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偽りの婚約者
退院
しおりを挟む眠っている私の側に、誰かが立っている。
そして、その手が私の頬に触れてきた――。
知らなかった。
こんなに楽になるものだなんて――
知らなかった。
こんなに簡単に消してしまえるものだなんて。
こうして、そこに手をかければ、
まるで、そこに指があつらえられていたかのように、スムーズに喰い込んでいく。
「……や……い」
後少し、このまま絞め続ければ――。
翌朝、一般病棟の看護師たちにも花を贈られ、佐野あづさとなった私は衛とともに玄関へと向かっていた。
ロビーに居る患者たちが何事かと振り返る。
医師まで総出で見送っているからだ。
この病院も御剣グループのものらしいからな、と思いながらも、やはり、慣れない状況がこそばゆい。
あっちの病棟に居たのだから、ひっそりと出て行きたかったのだが。
そこはやはり、『生きているあづさ』の顔を見せねばならないようだった。
笑顔で挨拶を返しながらも、ちら、と手の中の鮮やかな花束を見る。
「……不吉な」
と呟いた。
「花屋が花を嫌うな」
ぼそりと言ったあと衛は、
「腕くらい掴め」
と言ってくる。
「なんでです?」
と問うと、彼は前を見たまま、
「婚約者だからだ」
と素っ気なく答えた。
「それに、あづさは結構積極的だったというか」
「あ~、そうなんですか。
そんな顔はしてないですが」
「そこなんだ」
と衛は困ったように言う。
「お前とあづさはそっくりにしたはずなんだが。
何かが違う」
「そうですか。
まあ、顔って性格が出ますからねえ」
まだ見ていないあづさの顔を見てみたいと思った。
同じ顔だが、確かに性格が違えば何かが違うのだろう。
一卵性の双子でも、だんだん似なくなるように。
「そういえば、昨日、貴方のお友だちの兼平さんて方が私を見て言ってましたよ。
貴方のことを未練がましいって」
もしかして、バレてるんじゃないですか?
と言うと、余計なことをという顔をしたあとで、
「兼平が言っているのは別のことだ」
と衛は言った。
詳しく訊いてみたかったのだが、なんだかしゃべりそうにはなかったし、運転手に黒塗りの車のドアを開けられ、そのままになった。
庶民はこういうとき、急いで乗ってあげなくてはっ、という気持ちについなってしまう。
やれやれ、と思いながら、なんとなくいい匂いのする車の座席に背を預けたとき、看護師たちの後ろ、ポーチの柱の陰に要が見えた。
白衣を風に揺らし、相変わらず、何もかもどうでもよさそうな顔で立っている。
目が合うと、まあ、頑張れ、というような表情で、小さく手を上げてみせた。
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