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ゼロどころか、マイナスからの出発

これが私のヒュッゲです

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 遅くなってしまったな。

 あかりの店はもう閉まっただろうか。

 ……いつまで開いてるんだか、わからない店だからな。

 そんなことを思いながら、店に行った青葉は、まだ灯りがついていて、ホッとする。

 外にかけてあるランプが暖かい光を放っていた。

 なにかこう、落ち着く光だ、と思いながら、中に入ると、あかりはカウンターで貴族の邸宅にありそうな燭台に火をつけていた。

「どうした?」
と訊くと、

「いや、なにかこう、癒されたいな、と。
 覚えてないかも知れませんが、北欧にはヒュッゲという文化がありまして」
と語り出す。

 ヒュッゲとは居心地のいい空間で、家族や友人たちとゆったりとした楽しい時間を過ごすことだ。

「覚えてるよ。
 そういう一般常識は忘れないから」
と言いながら、青葉はカウンターを挟んで、あかりの前にあるスツールに腰を下ろした。

「そういえば、記憶喪失になっても、常識的なことは忘れないの、なんでなんでしょうね?」

「……お前も辞書とかに載ってたら、忘れなかったかもな」

「『あかり』……」
と呟きながら、あかりはスマホの辞書を引いていた。

「あかりとは、光。ともしびのこと」

「待て。
 お前、今、辞書の前の画面、ゲームだったじゃないか。

 なにがヒュッゲだ。
 スマホのゲームのキリが悪くて店に残ってただけなんじゃないのか?」

 ちょっと見せてみろと、手を伸ばす。

「いやいやいやっ。
 このハゲたおっさんの一生を見守るのもヒュッゲですよ」

 逆ギレし、スマホを隠そうとしたあかりの手を思わず、つかんでしまった。

 慌てて離す。

 あかりも自分から距離を置いた。

「あかり」
「何故、呼び捨てですか」

 いや、なんとなく……。

「ほんとうは俺が来るのを待っててくれたってことはないか」

 わずかな希望を持って訊いてみた。

「ないです」

「ないのか」

「ないです」
とあかりは強い口調で言い切る。

 俺の中の心の辞書の『あかり』。

 その意味は、『可愛い』とか、『優しい』とか『面白い』だったんだが、書き換えよう。

 『あかり』とは、『自分を熱く思っている男を袖にしても、スマホでハゲたおっさんの一生見守る女』。

「……なにか飲みますか?
 お酒類はありませんが」

「もらおうか」

 『あかり』とは、『でもちょっとだけ、情けをかけてくれる、優しいところもある女』。

 青葉は心の辞書を書き換えながら、あかりが淹れてくれた珈琲を、燭台の灯りに照らし出されたあかりの顔を眺めながら飲んだ。

 ……うん。
 ヒュッゲだな、と思う。
 


「というわけで、あかりは俺じゃなくて、ハゲたおっさんに夢中らしい」

「なんなんですか、そのおっさんは」
と翌日、職場で来斗が言う。

 そういえば、こいつはまだなんにも知らないんだよな、と青葉は記憶を失わず、あかりと結婚できていたら、義理の弟になっていただろう男を見る。

「いやー、でも、社長のような方が何故、姉みたいな人を好きになるのかよくわからないんですが」
と来斗は心の内をぶっちゃける。

 まあ、うちにも一応、姉がいるから、そう思うのも、わからないでもない。

 姉弟なんて、大抵、こんなものだ。

 あかりの、辞書に書きたくなるような愛らしさも、綺麗さも、ホッとするようなぼんやりした雰囲気も。

 血のつながった弟の心には、なにも響いていないのに違いない。

 だが、さすがは肉親、自分で罵っておいて、自分で心配しはじめた。

「社長も今は物珍しくて、姉のことをいいと思ってらっしゃるのかもしれませんけど。

 きっとそのうち、飽きますよね?」

 いや、決めつけるな……。

「お前こそ、カンナとはどうなってるんだ。
 美人は三日で飽きると言うぞ」

 確かにかなりの美形ではあるが。
 クセの強いカンナの方が厄介だと思うのだが。

 この恋で目のくもった男には、カンナの性格もなにも障害ではないようだった。

 まあ、来斗、ちょっとマゾっ気がありそうだし。

 カンナも好きな男の前ではおとなしくしているのかもしれないな、と青葉は思う。

「社長、姉を見捨てないでやってくださいね」
と来斗は言い出した。

 いや、相手にされてないのは、こっちの方なんだが、と思いながらも聞いていると、

「あのっ、あんな姉でも何処かいいところがあるらしいんですよっ」
と主張しはじめた。

 いいところがあるらしいって。

 そこは何処なんだ。

 そして、お前はそれを誰から聞いたんだ、弟……。

 弟にとって、姉の良いところとは、思わずそう言ってしまうくらい遠いもののようだった。

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