憑代の柩

菱沼あゆ

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霊――

アパートの外

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 自分以外に生きている人間の気配のしないアパートの一室。

 ふいに、犬の遠吠えが聞こえてくる。

 夜になると、いつも聞こえてくるのだが、この近所の何処に居るのか未だにわからない。

 唐突に遠吠えがやんだ。

 なんとなく呼吸を止めて、身構える。

 空気が張りつめた気がしたからだ。

 アパートの外の廊下を歩く音が聞こえた。

 やけに響く。

 明日、持っていく予定のポーチを手に、洗面所に立っていた。

 洗面所は部屋の中程にあり、廊下とは離れた位置にあるのに、何故、こんなに聞こえるのだろうと思った。

 ゆっくりと、踏みしめて歩くような特徴的な足音。

 ポーチから取り出しかけていた小瓶を強く握り締め、息をひそめ、じっとしていた。

 案の定、この部屋の前で、ピタリとその足音が止まる。

 そのまま動かない。

 まるで我慢比べのように、自分もまた動かないでいた。

 そのとき、階段を上がって来る軽快な足音が聞こえてきた。

 ビニール袋のカサカサと揺れる音。

 鼻唄まじりのように感じるその足音は、さっさと部屋の前を通り過ぎ、二、三個先のドアを開けた。

 大きな音を立てて、その部屋のドアが閉まると同時に駆け出す。

 チェーンを外すのももどかしく、ドアを開けた。

 まだ少し冷たく感じる夜風が一気に顔に吹きつけてきた。

 ガランとした深夜の廊下。

 誰も居ない。

 いや、居ないことはわかっていた。

 此処で止まった足音が何処かへ行く気配はなかったのに、先程通り抜けた住人は挨拶することもなく、この狭い廊下で避けることもなく、乱れなく歩いていった。

 だから、此処に誰も居ないことはわかっていた――。

 錆びた手すりの向こうを見る。

 住宅が多いので、この時間には、あまり灯りがない。

 視線をゆっくりと下げると、それが目に入った。

 セメントの床に、ぽつり、ぽつりと落ちている水の跡。

 セメントに落ちた水跡は濃く、グレーになっていたが、切れかけて瞬く蛍光灯の下では、まるで血の痕のように見えた。

 小瓶を握り締めたまま、何処からも続かず、ただそこだけに落ちている水跡を、いつまでも見つめていた。


 
 一人ならいいですよ。
 


 一人で、いいですよ。
 


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