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偽りの婚約者
こういう記憶もないわけか
しおりを挟む佐野あづさの部屋は、華やかな衛の婚約者のそれとも思えないほど、質素だった。
ふと気づき、振り返ると、衛は開けたままのドアに縋り、何か考え事をしている。
「入らないんですか?」
と訊くと、衛は縋ったまま顔を上げ、
「そう簡単に女の部屋に入るもんじゃないだろう」
と言った。
「でも、此処、私の部屋っていうより、貴方の婚約者の部屋じゃないですか」
気軽に女の部屋には入らないようにしてるのだと衛は言った。
「どうしてです?」
と言いながら、片隅に、先程衛から受け取ったたいしたものの入っていないボストンバッグを置く。
「ちょっと部屋に入っただけで、妊娠したとか責任をとれとか言い出す女が居るからだ」
それを聞いた私は小首を傾げた。
「どうして、そこまでして、貴方と結婚したいんですかね?
なんだかめんどくさい生活が待ってそうですけど」
また余計なことを言ってしまったようだ、と衛の顔を見て気がついた。
「し、支度して来ます~っ」
そう言いながら、洗面所に向かう。
特に身だしなみを整えたかったわけではなく、部屋の構造を確認しておきたかったからだ。
これからしばらくの間、暮らすはずの場所だから。
だが、鏡に自分の姿が映ったとき、ぎくりとした。
鏡の中の自分が全然違う表情をしていたように見えたからだ。
「あのー、衛さん」
今は自分を映している鏡を見ながら、呼びかけると、なんだ、という相変わらずの横柄な声が、玄関から聞こえてきた。
「いえ。
なんでもないです……」
と言いながら、ぐるりと他人の部屋を眺めてみる。
縦に長い北側の部屋にはベッドも小さくカラフルなテーブルもある。
此処がリビング兼寝室のようだった。
お待たせしましたー、と入り口に戻ると、衛は開いたドアのところにしゃがみ込んでいた。
何をしているのかと思ったら、むさぼるように文庫本を読んでいる。
視線に気づいたらしい衛はそれをジャケットのポケットにねじ込む。
こんなところで読まなくてもな、という顔をしている自分を見上げて言った。
「お前がなかなか戻って来ないからな。
僕の時間は貴重なんだ」
「それはそれは、貴重な時間を無駄にさせて済みませんでしたね。
ちょっとでも、ぼーっとしてる時間が許せないタイプですか?」
衛が何か文句を言う前に、
「なに読んでたんです?」
と訊いてみた。
衛は文句を言う気も失せたのか、無言で、それを投げて寄越す。
変色した近代文学の文庫本だ。
「あ~、これ、昔、読みました。
えーと、図書室で借りて。
図書室――
何処のだっけな?」
と呟く。
思い出せなかったが、ぼんやりと学校のものらしき図書室が見えた。
こういう記憶もないわけか。
何かのヒントになったかもしれないのに。
そう思いながら、一歩出たドアの向こう、近くのアパートの窓に反射する夕陽が眩しく、ただ、目をしばたたいて、それを見つめた。
「そういえば、この部屋、前の住人だかなんだかの霊が出るそうだが」
ふいに衛がそんなことを言い出した。
「えーと。
今、北側の窓の下。
廊下の隅にしゃがんでた男の人ですかね?」
「見えたのか……」
此処で服毒自殺を図ったのだと衛に訊いた。
「それで部屋が安かったとあづさが
「どうして、引っ越させなかったんですか」
天下の御剣衛の婚約者が安いからといって、わざわざ霊が出る部屋に住むこともあるまいと思ったのだが。
衛はあまり、恋人のそういうことには口を挟まないタイプの人間らしかった。
話している間に鍵をかけてしまっていた部屋の戸を振り返りつつ、
「その、なんか出るって話は誰に聞いたんですか?」
と訊いた。
「あづさだ」
と言いながら、衛は先に階段を下り始める。
「あづささんは、大家さんから訊いたんですか?」
「大家からも自殺のあった部屋だと聞いていたそうだが。
自分も霊を見たそうだ」
「自殺した男の人の霊が出るって言われて、なんて言ったんですか?」
「妄想だろう」
「最悪の婚約者ですねえ」
と返しながら、鉄錆の浮いた白い手すりを掴んで、後に続いた。
太陽が沈む方角を見ると、隣の家の塀の上にあった茶色い頭が沈んだ。
もしや、あれが警察か、ガードの人間だろうか。
だとしたら、かなり間の抜けた感じだが。
大丈夫だろうか? と思ったとき、衛はこちらを見ないまま、
「あれはうちのじゃないぞ」
と言った。
そりゃま、御剣が雇ったボディガードがあれでは問題があるだろう。
錆びた手すりに手をかけ、何度も此処を往復したであろう佐野あづさの姿を求めるように振り返ったが、彼女の霊は見えなかった。
先を下りて行く衛の側にも見えない。
死んだ彼女の霊は今、何処に居るのだろうと不思議に思った。
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