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予兆
春日の告白
しおりを挟む春日の車は、国道を離れた公園側の道に、歩道に乗り上げる形で止まっていた。
エンジンは止まっていたが、開けられた窓からの風が、夏の夕暮れにしては涼しかった。
透子さん、と春日に呼びかけられる。
「僕ね、子供の頃からずっと好きな人がいたんですよ。
もう、この人しかいないっていうくらい。
後先も、周りの誰のことも、彼女のことさえ、そのときの僕には見えてなかった」
きっとね、と春日は苦笑いした。
「僕があんなことさえしなければ、彼女はたとえ、僕のことを好きだったとしても、思い止まったと思います。賢い人だから」
春日は試すように透子を見ていた。
「誰だと思います……? 相手の女」
透子の胸には、もう確信があった。
この春日が、それほどまでに罪の意識に苛まされる相手。
だけど、それを自分の口から出すべきではないと思った。
春日はそんな透子に気づいたように笑う。
「そうですよ、僕が好きなのは、僕の、姉なんです」
軽蔑しますか? と春日は笑った。達観したような笑みだった。
いえ、と透子は即答する。
春日は椅子に深く腰をかけなおす。
彼の目は、目の前の小道を。
いや、透子には見えない何処か遠くを見ているように見えた。
「まあ、姉とは言ってもね。
向こうは子供のない親戚に引き取られていたんで、実際には従姉のようなものでした。
今の透子さんと和尚くんたちより、遠い関係だったかもしれないですね」
春日は、何かをいとおしむように語っていた。
「僕は彼女が自分の双子の姉だと知っていた。
周りが隠しててもね、覚えてたんですよ。
二歳くらいの記憶って結構あるでしょう?
でも、僕は知らない振りを続けていた。
そうすれば、彼女に恋をしても構わないはずだったから。
中学三年の夏、僕は彼女に告白した。
だけど――
彼女もやはり、僕と一緒に育ったこと、覚えていたんです」
春日はそこで笑った。
「よく考えたら、変ですよね、僕。
なんで貴女にこんな話してるんだろ」
いいえ、と透子は言った。
「……聞きたいです」
そして、聞いてあげたい。
それで、この人が楽になれるのなら。
そう本気で思っていた。
出会ってまだ間もないけれど、いつも何処か人に気を使うような空気を纏ったこの人が、誰かにそれを告白することで、少しでも楽になれるなら。
「彼女は僕に言いました。
『貴方と私は姉弟なのよ』と。
僕は答えた。
『それがどうした』って。
ねえ、透子さん。
それから、どうしたと思います?」
春日は透子を振り返り、儚げに笑う。
「姉も僕を愛してくれてたんです。
それだけわかれば充分だった。
世間の目なんか僕には関係なかった。
姉さえ居てくれれば、それでよかった。
親を気にする姉を説き伏せて、僕らは結ばれた。
十四でですよ。
笑っちゃうでしょう?」
透子は、きゅっ、と座席を握りしめた。
「大人から見れば、愛だ恋だって年でもないですよね。
でも、僕らは真剣だった」
結局、すぐに二人の関係は春日の母親に知れた。
母は他の親族には黙っていてくれたが、もちろん姉とは引き離された。
それでも、春日は彼女を諦めなかった。二人は再び出会って、でも……。
「姉はね、気が強くて毅然としてて、先まで見通す頭のいい女でね。
ある日、僕を呼びつけて、なんて言ったと思います?
『介弥、わたし、結婚することにしたから』って。
何処ぞで彼女に一目ぼれした資産家の男と見合いしたとは聞いていたんですけど。
僕はもちろん、断ってくれるものと思ってたんです。
ところが、その相手っていうのが、僕との関係をばらしても、それでもいいって言ってくれたらしくて、その態度に打たれたのかなんなのか知りませんけど、
『私だって、幸せになってみたいのよ』
とか言って、あっさりその男と結婚して海外に行ってしまったんです。
僕は、もう唖然としましたね」
ははは、と春日は笑ってみせたが、透子は笑わなかった。
笑えなかった――。
でも、透子さん、と彼は正面から透子を見つめる。
何もかも見据えて越えてきた穏やかなその瞳に、不思議に癒されるのを感じた。
「それでも僕は後悔してないんですよ。
どんな結果に終わっても、人としての禁忌を破っても、僕は彼女を愛してよかったと思ってる」
さっきまで造りもののようだった春日の笑みが、その瞬間、夕暮れの空気に溶けてしまいそうなものに変わった。
人が人を愛するということは、こんなにも周りの人間をも幸せにするものなのかと思った。
「恥じ入るつもりはないんですよ、誰にも。
訊かれたら、否定するつもりもない。
でも―― あなたの前に出るとちょっと」
「え?」
春日は、はにかむように笑って言った。
「あなたみたいに純粋な人の前だと、さすがにちょっと恥ずかしいですね」
特に、なんて言い訳しても、十四で手を出してしまったというのが、と春日は頭を掻く。
「いえ。そんなことない……そんなことないです」
それは透子の心からの言葉だった。
顔を上げ、春日を見据える。
「そこまで好きになれる人に出会えて、春日さんは幸せだと思います。
なにも……恥じ入る必要なんかありません。
そうして、堂々と言える貴方がうらやましい」
そう言い切る透子の言葉に、春日はちょっと笑って言った。
「でも、透子さんにもいるでしょう? 好きな人」
「え?」
「和尚くん――」
どくんっ、と額が疼いた。
その鼓動よりも早く。
「ち、違いますっ」
必死に手を振りながら、ドアに向かって後ずさる。
春日はそこで意地悪く笑った。
「だって透子さん、忠尚くんのときはそうでもないのに、和尚くんのことになったら、やたら過剰に反応するじゃないですか」
そっ、それはっ、と言い繕おうとしたとき、春日は言った。
「本当は最初に見たとき、思ったんです。
言ったでしょう?
わかるんです、僕」
ななな、なにがっ!? と透子は窓にへばりつく。
春日は子供に言い聞かせるように言う。
「僕がこんなこと言うのも、あれですけど。
自分に正直になった方がいいと思いますよ、透子さん。
でないと後悔する。
僕は……後悔はしてるけど、それは違う種類の後悔で、舞と恋したことに後悔はしてないんです。
そして、それは舞もそうだと思う。
ほんっと、貴方の前でこんな話するの厭なんですけど。
それを押して言ってるんだから、ちゃんと聞いてくださいよ?」
と春日は心底厭そうに言った。
「僕は貴女に後悔なんかして欲しくない。
和尚くんが他の人と結婚しちゃったりしたら、どうするんですか。
それでも、貴女は龍神様の巫女であり続けることに、誇りを持てますか?」
透子は膝の上の手を強く握りしめる。
或る種、同じ痛みを抱える春日の言葉は、真実を突いていて、透子の胸を締めつけた。
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