、鍵を出す逸人の背を見ながら、芽以は思っていた。
でも、私、逸人さんと働くの、楽しいですよ。
厨房に行ったときと、料理を運ぶときは、ちょっと息を止めてますが。
だんだん、息を止められる時間が長くなってきた気がするし。
いつか、きっと、素潜りしたとき、役に立つに違いありません。
パクチーだって、そのうち、劇的に好きになれると信じてますしね。
そう思いながら、
「ほら、入れ」
と逸人が開けてくれたドアをくぐる。
ありがとうございます、と頭を下げた。
ちょっと、看守が囚人を牢へと急かすような口調なのが、気になるが、と思いながらも――。
1
お気に入りに追加
57
あなたにおすすめの小説
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
【完結】俺様御曹司の隠された溺愛野望 〜花嫁は蜜愛から逃れられない〜
雪井しい
恋愛
「こはる、俺の妻になれ」その日、大女優を母に持つ2世女優の花宮こはるは自分の所属していた劇団の解散に絶望していた。そんなこはるに救いの手を差し伸べたのは年上の幼馴染で大企業の御曹司、月ノ島玲二だった。けれど代わりに妻になることを強要してきて──。花嫁となったこはるに対し、俺様な玲二は独占欲を露わにし始める。
【幼馴染の俺様御曹司×大物女優を母に持つ2世女優】
☆☆☆ベリーズカフェで日間4位いただきました☆☆☆
※ベリーズカフェでも掲載中
※推敲、校正前のものです。ご注意下さい
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ルナール古書店の秘密
志波 連
キャラ文芸
両親を事故で亡くした松本聡志は、海のきれいな田舎町に住む祖母の家へとやってきた。
その事故によって顔に酷い傷痕が残ってしまった聡志に友人はいない。
それでもこの町にいるしかないと知っている聡志は、可愛がってくれる祖母を悲しませないために、毎日を懸命に生きていこうと努力していた。
そして、この町に来て五年目の夏、聡志は海の家で人生初のバイトに挑戦した。
先輩たちに無視されつつも、休むことなく頑張る聡志は、海岸への階段にある「ルナール古書店」の店主や、バイト先である「海の家」の店長らとかかわっていくうちに、自分が何ものだったのかを知ることになるのだった。
表紙は写真ACより引用しています
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
あまりさんののっぴきならない事情
菱沼あゆ
キャラ文芸
強引に見合い結婚させられそうになって家出し、憧れのカフェでバイトを始めた、あまり。
充実した日々を送っていた彼女の前に、驚くような美形の客、犬塚海里《いぬづか かいり》が現れた。
「何故、こんなところに居る? 南条あまり」
「……嫌な人と結婚させられそうになって、家を出たからです」
「それ、俺だろ」
そーですね……。
カフェ店員となったお嬢様、あまりと常連客となった元見合い相手、海里の日常。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる