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第三章 蔑むべきもの

死の入り口

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「二人で黄泉の国へ行きましょう」

 桃子は凍りついたように動けなくなっていた。
 そんな娘の頬を、雪江がいとおしげに撫でる。

憑坐よりましも、ここまでは追ってこられない。一度は黄泉の国に属した須佐之男命すさのおのみことですが、再び人の世に舞い戻るため、黄泉の国とは決別しています。私はどうしようもない母親だったけれど、なんのしがらみもない黄泉の国でなら、あなたを慈しんであげられる」

 初めて聞いた母の本音だった。桃子は、やっとの思いでその震える唇を開いた。

「お母様。なぜ、私は死ななくてはならないの……?」
「あなたが荒神を滅ぼす存在――最後の巫女姫だからよ。初めからうらにはそう出ていた。なんとかこの結果を覆そうと、あなたの神力しんりきを抑え続けてきたけれど、それももう限界。あなたは昨夜、巫女姫としての覚醒を遂げてしまった。
私は、あなたが書道をすることにずっと反対してきたわよね。それは、書にふけっているときのあなたは、唯一私の抑制を振り切って、自由に力を扱えていたからなのよ。書に向かっているとき、あなたは一種のトランス状態になるの。あなた自身は、少しも気づいていなかったけれど」

 何もかもが寝耳に水だった。ここにきて、母が嘘を吐いているとは思えなかったが、それでも何かの間違いであってほしかった。
 雪江が優しい声音で語る。

「選定の儀であなたが消えたあと、中の大巫女様にお呼びだてされて、内密に告げられたわ。大巫女様も私と同じ結果の占を出しておられた。目の前が真っ暗になったわ。そのとき同時に、憑坐よりましや巫女姫の普遍性が失われるおそれがあることも告げられた。私は、そこに一縷いちるの希望を見出したの。選定の儀で正式に選ばれた者であっても、今後巫女姫ではなくなる可能性が残っているなら、そこに懸けるしかないと。
あなたが妊娠できない体になれば憑坐も興味をなくすかもしれないと思って、避妊手術を受けさせようともした。すべてはあなたを守るため。この地に災厄を招く巫女姫になど、なってほしくなかったからよ。――けれども、あなたが憑坐の子を妊娠してしまえば、もう巫女姫が変わる可能性は絶たれてしまう。だから妊娠してしまう前に、あなたを殺して私も死ぬわ」

 言い切ると、雪江は一筋の涙をこぼした。
 初めて見た、母の泣き顔だった。

「桃子さん、最後までだめな母親で、ごめんね……」

 雪江は娘にすがりつくように泣いた。やせ細った肩を抱きながら、桃子は胸が締めつけられた。

 今まで、どうして母は自分に辛く当たるのだろうと、恨みにも似た気持ちを抱くこともあった。
 実の親を嫌いたくなどないのに、そうさせてはくれない母を、心の中で何度もなじった。そのうちに、「自分が母を嫌な人にした、自分に否があったのだ」と思考を停止させることで己を守っていた。

 みじめでかわいそうな私、誰も憐れんではくれない私。
 だからせめて、私だけは私のことを慰めてあげよう……。
 今思えば自己陶酔でしかなかった。母自身の事情など、考えもしなかった。雪江も同じように、もしくは桃子以上に苦しんでいたのかもしれない。
 そう思うと、たまらなくなった。

「お母様、本当のことを話してくださってありがとうございます。私は幸せ者です」

 雪江が目を見開く。
 桃子はしっかりと母を見据えていた。

「私は、お母様に嫌われているわけではなかったのですね。それどころか、いつだって案じてくださっていた。それがわかって今とても嬉しいのです。お母様が手を下してくださるなら、私は安心して死ねます。お母様から生まれた私だから、最後はあなたの中に帰りたい」
「桃子――」

 雪江は、こらえきれずに嗚咽をもらした。
 すっかり痩せこけ生気を失っていても、やはり美しい人だなぁと、桃子は母の涙を見つめて思った。

「桃子さん、大丈夫。少しも苦しむことなく楽にしてあげられるから。これからはずっと一緒よ」

 雪江がふわりと桃子を抱きしめる。金色に輝く温かな気が、周囲に満ちていた。
 母の鼓動が伝わり、まるで胎内に戻ったような心地がした。そっと目を閉じる。長年切望していた母の愛に包まれて、桃子は至上の幸福を感じていた。

 遠くで美しい旋律が流れている。
 どこか耳に懐かしい音色は、まるで自分たち母娘のための鎮魂曲のようであり、桃子はとても穏やかな気持ちで耳を傾けていた。

 しかし、雪江にはその音色が不快だったらしく、結びの力の集中が一瞬だけ途切れてしまう。

 まるで夢から醒まされる思いで桃子が見上げると、そこには鬼の形相で彼方を睨みつける母がいたので、驚いて完全に我に返っていた。

「お、お母様……?」

 そのとき、突然目の前の景色が真っ黒に染まった。
 ごうごうと荒れ狂う嵐のように、黒く渦巻く天が、ものすごい勢いで急降下してくる。
 降りてきた黒い巨大な塊は、よく見ると、ひとつひとつが別の物体としてうごめいていた。大量の黒い鳥――カラスだ。

 見たこともない数のカラスの大群が、押し寄せてくる。
 ごうごうと聞こえていたのは、カラスたちが一斉に羽ばたく羽音だった。

 カラスは明確に、雪江だけを狙って襲いかかってくる。
 雪江はそれらを、神力で容赦なく振り落としていた。

「獣風情が、どこまでも目障りな」

 雪江は尋常でないほどの怒りをこめて、カラスの群れを睨み据えた。
 しかし、彼女の怒りの矛先は、カラスなどではない。
 鳥の大群の中からふいに現れた、一人の少年に対して向けられたものだった。

 眼鏡をかけた少年――春彦が、笛を手に携えている。
 桃子はその姿を目の当たりにして、これ以上ないほど驚愕した。
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