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弐 当たりクジ

此処は何処? 私は誰?

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 此処は何処?

 私は誰?

 なんてセリフを自分が言うことになるとは思ってもみなかった。

 ある朝、ベッドで目覚めた壱花は呆然とする。

 気がついたら、見知らぬホテルのベッドにいたからだ。

 しばらくして冷静になり、私は誰、はいらなかったな、と気づく。

 私は壱花。

 化け化け壱花……

 じゃなくて、風花壱花。

 今、あなたの後ろにいるの――

 って、名前を名乗ると、つけたくなるの、なんでだろうな。

 そんなことを混乱した頭で考えながら、昨日の記憶を思い出そうとしたとき、洗面所のドアが開いて、倫太郎が出てきた。

「……起きたのか」
と渋い顔で言ってくる。

 倫太郎はもうスーツを着ていた。

 早くから起きていたようだ。

「あのー、何故、私は此処に?

 ……そうだ、社長は今、出張中では?」

 昨日、倫太郎は出張で大阪に行き、店の方は壱花がひとりで、いや、いつもなんとなくいる高尾とふたりでやったはずだった。

 倫太郎が溜息まじりに言ってくる。

「わかったよ。
 お前はうちのベッドに転移するんじゃなくて、俺の寝てるところに転移するんだ」

 ひいっ、と壱花は固まった。

「じゃあ、社長が女性とおやすみのときにも飛んでしまうではないですかっ」

「大丈夫だ。
 残念ながら、今のところそういう予定はない。

 俺が最近一緒に寝てるのはお前だけだ」

 いや、そういう誤解を呼ぶようなセリフはやめてください……と思ったとき、倫太郎が腕時計を見ながら言ってきた。

「一番の問題は、今日、お前が休みをとってないと言うことだ」

 そう言われて、ハッとする。

 そ、そうだっ。
 此処は大阪っ!

 ベッドサイドの時計を見ると、六時だった。

「大丈夫だ。
 今すぐ新幹線で帰れ、まだ間に合う」

 送っていこう、とルームキーを手に出て行こうとする倫太郎に慌ててついていきながら、

「あっ、ありがとうございますっ。
 でもあの、鞄も靴もないんですが……」
と言うと、倫太郎が立ち止まったので、その背にぶつかる。

「……鞄はともかく、靴はどうした」

「いやあ、それが店で足許が冷えてきたので、靴脱いで椅子の上で正座してたら、あっちの時間での朝になっちゃって転移しちゃったみたいなんですよね~」

 鍵だけは、以前、鞄を持っていない状態で飛んでひどい目にあったことがあるので、いつもポケットに入れているのだが。

 倫太郎はストッキングのままの壱花の足許を見、
「……お姫様抱っこで、お前を運べということか?」
と言ってきた。

「まるで新婚さんじゃないか」
と言う倫太郎に、

「いや~、新婚さんでも、廊下でお姫様抱っこはないかな~と思いますね~」
と壱花は言った。

 っていうか、此処、よくある駅前のビジネスホテルですよね。

 ハネムーンが此処とかないと思うんですが……、と思っていると、倫太郎は少し考え、

「わかった」
と言う。

「タクシーまで抱っこしてってやろう。
 店を見つけて、靴買ってやる」

 本当に抱き抱えようとしてくる倫太郎に慌てて手を振りながら、壱花は後ずさる。

「だっ、大丈夫ですっ。
 あっ、使い捨てのスリッパ、ホテルにありますよね?

 あれ貸してくださいっ。
 あれで行きますっ」

 早口に言うと、急いでスーツに似合わぬ白いペラペラのスリッパを履いた。

「それにしても、社長、いつもビジネスホテルですが。
 もっといいとこに泊まられたらどうですか?」

「何処のホテルにお泊まりですか? なんて商談相手もそうそう訊いてはこないから、こんなところで見栄を張って無駄遣いする必要ないだろ。

 まあ、俺がこんなところまで来てたから、お前も飛んできてしまったわけだし。

 時間があれば、美味い朝食でもおごってやるんだ……が」

 ドアを開けた倫太郎の言葉が止まる。

 廊下にコートを着た冨樫がいて、冷ややかにこちらを見ていたからだ。

「冨樫さんと出張に行かれてたんでしたね……」

「そうだったな」

 ぼんやり呟くふたりに、冨樫が笑いもせずに言ってきた。

「隣の部屋が騒がしく、ドアを開く音が聞こえてきたので。
 社長がもうお出かけになるのかなと思い、支度して参りました」

 隣に音が筒抜けだったようだ。

 いやだなあ、安普請やすぶしん……と思いながら、壱花は言った。

「やっぱり、もうちょっといいところに泊まったらどうですか、社長」

「そうだな、今度からそうするよ……」

 もはや言ったところでどうしようもないことを言い合いながら、ふたりは富樫の冷たい視線に耐えつつ、寒い廊下に立っていた。


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