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第五章 この世のすべてを照らすもの

終わらない夜

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 前儀はすべてつつがなく終了し、間もなく中条の大巫女による神降ろし――裁定が始まろうとしていた。まぎれもなく、選定の儀の本儀である。

 介添えに導かれて、高台に老齢の巫女が姿を現す。そのあとに続いて、春彦も高台に上がっていた。
 前回同様、大巫女が神降ろしの技を行う手はずだが、そのためには、現在憑坐である春彦から、一度荒神の御霊みたまを彼女へと移さなければならない。このように、選定の儀で御霊移しが行われることは非常に珍しく、ある意味では選定が行われるとき以上に、場の空気は張り詰めていた。

 大巫女と春彦が、高台の中央に並んで座す。その場で粛々と、二人ともに白布で目隠しが施された。場はこの上ない静寂に包まれる。
 大巫女が微動だにしないでいる中、しばらくして春彦が、白布を自らの手で解いていた。そして、介添えから何かを受け取る。彼の黒縁眼鏡だ。

 眼鏡をかけた春彦は、その顔をまっすぐに上げた。眼鏡の彼を見るのは久方ぶりだった。
 眼鏡が必要になるということは、すべてを見通す神の眼を手放したということ。つまり、荒神の御霊が彼のもとから離れたのだ。
 御霊移しは無事に成功した。誰もがそう思った。

 しかし――。
 ふと、辺りの日が陰り、桃子は思わず空を見上げた。つい先ほどまで晴天だったはずなのに、厚い雲が太陽を覆い隠している。校庭の木々が、ざわざわと風に煽られ始めていた。

 不穏を感じたときには、もう遅かった。
 高台の大巫女が倒れ伏すのを目にした。隣にいた春彦がとっさに介抱しようとするが、大巫女はいつの間にか、その姿を消してしまった。
 ――否、正確には、消えたのは大巫女ではない。春彦も、それから桃子も、いつの間にか、現世うつせから切り離されてしまっていた。

 体感としてわかるのは、ただ立っているだけなのに、どんどん深層へ呑み込まれているということ。
 あれほど大勢いたはずの参列者たちが、今ではもう少しも見えなくなっている。景色は校庭のままなのに、ここはまったく別の場所――異層なのだ。

 異変に気づいた春彦が、いち早く桃子のもとへと駆けつけた。

「桃子さん、ご無事ですか」
「だ、大丈夫……いったい何が起きてるの?」
「わかりません。でも、早くここから出なくては。このままどんどん引きずり込まれてしまえば、僕たちは帰れなくなってしまいます」
「ま、待って。今、結びを使うから」

 桃子は春彦の手を握り、彼を連れて現世へ帰ろうと試みた。しかし、深層に引きずり込もうとする力のほうが強く、深みにはまっていくばかりだった。焦ったが、どうにもならなかった。

 やがて底に着いたようで、落ちていく現象も止まった。辺りは真っ暗だ。まるで、夜の校庭にでもいるかのようだ。

「ここはどこなの。どうしよう、どうやって帰れば」
「桃子さん、落ち着いて。大丈夫、大丈夫ですから……」

 不安がる桃子を、春彦が懸命になだめる。しかし、この現状を打破する方法は彼にもわからなかった。桃子を励ます声も、わずかに上ずっている。

 桃子は、この場が以前訪れた、黄泉の国の近層だった場所と酷似している気がして、余計に恐怖を感じていた。
 二人して立ち尽くしていると、すぐ近くで人の声がした。

「そこにいるのは桃子か?」
「なに、南条だと」

 暗闇の中から現れたのは、忍と西宮だった。

「忍ちゃん、西宮くん、二人とも、どうしてこんなところに――」
「こっちが聞きたいくらいだ」

 二人の声はほとんど重なっていた。
 忍と西宮の存在を確認して、春彦は重い口調で言った。

「なぜ僕たちがここに引きずり込まれたかはわかりませんが、これだけははっきりしています。御霊移しは失敗に終わったんです。僕から荒神の魂が離れたあと、大巫女様に移ることはなかった。器を持たず、拠り所をなくした荒魂あらみたまがどうなるのかは考えたくありませんが、もしかすると、暴走してこうなってしまったのかも――」

 春彦の話の途中で、ふいに西宮が背後に身をひるがえし、手にしていた御神矢をためらいなく射かけた。桃子たちが驚いていると、すぐ近くで鈍い悲鳴がして、何かが倒れる音がした。明らかに人間の声ではない。

 闇の中に潜んでいたのは、人――のような形をした異形の妖怪。矢に急所を貫かれ、もうぴくりとも動かなくなっている。

 桃子は息を呑んだ。

「これは……」
「さして珍しくもない、ただの悪鬼あっきだ。最近は現世うつせでも見かける」
「西宮、お前……」

 忍が目を見張った。

「休学の理由はこれか。この町で魔狩りをしていたんだな」
「ああ」

 西宮が頷く。

「守護結界が弱まって、妙なものが入りやすくなったからな。そういう非常事態に真っ先に出ていかずに、武の西宮は名乗れねえよ」

 西宮はほんの少しだけ桃子を見て、それから悔しそうに告げた。

「……東宮がそばで南条を守っている以上、俺が遠くからできることといえば、そんなことくらいしかなかった」

 西宮の言葉に桃子は胸を打たれていた。彼は会わなかったあいだも、本当はずっと桃子を守っていたのだ。

 桃子は何か言いたかったが、そのとき、西宮が先ほど倒したのと同じような異形が、わらわらと現れていた。
 暗闇で見えづらいものの、徐々に増殖し、あっという間に大群となって周りを取り囲まれてしまった。

 西宮が表情をひくつかせる。

「さすがに、こんな数を一度に相手にしたことはないぞ。どこから湧いて――」

 悪鬼たちが、今にも桃子たち四人に襲いかかろうとする。しかし、どういうわけか、異形の動きは一斉に止まった。まるで時を止められでもしたかのように。
 四人があっけにとられていると、突如、彼らの前に白く光る蛇が現れていた。

「やはり、避けられなかったか」

 その姿と声に、桃子と春彦だけは覚えがあった。

皇彦きみひこ様!」

 春彦が迷わず駆け寄る。
 蛇を見て、西宮がけげんな顔をした。

「何だ、この蛇」
「黙れ西かわちの」

 驚いて、西宮が思わず後ずさる。皇彦は西宮に目もくれず、急くように告げた。

「わずかのあいだだが、鬼どもの動きを封じた。時間がないので手短に話す、よく聞け」

 春彦以外の者がまったく状況についていけない中で、白蛇はお構いなしにまくし立てた。

「ここは常夜とこよの層。永遠に続く夜の世界だ。須佐之男命すさのおのみことの乱暴な行いに耐えきれず、天照大御神あまてらすおおみかみが岩屋にこもってしまった、神代の異層。須佐之男命――荒神は、この異層から百鬼夜行を始めるつもりだ。百鬼夜行は、夜が明けない限りは永久に終わらない。ここで僕らが殺られれば、他の層にも侵食していくだろう。もちろん、現世にも。
いいかい、絶対にここで食い止めなくてはならないよ。百鬼夜行を終わらせるには、この夜を終わらせなくてはならない。あの岩戸から、太陽神である天照大御神を呼び出すんだ」

 皇彦が示した校庭の中央には、いつの間にか、見たこともないような巨岩が出現していた。岩全体が巨大な山のようにそびえ立っている。この中を暴くなど、到底不可能ではないかと思えた。
 戸というものがどこにも見当たらないので、この巨岩全体が岩戸ということなのか……。

 戸惑う春彦が皇彦に尋ねた。

「天照大御神を呼び出すなど、どのようにして……」
「僕のそうとお前の笛で、神使しんしを呼び出すように、太陽神をここに召喚ぶ」

 蛇はとんでもないことを言ってのけると、この場に箏を出現させる。すると、蛇は消え失せ、代わりに皇彦自身の姿が箏の前に顕現していた。
 四人ともが、その光景に息を呑む。もう一人の巫女姫が、初めて自らの意思で姿を現していた。

 注目を浴びてなお、東宮の長子は動じることなく、ゆったりと微笑んだ。

「そもそも、僕をここに呼びたがったのはお前じゃないか、春彦。だからこそ、前儀で箏を奏でて僕の気を引こうとしたんだろう。望みどおりに出てきてやったぞ。さあ、音を合わせよう。僕らが力を合わせてできないことなど、何もない」

 力強く言われて、春彦は眼鏡をはずして涙を拭った。

「この国の最高神すらも、僕らの使いとして使役すると言われるのですか。まったく、本当に無茶なことを思いつかれる。……でも、それでこそ皇彦様です」

 すると、今まで黙っていた忍が声を上げた。

「ならば、天宇受売命あめのうずめのみことの役は、私が務めさせてもらおう。岩戸から太陽神を呼び出すには、なくてはならない存在のはずだ」

 言うが早いか、忍は幻術で再び女性の姿になっていた。しかも、今までのように慎ましやかな厚着の巫女装束ではない。思わず目のやり場に困るほどの、大胆な薄布を身にまとっていた。

 天宇受売命は、神話では衣服がはだけるほど情熱的に舞い踊り、神々の宴会を沸かせ、岩戸にこもっていた天照大御神の気を惹きつけたという女神だ。岩戸の神話において、必要不可欠な存在だが、忍がそのような大胆なことを申し出るとは思わず、桃子は仰天していた。
 反対に、皇彦はたいそう嬉しそうだった。

「さすが北の君、話が早くて助かるよ。本当に至高の美しさだ。これなら太陽神も喜んで姿を現すだろう。――ほら、西の、ぼさっとしてないで、お前は僕らを守るんだよ」

 突然指図され、西宮は思わず憤慨していた。

「お、お前、さっきから偉そうに……」
「頼むよ、勇ましい西の君。貴殿の強さがどうしても必要なんだ」

 皇彦に見つめられると、西宮はぐっと言葉を詰まらせた。以前、比売神ひめがみに与えられた屈辱と形容しがたいほどの快楽は、今もなお彼の心身に深く刻み込まれていた。

「ほら、そろそろ封印が解けるよ。準備して」

 皇彦がそう言うと、何も指示をもらえなかった桃子が焦って尋ねた。

「あ、あの、私はどうすれば……」

 そのとき初めて、皇彦は桃子に目を向けていた。ほとんど無視されていながら、桃子はなんとか皇彦の意識を自分へと向けさせたのだ。彼の鋭い視線が痛かった。
 皇彦が静かに告げる。

「……何ができるかは、自分で考えるんだ」

 冷たく言い渡されたものの、たしかにそれは、桃子に向けられた、皇彦の心からの言葉だった。
 桃子はそれを受けて、意を決したように顔を上げる。

「忍ちゃん、幻術で筆を出してほしいの。北上神社で大蛇おろちを封じたときに使った、あの大筆を」
「わかった」

 忍が頷くと、すぐさま桃子の手元には箒筆ほうきふでが現れていた。それを両手で握りしめ、構えをとる。

(私はこの校庭に、守護結界を張る。異形のものを寄せ付けないように。みんなのことを守れるように)
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