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ゼロどころか、マイナスからの出発
妄想の中でなら、いくらでも
しおりを挟む昼休み、また青葉が店を覗こうとすると、店の中に母、寿々花の姿が見えた。
あかりと二人、並んでカウンターに並び、雑誌を眺めて笑っている。
ふいに怒りが込み上げてきた。
お前たちがそんなに今、仲良くしているのなら。
あのとき、俺たちが引き裂かれた意味は何処にっ?
だがまあ、母親の言い分もわからないでもない。
自分たちの周りにはいつも財産目当ての連中や、今の地位から引きずり落としてやろうと狙う輩がいるし。
いきなり見知らぬ女が、自分は青葉さんが記憶喪失の間の恋人でしたと言ってきても信じられるものではない。
だが、このあかりのぼんやり顔を見て、詐欺師だと思う奴がいるか?
と青葉は思う。
そのとき、俺に会わせてくれていたら、記憶は戻らなくとも、すぐに恋に落ちていた自信があるのに――。
今も記憶もないのに、こうして、また好きになってしまっているわけだし。
青葉は、あかりが詐欺師だった場合を想定してみた。
女スパイだったあかりに、波止場で青葉は叫ぶ。
「お前の語る俺たちの過去が偽りでも構わないっ。
愛してるんだっ」
……妄想の中でなら、いくらでも愛を語れるな。
現実では、ちょっと指先が触れただけで、ビクビクしてしまうのに。
まあ、日向という子どもを作っておいて、それもおかしな話なんだが……。
あはははは、というあかりの楽しそうな笑い声が店の中から響いてきた。
まあ、この二人が仲良くなったのは、その堀様とやらのおかげなのだろう。
そんなことを思いながら、カランカランとドアベルを鳴らして、青葉は店内に入った。
「いらっしゃい」
とあかりが笑顔で振り返り、寿々花がちょっと気まずそうな顔をした。
息子にあかりに近づくなと過去、言っておいて。
自らがあかりと楽しそうにしていることを責められそうだったからだろう。
「別に二人で楽しそうにしててもいいんですが。
……まあ、なんだかんだで、俺は日向が一番可愛い時期を見逃したわけですが」
カウンターであかりが淹れてくれたアイスコーヒーを飲みながら、青葉は言う。
すると、寿々花がスマホを手に笑う。
「私はちゃんと見たわ!
写真にも撮ったわ!」
あかりもスマホを手に微笑む。
「私も見ました!
写真にも撮りました!」
だから、結託するなと言っているのに、この二人……。
「最初からそんなに仲がよかったら、なにごとも起こらなかったのでは?」
だが、そこで二人は俯き黙る。
その沈黙だけで、いろいろあったんだろうなーということは想像できた。
「だいたい、あかりさん。
私はね、日向の胎教にはモーツァルトとか聴かせなさいと言ったのにっ。
あなたと来たら、いまどき流行り曲ばかり聴いてっ」
「じゃあ、寿々花さんは、ずっとモーツァルトばかり聴いてたんですか?」
「そうよっ」
「その結果が……っ」
あかりはそこで言葉を止めた。
お前、今、その結果がこれですか、と言おうとしただろう……。
「もしや、すみれもモーツァルトで育てたのか」
「……言わないでちょうだい」
と寿々花は目をそらす。
すみれは青葉の姉だ。
「すみれで失敗したのに、なんで俺でまたやってみたんだ?
俺とすみれは年離れてるから、すみれはすでに、あんな感じだったろうに」
「確かに、すみれは私以上に自由奔放だけど。
あの子、頭はいいのよっ」
……頭さえよければ、それでいいのだろうか。
「なんだかわかりませんが、なに聴いて育てても、おんなじ感じってことですね」
とあかりが勝手にまとめる。
寿々花が今見ていた雑誌に視線を戻し、
「堀様はなにを聴いて育たれたのかしらね」
と言い出す。
「きっと美しいなにかですよ」
と夢見るようにあかりが言った。
美しいなにかってなんだ。
お前の弟がお前を褒めるときに言ってた『何処かいいところ』みたいに、ふわっとして、とりとめがないな、と思ったとき、寿々花が言った。
「日向は来ないの?」
「え? 呼びましょうか?
最近、来年度入るかもしれない幼稚園にときどき行ってるので、いない日もあるんですが」
「まあ、もう幼稚園なのね」
と寿々花はしんみりとする。
「入園前に通える教室があるんですよね。
月に何度かしかないですが」
「ひとりで行ってるの?」
「いえ、母が。
でも、暑くなる季節だし、大変そうなので、今度は私がついて行こうかと」
「そうしなさい。
幼稚園では、ママ友とかいうものを作らないといけないんでしょう?」
「……いやあの、私、姉なんですけどね、一応」
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