禁断のプロポーズ

菱沼あゆ

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第一章 オフィスの罠

ここがはじまり

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 疲れた。

 今、電話してくる奴がいたら、殺す。

 仕事が終わり、倒れ込むように部屋に戻った未咲は、そのままカーペットに転がった。

 寝返りを打つと、ゴンッとテーブルの脚で頭を打つ。

 疲れた。

 だが、これでもマシになった方だ。

 入社してすぐなど、箸を持ったまま寝ていた。

 最初は普通に出社するだけでも、慣れない場所で疲れるのに、別のことにまで神経を使っているので、余計にだ。

 手探りですぐ側のソファの上にあった日記帳を引っ張り下ろす。

 寝たままそれを眺めていると、スマホが鳴った。

 今、殺すと言ったのに、と思いながら、伸ばした指で鞄を引っ張り、スマホを抜き出す。

 夏目から着信していた。

 ふわふわの茶色いカーペットに置いたスマホに表示されているその名前を一瞬、眺めてから出る。

「もしもし」
と夏目のものらしき声がした。

 落ち着いて聞いたこともなかったな、と思う。

 こんな声なのか。

 広瀬専務もいい声をしているが、夏目のそれの方が、もっと心地よい。

「……はい。
 志貴島未咲です」

 自分のスマホにかかってきたというのに、そう名乗るのもおかしいが。

 そういえば、あの場で名乗らなかったな、と気がついたので、そう言ってみた。

 夏目の隣に居た男も、

『あ、愛人課の子』
としか言っていなかったのに。

 夏目は自分のことを知っていたのだろうか?

 入社したとき、みんなと一緒に、ちょっと挨拶した程度なのに。

「志貴島未咲。
 今、暇か」

「課長はお暇なんですか?」

 時計を見ると、八時前だった。

 もう少しで暇になると言う。

「ちょっと会えないか」

「わかりました。
 栄養ドリンク飲んででも、出かけます」

「……いや、そこまでしなくていい」

 疲れのせいか、夏目の声が心地よく、緊張感がなかったせいか、思わず、本音がもれてしまった。

 夏目は、いいと言ってくれたが、そもそも、あの会社に入った目的は、就職することではない。

 姉の死の真相を探ることだ。

「行きますっ」

 一瞬、間があり、夏目は、わかった、と言った。

 聞いたことのある創作料理の店を指定し、夏目は電話を切る。

 未咲は夏目からの着信をもう一度確認し、時刻と名前の入ったその画面をスクリーンショットで保存した。

 ここが第一歩だ、と思ったからだ。

 真実に近づくための、第一歩。

 いや、あの会社に入ったときが、本当の第一歩だったのかもしれないが。

 ソファに手をかけ、気合いを入れて立ち上がる。

 一度、起きると、社内にいるときのように、しゃっきり立てた。

 冷蔵庫を開けてみたが、買ってもいない栄養ドリンクがあるはずもない。

 仕方なく、ハチミツドリンクなど飲んでみたが、効果があるかどうか。

 グラスをシンクに勢いよく置くと、
「よしっ」
と言って、洗面所に向かう。

 うっかりだが、結婚してくださいと言ってしまった相手と出会うのだ。

 化粧直しくらいしなければ。

 鏡に映るのは、自分ではあまり姉と似ているとは思えない顔。

 そっと冷たい鏡面に触れてみる。

 これが真実に近づくための、第一歩。

 このときは、そう思っていたが、後から考えれば、それは夏目との奇妙な同居生活への第一歩だった。


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