冷たい舌

菱沼あゆ

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神降ろし

復活の儀式

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「春日さん、貴方なら、きっとわかってくれる。

 龍神は決して自分の欲望のために、生贄を要求していたわけじゃない。

 願いを叶えるために、生贄が必要だったの。

 生贄こそが――

 龍神に力を与える唯一の存在」

 春日さん、と呼びかけながら、まるで慈しむように淵を見た。

「貴方、以前言ってくださいましたね。
 本当に欲しいものがあるのなら戦うべきだ―― と。

 私、本当は、とっくの昔に戦っていたんです」

 透子は笑う。

 何かから解放されそうな、そんな気がしていた。

 それは、ずっと自分自身をも、たばかり続けてきた己れの感情からだろうか。

「『龍神の巫女』

 ずっとそう呼ばれてきましたが。

 私―― 本当は人に敬われるような人間でも、かしづかれるような人間でもないんです」

 透子はあの夕暮れにも似た不思議な夜空を見上げる。

「私は自らの神を殺し、その癖、いつまでも殊勝にその復活を待つ巫女のふりをし続けた。
 そんな女なんですよ、春日さん」

 風に靡く髪を心地よく感じる。

 すべてを告白し、妙にすっきりとした気持ちだった。

 相手が春日だったからかもしれない。

 春日なら、ちゃんとした知識の土壌を持って聞いてくれる。そう思うから。

「どうして……」
 そう呟く春日の声は震え、闇に儚く消えていった。

「だって、龍神は和尚を殺そうとしたんだもの。

 潔斎中に私に触れた。
 ただそれだけの罪で。

 だから、私は私の神を殺した」

 まるで、それが自明の理であるかのように透子は言い切る。

「透子さん……」

「私、最後に貴方に会えてよかったです。
 こうして、ちゃんと話を聞いて、理解してくれる人がいることで、私は救われた」

「待ってください。
 なら何故、今、その龍神に力を与えるようなことを――!」

 透子は、春日の額を軽く指先で突いた。

「と……!」

 自分の体に起こった変化を理解できないように、春日は言葉を止める。

 声を発する器官以外、指先一本、動かせないはずだ。

「私が力を与えたいのは、龍神ではなく。
 その力が宿るこの淵そのもの――

 ……ごめんなさい、春日さん。

 私の全てが終わって何が起こるか。
 貴方が見届けて――。

 そのために貴方と出会ったのかもしれないとすら思うから」

 透子は春日の顔を両手で掴み、その額に己れの額をぶつける。

 感謝の念をじかに届けたい気持ちの表れだった。

 眼を閉じ、祈るように言う。

「ありがとう。
 もう少し長く生きていられたら、きっと貴方とはいいお友達になれた」

「透子さん……っ」

 眼を開けたとき、間近に見えた春日の顔は泣きそうに見えた。

 ひとつ息を吐き、透子は歩き出す。

「透子さん!
 今からでも遅くありません。

 考え直してください。

 だいたい、そんなことして、もし、龍神が復活したらどうするんです!?

 今、淵を支えている和尚くんの負担は軽くなるかもしれませんが、それは、貴女を失ってまで、彼が手に入れたいものではないはずだっ。

 それに、龍神は再び彼を殺そうとするかもしれないじゃないですかっ。

 透子さんっ、待ってください。
 透子さんっ!」

 春日の声を背に聞きながら、透子は淵へと歩いていった。

 かつて和尚の背から見た白い星が、今も赤く霞む西の空に微かに光っているのが見えた。
『一番星だよ、和尚――』
 そう呼びかけたかった。

 あの背の熱を、何処までも、持っていけるはずのこの魂に焼き付けて――。

 ほとりのぎりぎりまでいくと、透子は草履と足袋を脱いだ。

 生暖かい夜気を吸い込む。

 そっと冷たい夜の淵に足を浸すと、ゆっくりと中央へと足を進める。

 紅い月が淵を照らしていた。

 不吉な予知として、ずっと自分を苦しめ続けて来た紅い月。

 此処で、この瞬間、命を絶つのだと、何度もその映像を見せられた。

 だけど……何故だろう。

 怖かったはずのその月が、今は懐かしく感じられる。

 最期の抵抗をしようとする紅い淵の波動を足許から感じる。

 透子は天に瞳を閉じた顔を向け、大きく息を吸った。

 腰まで水に浸かっているせいで、下からじわりと染みるように冷えてくる。

 目を開けると胸許から八坂の剣を取り出した。

 くるくると紐をほどき、長い間、封じられていたそれを外気にさらす。

 見事な龍の細工の鞘に収まった剣。

 透子は唾を飲み込み、一気に鞘から引き抜いた。

「きゃっ」

 抜いた途端、ぼたぼたと赤いものが落ちて、透子は思わず、手を放す。

「あ……」
 淵に落ちたそれは、どんどんと血の染みを描いていく。

 淵がさっきとは違う朱色に染まっていった。

 そんなっ。
 十年も経ってるのに、まだ血が固まってないなんて!

 だが、儀式には、これが必要だ。

 透子は震える手で、それを拾い上げた。

 まるで違う空間から湧き出るようにいつまでも滴り落ちる血が、小さな八坂の剣を赤く濡らし続ける。

 二人の罪の生々しさそのままに――。

『透子っ!』

 あのとき、気配を察したかのように現れた和尚が、龍の喉の下、逆さに生えている鱗に、月の光に白銀に輝く懐剣を突き立てた。

 『逆鱗』と呼ばれる龍の急所だ。

 ギアアアアアアッ。

 溢れる血が、透子の視界を真っ赤に染めた。

 あのときの和尚の姿を思い出し、透子の心は一瞬凪いだ。

 夜風が長い黒髪をしどけなくかきあげていく。

 今の透子には、加奈子との乱闘は見えていなかった。

 紅い月の光と、立ち上る紅い霧とで淵は真っ赤に染まっている。

 美しいと思った。

 静かだ。
 何もかも嘘みたいに――。

 八坂の剣を月に掲げる。

 紅い月に鈍く光る白銀の剣。

 龍神の血の滴るそれに、透子の手は震えた。

 怖い。

 本当は声をあげて泣き出してしまいたい。

 蹲って叫び出してしまいたい。

 だけど、そうすることで誰が救われる?

 いったい、誰が……っ。

「透子っ!?」

 和尚の声が聞こえた。

 透子の不審な行動に気づいた彼が振り返る。

 透子は驚いたようなその顔を目に焼きつけようとした。

「お前! なにをっ!」

 振り返った和尚の揺れる髪に、一瞬、あの黄昏の幻想が重なった。

 ねえ、和尚。

 貴方がくれたこの十年が、決して死ぬためのタイミングを計るだけのものではなかったこと。

 貴方にだけはわかって欲しい。

 透子の脳裏に、初夏の龍造寺の、石段の梢を彩る緑が鮮やかに蘇った。

 いつも和尚たちに会いに登った石段。
 それは、透子の楽しかった日々の象徴だった。

 大丈夫。
 私はちゃんと悔いなく生きたよ。

 ――ね? 和尚。

 透子は真っ直ぐ自分の腹めがけて、剣を振り下ろした。



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