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夫に距離を取られています
ちょっとだけありがとう、兄
しおりを挟む日向子たちが帰ったあと、芽以は二階の廊下で遭遇した逸人を呼び止めた。
逸人を見つめ、芽以は言う。
「逸人さん、ぎゅってしてください」
と。
「大丈夫ですよ。
私もこの子も――。
貴方に触れられない方が、心に障ります」
逸人は少し迷ったようだったが、そっと抱きしめてきた。
そのうち、その力が強くなる。
「ああ、すまん」
と逸人は謝り、手を離した。
「お前とお腹の子どもと、二倍抱きしめたくなるからかな」
そう言ったあとで、やさしく抱き直し、逸人は笑う。
芽以は逸人の胸で目を閉じ、思っていた。
逸人さんの想いが伝わって。
ほんのり身体が温かくなる――。
やっぱり、この人に触れられている方が心にも身体にもいいような。
……そんな感じに盛り上がっていたのだが。
「芽以、おばあさんが川を下っていったままで、翔平が心配してるぞ」
という聖の言葉に、
いや、あかずきんちゃんですよ……と思いながらも、芽以は実家のカーペットにひっくり返り、天井を見つめていた。
「……なんだこの抜け殻」
と容赦のない兄に、更に容赦のない母が、
「さっき、生理が始まったんですって」
と冷ややかに、そして、ズバッと言ってくる。
「まあ、芽以ちゃん。
そう気を落とさないで」
唯一、やさしい水澄が声をかけてくれた。
「ありがとう、ありがとう、水澄さん」
芽以は起き上がり、側に膝をついている水澄の手を熱く握ると、礼拝のように頭を下げる。
水澄は苦笑いしていたが。
気持ちはよくわかってくれているようだった。
同じような攻撃を何度も受けたからに違いない、と恨めしく、母と兄を見る。
いや、よく考えたら、お母さんも結婚したての頃があったんですよね?
このような攻撃を親や姑さんから受けて困ったのではないですか?
と思ったのだが、それはもう、彼女にとっては、遠い過去のことのようだった。
「まあ、気を落とすな。
まだ結婚したばかりじゃないか」
出張先から荷物を置きに帰っただけだったらしい聖が、芽以の髪をくしゃっとやって出ていった。
……ちょっとだけありがとう、兄。
「ほら、これ、持って帰りなさい」
と母がタッパーにおかずを詰めてくれたので、ありがとうございます、といただいて、芽以は実家を後にした。
芽以は焚き火の側にしゃがんでいた。
そこがあったかそうだったからだ。
「うわっ」
とまたスーツ姿のまま、焚き火の前にしゃがんていた圭太が、いつの間にか側に来ていた芽以に気づいて、声を上げる。
「どうした、芽以」
と問われ、何処から話したもんかな、と悩んだ芽以は沈黙してしまう。
「……火、あったかいね、圭太」
汗をかきながら、そう言うと、同じく汗をかきながら火にあたっていた圭太が、
「元気出せよ」
と言ってきた。
うーむ。
元気のない圭太に、元気出せよと言われてしまった。
心配かけてはいかんな、と思っていると、逸人がやってくるのが見えた。
ひっ、と身構える。
朝、仕事をしている途中で生理になって、言い出せず、実家に行ってくる、と出て行き、昼働いてるときも言い出せず。
だが、今にもベビー用品一式を特注しそうな富美には、早く報告しなければと、重い足を引きずり、此処まで来たのだが――。
芽以の横にしゃがんだ逸人は、
「今、お義母さんから聞いた」
と言う。
ほら、と逸人が銀の保冷バッグから、チーズの包みを出してきた。
美味しそうなチーズの塊を見せてくれながら、
「ラクレットチーズだ」
と言う。
「うちではまだ扱ってなかったんだが。
お前が、いつぞや、これが食べたいという妄想を語っていたから」
火であぶって、パンやポテトにかけて食べるというスイスの料理、ラクレットに使われるチーズだそうだ。
「業者に頼んでおいたんだが、さっき、うちの店の料理にはこれが合うだろうと持ってきてくれた」
うちの店の料理って……、パクチーにかける気ですか、とそれを見る。
でも、そうか。
あの電話、不動産屋さんじゃなくて、チーズの業者さんだったのか、と芽以は気づいた。
逸人はワイルドに、まだ、くべてなかった枯れ枝にチーズを刺すと、火であぶる。
芽以と圭太にそれぞれ、バケットをちぎってくれた。
よく溶けたチーズをたっぷりかけてくれる。
「あ、美味しいけど、臭いっ」
「臭いけど、美味いな」
そう芽以と圭太が言うと、
「ラクレットは匂いが強いからな。
日本人用に匂いを抑えたものもあるんだが。
パクチーにぶつけるなら、匂いの強いのがいいかと思ってな」
と逸人は言う。
そのまま、三人で、暑い真昼の日差しと焚き火にあぶられながら、チーズとバケットを食べていた。
「……逸人さん、ごめんなさい」
火を見つめ、芽以が謝ると、
「何故、謝る。
うちの親が勝手に早とちりしただけだろ。
……あの親、これからも何度も早とちるぞ、気にするな」
と逸人は言ってくる。
「逸人さん」
と芽以がその腕を半泣きでつかむと、
「待ったーっ」
と早くから焚き火にあぶられていたせいで、汗まみれになっている圭太が立ち上がった。
「そこまでにしとけよっ。
俺の目の前で、じゃあ、今日からまた頑張って作ろうとか言い出したら、今すぐお前を炎の中に突っ込むぞっ」
と逸人に向かって圭太が叫ぶと、立ち上がった逸人が無言で圭太の後ろ頭に手をやり、その炎の中に突っ込もうとした。
「待て待て待てーっ。
自分が焚いた火であぶり殺されるとか、莫迦みたいだろっ!」
うーん。
口で脅すだけの圭太。
無言で実行に移す逸人。
この戦い、最初から勝敗は決まっているな、と芽以は思う。
その後も二人は揉めていた。
というか、圭太が一方的にぎゃあぎゃあ言っていて、逸人が、たまに、どすっ、と心に突き刺さる一言を放っていただけだが。
みんなで火の始末をする頃には、圭太は少しすっきりした顔をしていた。
いろいろと吐き出したからだろう。
まあ、そうだな。
此処のところの圭太は、静かに頑張り過ぎてたもんな。
やっぱり、文句言ってわめいてた方が圭太らしいな、と帰る間際まで揉めている二人を見ながら、芽以は笑った。
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