冷たい舌

菱沼あゆ

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神降ろし

祀り

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 仮設舞台の手前、少し離れて左右に、二十メートルはある龍を模した矢倉が竹と松で組まれていた。

 日が落ちるのを待って、火が放たれる。

 歓声が上がった。

 燃え上がる木組みは、まるで天に昇ろうとする二匹の龍のようだった。

 片方の龍が口から炎のように、最期の煤を吐き、もう一方の腹をえぐるように倒れる。

 一際、観客の声が大きくなり、拍手が起こった。

 もう一方の龍も黒い埃のような火の飛沫を吐いて、倒れる。

 その炎から取られた火が、舞台を囲む篝火に灯された。

 最初は微かに。

 燃え落ちた龍の燻る音に消されるくらいに、筝の音が聞こえ始めた。

 やがて、間近で爆ぜる篝火の音よりもそれは大きくなる。

 ぼんやりと見える舞台に現れたのは、真っ白の装束の龍神だった。

 例年ないことに、前方が大きくざわめく。

 シャッターの切れる音とフラッシュの瞬き。

 遥か後ろで見ていた忠尚は、それが誰かを察した。

 此処の神楽は面はつけないのだが、この位置からでは顔など見えはしない。

 それでも、それは、兄、和尚でしかありえないと忠尚は感じた。

 この十年、透子一人が守ってきた舞台に入り込んできたもの。

 それは、かつて彼女とともに、神楽を彩っていた幼い龍神――。

 今、大人になった青龍が舞台に蘇っていた。

 人込みに埋もれるようにして、忠尚は息を詰めて舞台に魅入っていた。

 知らず握り込んでいた掌が汗ばむ。

 夏が始まろうとしてるこの季節は、夜とは言っても、むっとした熱気がある。

 ましてや、これだけの観衆、あれだけの炎の後だ。

 だが、その熱気が冷えていくのを忠尚は感じていた。

 和尚の手が、すっと横に動く。

 その衣の色だけではない。
 本当に涼やかな気のようなものが夜の帳に放たれた気がした。

 足音ひとつしない。

 神を呼ぶのに、神楽は足音を立てるはずだ。

 だが、和尚の動きはまるで無駄がなく、衣擦れの音さえしていないように見えた。

 神など呼ばない。
 神など必要ない。

 此処では俺が
 この俺が神だ――!

 忠尚にはそんな声が聞こえた。

 転調。

 曲が緩やかになり、舞台の端から手が覗いた。

 白い肌が此処からでも夜闇に浮き上がるように見える。

 小さな感嘆の声があちこちからあがる。

 透けるような千早の袖。普通のものより長い。
 それに引かれるように和尚が振り向く。

 紅い袴が見えた。
 透子が舞台に踏み出す。

 白と紅。
 微かに金の細い紋様が篝火にちらちらと反射する。

 だが、作りは至ってシンプルだ。それだけの衣なのに。

 歓声が漏れた。

 飾り気のない衣装の上を真っ黒な長い髪が滑る。

 透子は、けしてすべての髪を結い上げない。

 横の髪だけを上げ、斎王の飾りにも似た金と銀の髪上げ具を乗せていた。

 長い黒髪は、旋回する透子の動きに従うように、円を描き、舞い踊る。

 こいつは人間じゃねえ。

 長年側に居た忠尚でさえ、そう思った。

 現れただけで、空気が変わる。

 いつもとは違う。
 人を見下すような透子の視線。

 だが人はそれを不快に思わない。

 それが産むのは畏敬にも似た眼差しだけだ。

 今年の舞台はいつもとは違っていた。

 まるで、透子の中の普段は押さえられているなにかが、この舞台の上だけで解き放たれているかのようだった。

 本当に龍神など、この世に居るのか?

 忠尚は幾度となく子どもの頃から思っていたことが、自分の小さな嫉妬心から生じていただけではないのを知った。

 本当に龍神が必要なのか?

 この女が神ではないのか?

 他を圧する空気を持つ和尚でさえ、この巫女の前では赤子のようだ。

 平気で人をひれ伏させる透子のオーラが今日は濃度を増しているように見えた。

 それでも、和尚は果敢にも、この、龍神さえ従わせそうな巫女に挑み続ける。

 自分の矮小さを思い知らされた。

 和尚と同じ卵から産まれ、同じように育ったはずなのに、何故!

 俺ではこの舞台の袖にさえ上がれない。

 忠尚は自分の腕を強く握り締めた。

 滑るような透子の動き。
 こいつらは、神を呼ばない。

 いつから――

 そうだ。
 いつから透子は足音を立てなくなった?

 そう。
 十年前、透子がひとりで舞うようになったときから。

 最初の年は、まるで何かに怯えるようにひっそりと。

 やがて、それこそが当然であるように。

 そして、今、透子は自由を謳歌するように舞っている。

『少し、遅かったな――』
 そんな声が聞こえた。

 忠尚は辺りを見回す。

 遠い舞台の上からではなく、何処か自分の内から、或いは背にしている巨木から聞こえた気がした。

『少し出逢うのが遅かったな』
 口のきき方は違えど、それは透子の声そのものだった。

 とうとうと落ちる瀧の音。
 眩しい真昼の光が目を射った気がした。

『まあ、気が向いたら、生まれ変わってみたらどうだ?
 お前は、あの男と同じオーラを持っている』

「透子? 透子なのか?」
 忠尚は思わず辺りを見回した。

 だが、息もつかせぬ舞台に魅入る黒い群集が居るだけだった。

 なんだ、今のは――

 ぞくりと寒気がした。

 あれは――

 なんで今、俺にこんなものが見える?

 とてつもなく、厭な予感がした。

『お前、あの男より早く私と出逢ってみろ』

 早く? 早くは出逢えなかったよ。

 俺たちは一緒に産まれてしまった。
と、自分の中の、自分でも知らない己れが勝手に返事をする。

『早かったからとか、遅かったからとか、お前にとっては、それだけのことなのか?』

 彼女にそう問うたのは、自分だったのか、和尚だったのか。

 仕方ないだろう、と彼女は言った。

『私には、お前たちと同じような、人を想うという概念はない』

 それは、まさしく人を喰ったような口調だった。

 ああ、でも、仕方がない。

 あれは人ではなかったのだから。

 自分の中でもう一人の自分が、舞台に向かい、問うていた。

 龍神さえ下に見ていたお前が、何故、たかが巫女になって、神に仕える龍神に仕えている?

「お前は……一体、何を望んだんだ? 透子」

 とうとうと流れ落ちる瀧の音が、すぐそこで聞こえる気がした。

 ふと兄、和尚が目に入った。

 ああ、そうだ。
 こいつは、いつも戦っていた。

 透子が何者なのか、無意識のうちに感じていたのだろう。

 だから、いつも果敢に自分を律して修行してきたに違いない。

 ただ、透子と同じことをして、彼女に添いたいと思っているのではなかったのだ。

 人が神に敵うと思っているのか?

 莫迦な兄だ――。

 だけど、俺も莫迦だ。

 俺の方がよっぽど性質たちが悪いかもしれない。

 またしても、透子に振り向いてもらえなかったというのに。

 俯き、ひとり嗤いを洩らす。 

 舞台の上、和尚の指先は、透子の指先に、触れそうで触れていない。

 だが、今、二人は舞台の両端に居ても、確かに繋がっていた。

 むせ返るような人の熱気はあるのに、不思議に澄んだ空気が辺りを満たしている。

 二人の神楽から垣間見られるのは、深遠とした淵の底のような―― 水の空間。

 そのとき、すぐ側に知った気配を感じた。

 ちらりと視線を落とすと、低い位置に人ごみに埋もれるような頭が見えた。

 その顔を見た途端、冷えたように一気に現実に引き戻され、不快になる。

「なんか用か」
 押し殺した声で問うと、加奈子は縋るような目で訴えた。

「お願い、忠尚さん。
 もう我儘言わないわ。

 透子さんにも当たったりしない。
 だから……」

 透子と正反対の女。

 何処もかしこも透子と似ていない。

 だからよかった。

 こいつと居る間は、透子のことを思い出さなくてよかったから。

「悪いけど」
 舞台の上の二人を見つめたまま、忠尚は言い捨てた。

「俺、お前とはもういいわ。
 いや、もう……誰もいい」

 昨日、透子に触れた感覚が、手にも唇にも残っていた。

 もう二度と他の女に触れたいとは思わなかった。

 もう、誰もいらない。
 透子以外誰も――。

「忠尚さん……」
「悪いけど、あっち行っててくれないか」

 加奈子がそれで自分から去って行ったかどうかさえ興味がなかった。

 自分では決して手が届かない世界に居る透子にだけ、その視線は縛られていた。

 忠尚は気づかない。

 今、自分が見た幻を、もうすっかり忘れていることを。

 和尚なら耐えられたのだろうが。

 誕生するとき課せられた、前世の記憶に対する強力な封印。

 忠尚の力では、瞬間的にそれを破れても、持続させることは難しかった。

 彼の中では、透子は再び、ただの幼なじみの神凪透子に戻っていた。

 この違いが、透子から見たときの、和尚との決定的な違いとなってしまうのだろうが――。

「素っ気ないですね、忠尚さん」

 聞き覚えのある声に振り向くと、背にしていた大樹の側に、春日が立っていた。

 仕事を抜けてきたのか、相変わらず、仕立てのいいスーツを着ている。

「なんだ、お前か」
 そう呟きはしたが、加奈子よりはずっとマシだった。

「これって龍神の舞ですよね」

「そうだよ。
 和尚が龍神、透子が水で巫女――」

 忠尚は天を見上げた。

 やたら大きな満月が明るく光っている。

 それは、人の手で作り上げたチャチな照明など不要なほどに、天上から舞台を照らしていた。

「透子さんが一人でやってたときは、どうしてたんです?」

「居もしない龍神が居るかのように舞ってたんだよ。
 その方が本物っぽくて俺は好きだったけどね」

 半分はやっかみだが、半分は本当だった。

 透子ひとりで舞っていても、いつも側に、何かこの世ならぬものがいる気配がした。

 やはり、透子だと感心したものだ。

 だが、それは今も――。
 今も、感じる。

 忠尚はそのとき、久しぶりに意識を研ぎ澄ました。

 いつも、和尚には敵わないという思いから、閉じていた第三の目を開くように。

 忠尚も透子が時折、額に手をやるのに気づいていた。

 だがそれは、透子が人ならぬ力を持つからだと思っていた。

 こうしていると感じる。

 確かに、額だけが別の触覚を持つように敏感だった。

「いやな風ですね――」
 春日が呟いた。

 近くに立てられた幟がばたばたと優美な音楽を邪魔するように騒ぐ。

 こいつも感じている。

 これは……十年前と同じ風。

 あのとき、何があったのか、忠尚は知らない。

 だが、妙に空気がざわついて落ち着かなかったのは覚えている。

 やがて、一気にどす黒く変わった八坂の空に、空も大地も割れるのではないかと思うほどの、龍神の咆哮が響き渡った気がした。

 布団に潜っていた忠尚は、今にも此処が水没してしまうんじゃないかと思うような、妙な胸苦しさに襲われて、訳もなく、ぽろぽろと泣いていた。

 透子が託宣を受けなくなったのはあれからだ。

 忠尚は急激な淵の変化を不思議に思いながらも、それが何なのか確かめるすべを持たない子供だった。

 あのころの自分は、部活や遊びに夢中で、そういう世界からまるきり遠ざかっていたから。

 イニシエの因習に縛られるこの町で、自分は外の世界に踏み出したが、和尚も透子も逃れること叶わずに留まっていたように見えた。

 だが、今ならわかる。

 それは、彼らが自ら望んでしたことだったのだ。

 そして、それが和尚と自分との間に、決定的な差をもたらした。

 忠尚はつい己れの手を見つめていた。

 だが、何を後悔しても、もう遅い――。

 そんな気がしていた。

 横で春日が、まるで相哀れむように自分を見つめていた。



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