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第五章 この世のすべてを照らすもの
自己対峙
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「来るぞ!」
誰かが叫んだのを皮切りに、今まで動きを封じ込まれていた悪鬼の群れが、次々と襲いかかってきた。
まずは西宮がその脅威に立ち向かう。彼は太刀を振るい、悪鬼だけでなく、次々と湧き出るように現れる鬼火や死霊といった有象無象の異形たちを、片端から討ち祓っていった。その太刀さばきは洗練されており、見るからに戦い慣れしていた。
休学して魔を狩っていたというのは本当のようだ。
同じくして、忍が岩戸の前で舞い始めていた。いつものゆったりとしたテンポの神楽舞ではない。もっと激しい動作を取り入れた、特別な足運びの舞踊だ。
忍が地を踏みならすほど、幻術が浸透する領域は広がっていく。今そこで舞っているのは、忍であって忍でない。芸能の女神である天宇受売命が、ひたすら蠱惑的に舞っているのだ。魅入られた者は、たちまち舞手に掌握される。
これにより、西宮が倒さなければならない敵の数を、大幅に減らしていた。
そして、彼らの戦いぶりを彩る楽の音を奏でるのは、東宮兄弟だった。
皇彦が自らの魂を宿らせた箏を小気味良くつま弾かせ、春彦が伸びやかな音の龍笛を無心に吹く。
彼らの息は気持ちいいほどにぴったりで、そこには誰かが割り込む隙など一分もなかった。
すべてが、神に捧げるにふさわしい供物だった。
桃子も負けてはいられないと、広い校庭を駆け回り、果敢に大筆を振るった。
書く文字は祓詞だ。以前忍を大蛇から救ったときは、冒頭の、ほんの数文字を書くだけで精一杯だった。
しかし、この広い規模の校庭全体に守護結界を張るとなると、きっと全文を書ききるくらいでないと成立しないだろう。それに、たとえすべて書ききったとしても、成功するかどうかもわからない。――だとしても、失敗は許されなかった。
(掛けまくも、畏き伊邪那岐大神……)
文字を書きながら、何度も何度も祓詞を頭の中で反芻した。集中が途切れそうになったときは、ためらわずに口にも出して、呪文のように唱え続けた。
そうしているうちに、桃子は忘我の中で、肉体と魂が切り離されたような不思議な感覚に陥っていた。体は思い通りに動かせるが、それとは別に、自分自身をまるで他人のように見つめることができた。
書に向かっているとき、桃子は一種のトランス状態になるのだと雪江は話していた。それは、こういうことを指していたのか。今初めて自覚していた。
とても頭の中がすっきりしている。この万能感と高揚感は、どこからくるのか。
これまでずっと考えないようにしていたことも、今ならためらわずに目を向けられる。
自分のことが、今やっと、はっきりわかった気がした。
(私、三人のことが好きなんだ。誰か一人を選ぶ気なんて、本当は初めからさらさらなかった。だから妊娠することも嫌だった。誰か一人の子どもを孕めば、他の二人を手放さなくてはならないから。全部を手に入れたいと、思ってしまっていたんだわ)
あまりの身勝手さに、自分自身が一番驚いていた。
桃子は軽やかな足取りで地面を蹴りつけ、筆運びだけは異様に重く力強いものを繰り出し続けた。汗が弾け、鼓動は限界まで跳ね上がっている。それなのに、少しも疲れを感じない。
次々とこみ上げてくる想いを、ひたすら筆に乗せた。
(忍ちゃんには、献身的に守られていたかった。気位の高い彼の自己犠牲的な愛情を知ったとき、身悶えるほど嬉しかった。私のためにいろんなものを犠牲にしていたのは、それだけ私を手に入れたかったということだもの。
西宮くんには、いじめてほしかった。彼は私をどうやっていたぶり虐げるか、それを考えることで頭をいっぱいにさせていた。あんな愛され方、一度知ってしまったら、もう手放すことなんてできない。
春彦くんには、ひたすら溺愛してほしかった。彼の優しい声が好き。笑った顔が好き。本心ではもう一度私を抱きたくて仕方がなかったくせに、私を傷つけまいと、苦しむ姿を見るのもたまらなかった)
桃子は筆を走らせ振り回しながら、無意識に口角を上げた。
(私、かわいそうな自分が好きだった。受ける痛みさえ心地が良かった。だから、辛くてもそこから抜け出そうなんて思わなかったの。やっと自覚した、私の暗部。皇彦くんに嫌われるはずだわ。こんな女だって、彼は初めから見抜いていた)
ようやく最後の一文字まで筆運びを終えたとき、桃子の周囲から、大量の異形がかき消えていた。完成した桃子の強力な結界に弾かれたのだ。
岩屋を取り囲むように、桃子が走らせた筆跡が、次々と宙に浮かび上がっていた。
完成した祓詞は、そのまま岩屋全体を包み込んだ。
春彦と皇彦の合奏、それから忍の舞も、ほとんど同時に終わっていた。
そのとき、巨岩の一つが地鳴りのような轟音を響かせながら、ゆっくりと動き始めていた。
刹那、周囲は強烈な光に照らされ、真っ暗だった世界は、一瞬にしてまばゆいばかりの白に塗り替えられていた。
あれほど猛威を振るっていた異形の群れは、夜を失くし、あっけなく消し飛んでいた。
岩戸から発せられる光があまりにもまぶしすぎて、もはや何も見えない。桃子が目をこらそうとすると、誰かが「見てはいけない」と強く叫んだ。
周囲は異様なまでに張り詰めた空気に変わる。しかし、それと同じくらい、慈愛に満ちた温かさもあった。相反する性質を持った存在だ。桃子はいつもその存在と、日常の中で触れ合っていたことを思い出した。見上げれば必ず、生きとし生けるものに、生命の光を等しく照らしてくれるものだ。
姿は見えずとも、岩戸の奥には、たしかにこの国の最高神である太陽の女神がいた。
誰かが叫んだのを皮切りに、今まで動きを封じ込まれていた悪鬼の群れが、次々と襲いかかってきた。
まずは西宮がその脅威に立ち向かう。彼は太刀を振るい、悪鬼だけでなく、次々と湧き出るように現れる鬼火や死霊といった有象無象の異形たちを、片端から討ち祓っていった。その太刀さばきは洗練されており、見るからに戦い慣れしていた。
休学して魔を狩っていたというのは本当のようだ。
同じくして、忍が岩戸の前で舞い始めていた。いつものゆったりとしたテンポの神楽舞ではない。もっと激しい動作を取り入れた、特別な足運びの舞踊だ。
忍が地を踏みならすほど、幻術が浸透する領域は広がっていく。今そこで舞っているのは、忍であって忍でない。芸能の女神である天宇受売命が、ひたすら蠱惑的に舞っているのだ。魅入られた者は、たちまち舞手に掌握される。
これにより、西宮が倒さなければならない敵の数を、大幅に減らしていた。
そして、彼らの戦いぶりを彩る楽の音を奏でるのは、東宮兄弟だった。
皇彦が自らの魂を宿らせた箏を小気味良くつま弾かせ、春彦が伸びやかな音の龍笛を無心に吹く。
彼らの息は気持ちいいほどにぴったりで、そこには誰かが割り込む隙など一分もなかった。
すべてが、神に捧げるにふさわしい供物だった。
桃子も負けてはいられないと、広い校庭を駆け回り、果敢に大筆を振るった。
書く文字は祓詞だ。以前忍を大蛇から救ったときは、冒頭の、ほんの数文字を書くだけで精一杯だった。
しかし、この広い規模の校庭全体に守護結界を張るとなると、きっと全文を書ききるくらいでないと成立しないだろう。それに、たとえすべて書ききったとしても、成功するかどうかもわからない。――だとしても、失敗は許されなかった。
(掛けまくも、畏き伊邪那岐大神……)
文字を書きながら、何度も何度も祓詞を頭の中で反芻した。集中が途切れそうになったときは、ためらわずに口にも出して、呪文のように唱え続けた。
そうしているうちに、桃子は忘我の中で、肉体と魂が切り離されたような不思議な感覚に陥っていた。体は思い通りに動かせるが、それとは別に、自分自身をまるで他人のように見つめることができた。
書に向かっているとき、桃子は一種のトランス状態になるのだと雪江は話していた。それは、こういうことを指していたのか。今初めて自覚していた。
とても頭の中がすっきりしている。この万能感と高揚感は、どこからくるのか。
これまでずっと考えないようにしていたことも、今ならためらわずに目を向けられる。
自分のことが、今やっと、はっきりわかった気がした。
(私、三人のことが好きなんだ。誰か一人を選ぶ気なんて、本当は初めからさらさらなかった。だから妊娠することも嫌だった。誰か一人の子どもを孕めば、他の二人を手放さなくてはならないから。全部を手に入れたいと、思ってしまっていたんだわ)
あまりの身勝手さに、自分自身が一番驚いていた。
桃子は軽やかな足取りで地面を蹴りつけ、筆運びだけは異様に重く力強いものを繰り出し続けた。汗が弾け、鼓動は限界まで跳ね上がっている。それなのに、少しも疲れを感じない。
次々とこみ上げてくる想いを、ひたすら筆に乗せた。
(忍ちゃんには、献身的に守られていたかった。気位の高い彼の自己犠牲的な愛情を知ったとき、身悶えるほど嬉しかった。私のためにいろんなものを犠牲にしていたのは、それだけ私を手に入れたかったということだもの。
西宮くんには、いじめてほしかった。彼は私をどうやっていたぶり虐げるか、それを考えることで頭をいっぱいにさせていた。あんな愛され方、一度知ってしまったら、もう手放すことなんてできない。
春彦くんには、ひたすら溺愛してほしかった。彼の優しい声が好き。笑った顔が好き。本心ではもう一度私を抱きたくて仕方がなかったくせに、私を傷つけまいと、苦しむ姿を見るのもたまらなかった)
桃子は筆を走らせ振り回しながら、無意識に口角を上げた。
(私、かわいそうな自分が好きだった。受ける痛みさえ心地が良かった。だから、辛くてもそこから抜け出そうなんて思わなかったの。やっと自覚した、私の暗部。皇彦くんに嫌われるはずだわ。こんな女だって、彼は初めから見抜いていた)
ようやく最後の一文字まで筆運びを終えたとき、桃子の周囲から、大量の異形がかき消えていた。完成した桃子の強力な結界に弾かれたのだ。
岩屋を取り囲むように、桃子が走らせた筆跡が、次々と宙に浮かび上がっていた。
完成した祓詞は、そのまま岩屋全体を包み込んだ。
春彦と皇彦の合奏、それから忍の舞も、ほとんど同時に終わっていた。
そのとき、巨岩の一つが地鳴りのような轟音を響かせながら、ゆっくりと動き始めていた。
刹那、周囲は強烈な光に照らされ、真っ暗だった世界は、一瞬にしてまばゆいばかりの白に塗り替えられていた。
あれほど猛威を振るっていた異形の群れは、夜を失くし、あっけなく消し飛んでいた。
岩戸から発せられる光があまりにもまぶしすぎて、もはや何も見えない。桃子が目をこらそうとすると、誰かが「見てはいけない」と強く叫んだ。
周囲は異様なまでに張り詰めた空気に変わる。しかし、それと同じくらい、慈愛に満ちた温かさもあった。相反する性質を持った存在だ。桃子はいつもその存在と、日常の中で触れ合っていたことを思い出した。見上げれば必ず、生きとし生けるものに、生命の光を等しく照らしてくれるものだ。
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