禁断のプロポーズ

菱沼あゆ

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第三章 禁断のプロポーズ

何故、こうなったのか考えているだけだ

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 風呂を出た未咲は、ひとり、月を眺めながら、縁側を歩いていた。

 そのとき、塀の上でなにかが動いた。

 一瞬だったのだが、人の頭が現れ、消えたように感じられた。

 なに、今の……。

 誰かがこっちを覗いてた?

 水沢さんとかなら、やりそうだけど。

 それなら、すぐに、やあやあ、って笑いながら入ってくるはず。

 空き巣の入った家が珍しくて、覗いている野次馬だろうか。

 それとも、自分も入れるかと思って、覗いている空き巣?

 未咲は部屋に戻ると、障子を閉めた。

 もう一度、まだ鑑識が入ったときのまま、片付けていない部屋を眺める。

 なるほど、空き巣による箪笥の捜索はまだ途中のようだった。

 夏目さんが帰ってきたからだろうか?

 そもそも、空き巣が日記を持って逃げること自体おかしいし。

 もし、あの日記が目的だったのなら、犯人は日記を手に入れたあと、なにを探していたのだろう。

 現金?

 ついでにと思ったのか。

 或いは、物取りの犯行と見せかけるためか。

 未咲は鞄の中に手を入れ、それを取り出した。

 一ページ目から読み直してみる。

 未咲の日記だ。

『日記を読み返してみろ』

 智久の言葉が頭に響いていた。
 


 朝、未咲は会社の廊下を歩きながら、考え事をしていた。

 一連の出来事の中に、なにかこう、釈然としないものを感じていたのだ。

 あまり人気のない役員室のある階。

 向こうから、清掃業者の人が掃除道具の詰まったワゴンを押してきている。

 頭を下げると、帽子を目深に被ったその人は、丁寧に下げ返しながら、ワゴンの中のなにかを取った。

 専務室の扉が開く。

「未咲っ!」
と智久の声がした。

 一瞬、なにが起こったのかわからなかった。

 清掃業者の人はワゴンを置いたまま、非常階段に向かって走り出す。

 向こうからやってきた佐々木とぶつかりそうになり、佐々木がおっと、と振り返り見ていた。

 彼が走って行った方角に、点々と血が滴っていた。

 未咲は足許を見る。

 あのとき、あの夜の波止場で見たのと同じに、智久が腹を刺されて、うずくまっていた。

「智久さんっ」
と慌てて、側にしゃがんだ。

 腹を抑えた智久は、
「……痛いな、結構」
とうめく。

「相当でしょっ。
 佐々木さん、救急車っ!」

「わ、わかりましたっ」

 さすがの佐々木も社内ではあまり起こらない事態に動揺しており、ワンテンポ反応が遅れた上に、未咲に向かって、敬語をつかっていた。

 智久は、ナイフで刺されたらしい己れの腹を恐る恐る見ながら、
「なんで俺がお前をかばって刺されるんだ」
と呟いている。

「ほんとですよっ。
 なんで刺されてるんですかっ」
と叫びながら、未咲は上着を脱いで、それで傷口を抑える。

 犯人は智久を狙ったわけではない。

 自分を狙ったところに彼が飛び出しただけだから、深くは刺さなかったようだが、出血が多いのが少し心配だった。

「俺がなんの悪いことしたって言うんだ」

 専務室の扉に背をぶつけたまま、痛みに丸くなった智久が言う。

「わ、悪いこと?
 悪いことですか?

 女子高生を金で買ったり?」

「なんにもしてないだろうが」

「うちのおねえちゃんをもてあそんだり?」

「もてあそばれてたの、俺じゃないか?」

「ああ、そうだ。
 私のファーストキスを奪ってみたりっ!

 ヤバイですよ、智久さん、走馬灯のように思い浮かびますっ!」

「それだと、死ぬのはお前だろう」
と冷静さを取り戻してきた智久が言う。

「それに、死にかけたら、走馬灯のように過去の記憶が脳を巡るのは、単に、今現在起こっている危機に対して、これまで経験してきたことで得た知識が使えないか、脳が検索するからだ」

「今、そんな長い説明いらないですよっ」

 喋るたびに、血が溢れそうで不安だった。

 智久は、ひとつ大きく息を吐いて言う。

「なんで、俺は刺された?」

「私をかばったからですよっ」
と言うと、

「そうじゃない」
と言って、少し考えている。

「なんで、お前をかばう必要があったのかな、と思ってるだけだ」

「薄情ですね~」
と言って、また、そうじゃない、と言われた。

「この位置からなら、俺が刺されなくても、お前を助ける方法はいろいろとあったはずだ。
 物の載ったワゴンも目の前にあったしな。

 なんで、自分の身体で止めたのか、考えてるだけだ」

「そうですか。
 じゃあ、救急車が来るまで、そんなことでも考えて、痛みを散らしててください」

 此処はあまり外の音が聞こえないので、救急車が到着してもわからないかもしれない。

 もしかしたら、会社から、サイレンは鳴らして来ないよう、指示されているかもしれないし。

 まだ来ないか、と落ち着かない気持ちで、エレベーターホールの方を見たとき、
「未咲、なんでお前、狙われた?」
 改めて、智久に、そう問われた。

「それは……実は思い当たる節があります。
 昨日、うちに空き巣が入ったんです。

 もしかしたら……
 おねえちゃんが死んだのは、私のせいかもしれません」

「どういう意味だ?」
「担架来ましたっ」

 ちょうどそのタイミングで佐々木が叫ぶ。

 エレベーターから担架を抱えた救急隊員が駆けてくる。

「なんでかばったのか、考えない方がいいな」
と智久は呟く。

「ただの女子社員をかばった方が美談だ」
「はい?」

 死ぬの生きるのってときに、なに考えてんだ、この人、と思った。

 まあ、恐らく、そこまでの傷ではないが。

 ただ、出血はひどい。

 未咲は抑えていた手を離し、救急隊員と変わった。

 彼らも出血多量を心配したようだった。

「広瀬智久さんですね?
 検査はしますが、一応、血液型を」

「Rh-Bです」

「な、なんで、そんなめんどくさい血液型なんですかっ。
 そんな人は人をかばわないでくださいっ」

 心配して、思わず叫び、

「いやあの、大丈夫ですよ。
 ありますから、血液。

 登録されてる方も大勢居らっしゃいますし」
と救急隊員になだめられてしまう。

「Oじゃなかったですか?」

 佐々木が言う。

「専務の血液型……」

 さすが佐々木はそこで黙った。

「……Rh-Bだ。
 未咲、ついて来い」

「救急車に乗ろうって人が、ついて来いとか言いますかね、行きますけど。

 ちなみに私は使えないA型ですよ」
と言うと、智久は何故か笑う。

「ちなみに、夏目さんもAだそうです」

「会長もAだ」

 ついテンションが下がりそうになると、智久が、
「だが、日本にどれだけ、A型の人間が居ると思ってるんだ」
と慰めてくれる。

「そうですね。
 うちの母もA型ですから……」

 エレベーターに乗る直前、廊下に桜が真っ青になって立っているのが見えた。

 うう。
 すみません、桜さん。

 貴女の大好きな人を危険な目に遭わせて。

 エレベーターに乗り込んだ未咲は桜に向かい、頭を下げた。

 そのまま扉が閉まる。



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