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第一章 神に選ばれしもの
界結びの舞
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気がつくと、桃子は南根神社の鳥居の前に立っていた。
眼前に続くのは、幼いころから登り慣れた長い長い階段。そして、神社を取り囲む鎮守の森だった。
「――え……?」
桃子は今一度、冷静に記憶をたどることにした。
選定の儀から、無我夢中で逃げ出してきたはずだ。たしかになりふり構わず走ったが、それだけでこんなところにたどり着くなどありえない。何がどうなっているのか。
(やけに、静かだわ……)
風音や鳥・虫の鳴き声などもまったくしない、不気味な静寂。先ほどまで晴れていたはずの空も、厚い雲に覆われていた。
桃子は不安になって、急いで階段を駆け上がった。いつもなら通るのを避けがちな参道を、堂々と走り抜ける。それでも、誰ともすれ違うことがない。
授与所、社務所、拝殿、本殿、神楽殿、道場――。とにかく手あたり次第捜し回ったが、誰一人として見つけられなかった。神社がまったくの無人になるなど、普段では考えられないことなのだ。
桃子は思いきって自宅も覗いてみたが、やはり無人。顔を合わせればきつく当たってくるばかりの母ですら、今は恋しかった。
台所には、桃子が昨日食べ損ねた朝食が、なぜかそのまま残されていた。まるで時が止まっているかのように、不自然なくらい綺麗な状態のままだ。
これを見て、桃子は確信した。ここは自分の家ではない、本当の南根神社ではない、と。
もしも、目の前の料理を食べたらどうなるのか。ふと、神話の一場面を思い起こしていた。最初の女神である伊邪那美は、黄泉の国で黄泉の食べ物を口にしたから、生前の世界へ帰れなくなった。これを食べたら、自分も帰れなくなるのだろうか。
急に怖くなって、二階の自室に逃げ込んだ。着替えもせずに、ベッドで布団をかぶって震える。こんなことをすると確実に母に叱られるが、いっそ叱りにきてほしいとすら思えた。
ふと、制服のプリーツスカートのポケットに、何か入っていることに気づく。取り出すと、それは春彦に託された黒縁眼鏡だった。
(ポケットに入れた覚えなんてないのに)
壊さなくてよかったと安堵しながら、手のひらで大切に包み込む。今この眼鏡が手元にあるということだけが救いで、桃子はここで初めて声をあげて泣いた。
無性に春彦に会いたかった。儀式のとき、彼から逃げてしまったことを心底後悔した。
ひとしきり泣いたところで、桃子は思い立って一階へと向かった。そして、タンスにしまい込んでいた舞装束を引っ張り出す。
忍が着ていたような豪奢なものではなく、ほとんど練習着として使っていた、緋袴と白衣、それに純白無地の薄い千早だ。どうやら、現実世界のものと同じに扱ってよさそうだ。
挿頭などは何もつけず、髪もそのまま。それでも、舞装束に袖を通すだけで背筋が伸びる。長年染みついた習慣がそうさせた。
神力を何も持たずに生まれて、いくら舞の稽古をしても霊験が示されることはなく、ついには挫折した。しかし、心につっかえる何かはずっと残っていた。
(このおかしな場所から出るには、南条の技を――界結びの力を引き起こすしかない。私にできるかどうかわからないけど……)
いくら南根神社と似ていても、ここはまったく別の異質な空間だ。とても生ある者が生きていける場所ではない。
元の世界へ帰る道を作る――それがつまり、〝界を結ぶ〟ということだった。
界結び、すなわち「結界」とは、本来〈魔障を排した聖域〉という意味だが、別の界――いわゆる次元や界層を繋げることもまた、〝界を結ぶ〟といった。それが、代々南条家の、特に女子に濃く受け継がれてきた神力だ。神楽舞を舞うことで、桃子はそれを成そうと考えた。
最近ではめったに足を踏み入れることもなくなった本殿に上がると、そこは桃子の記憶とまったく相違ないままだった。
本殿内部は、手前から外陣、内陣と明確に仕切られており、外陣は祈祷などを受ける際に一般人も入れる場所だが、内陣以降は神職以外は入ることのできない神聖な場所だ。
桃子は幼い頃、当時まだおてんば盛りの忍に先導されて、この内陣以降に忍びこんだことがあった。内陣は外陣以上に広々としていて、意味もなく走り回った。子どもながらにいけないことだとわかっていても、好奇心には勝てなかった。
当時怖いもの知らずだった忍は、内陣に祀られた神床を暴きまでしたが、そこには子どもが興味をそそられるようなものは何もなく、期待していた怪奇現象が起こるでもなく、二人してがっかりしたことを覚えている。
桃子は、意を決してその内陣まで踏み入っていた。
(ここが本当の南根神社ではなくても、やっぱり、舞うとすればこの場所以外にはない気がする)
直感でしかないが、そう思った。
本来巫女舞が奉納されるのは、神楽殿であることが多いが、いろいろな場所を当たってみた結果、この本殿内陣が、一番居心地がいい。この場所だけは、かなり本物の本殿に近しい空気を感じた。
様々な祭具や神具が置かれた祭壇の前に正座すると、神前に向かって深々とお辞儀をした。似て非なる場所でも、礼を欠くことはできない。
ゆっくりと上体を起こし、丁寧な所作で立ち上がる。そうして、神前に配された八足という白木机の上に安置されている神楽鈴を手にした。持ち手の端には、長い五色布が付属している。
まずは呼吸を整えた。舞い始めるまでには、しばしの時間が必要だった。猛練習していたころですら、技量に自信が持てたためしはない。
(余計なことに気を回さなくていい。今は雑念を捨てて、たどり着きたいところ、会いたい人を思い浮かべるだけでいいのよ)
桃子は無意識に懐を撫でた。そこには、布にくるんで大切にしまった春彦の眼鏡が入っていた。それを拠り所とすることで、いつの間にか緊張はほぐれていた。
右手には神楽鈴を、左手には垂れた五色布を。
気づいたときには、右手首を素早く捻る動作で、神楽鈴を一振りしていた。耳に心地よい金属音が本殿に響くと、思うよりすんなり最初の足拍子を踏み出せていた。実感として、体に余計な力が入らずにすんでいる。自分でも意外なほど、穏やかな気持ちで舞うことができていた。
協奏する雅楽演奏はここにはなかったが、頭の中ではたしかな音楽が鳴り響いていた。美しい笛の音から始まったその音曲は、まるで桃子の舞を助けるように、その拍子を導いた。そして、やがては桃子のほうから楽の音に耳を傾けていた。
その瞬間、音は内側からではなく、はっきりと外側から聴こえてくるようになった。笛の音は次第に大きくなっていく。
もうすぐそばまで近づいていると気づいて、桃子は舞うのをやめて振り返った。そのとき垂れた五色布を思いきり踏んづけてしまい、引っ張られるようにして神楽鈴を取り落としてしまった。騒々しい音が床に散乱する。
しかし、そんなことも気に留まらないほど、桃子は目の前の光景に心を奪われていた。
冠をかぶり、黒の袍と袴を着た小柄な少年が、無心に龍笛を吹いていた。
トレードマークだった眼鏡はかけておらず、寝ぐせのついていた黒髪も、嘘のようにつやめく直毛に整えられている。背筋も気持ちいいほどぴんと伸びていた。これだけたたずまいと装いが激変すると、以前は見抜きづらかった彼の整った容貌も、いっそう清涼なものとして引き立っていた。
どうしてこのように見目麗しい少年が、冴えない男子と見なされていたのか、今ではもう理解しかねる。
桃子は、やっとの思いで声を振り絞った。
「春彦くん……」
まず真っ先に思ったことは、「笛など吹いたことは一度もないと言っていたくせに」というものだった。
眼前に続くのは、幼いころから登り慣れた長い長い階段。そして、神社を取り囲む鎮守の森だった。
「――え……?」
桃子は今一度、冷静に記憶をたどることにした。
選定の儀から、無我夢中で逃げ出してきたはずだ。たしかになりふり構わず走ったが、それだけでこんなところにたどり着くなどありえない。何がどうなっているのか。
(やけに、静かだわ……)
風音や鳥・虫の鳴き声などもまったくしない、不気味な静寂。先ほどまで晴れていたはずの空も、厚い雲に覆われていた。
桃子は不安になって、急いで階段を駆け上がった。いつもなら通るのを避けがちな参道を、堂々と走り抜ける。それでも、誰ともすれ違うことがない。
授与所、社務所、拝殿、本殿、神楽殿、道場――。とにかく手あたり次第捜し回ったが、誰一人として見つけられなかった。神社がまったくの無人になるなど、普段では考えられないことなのだ。
桃子は思いきって自宅も覗いてみたが、やはり無人。顔を合わせればきつく当たってくるばかりの母ですら、今は恋しかった。
台所には、桃子が昨日食べ損ねた朝食が、なぜかそのまま残されていた。まるで時が止まっているかのように、不自然なくらい綺麗な状態のままだ。
これを見て、桃子は確信した。ここは自分の家ではない、本当の南根神社ではない、と。
もしも、目の前の料理を食べたらどうなるのか。ふと、神話の一場面を思い起こしていた。最初の女神である伊邪那美は、黄泉の国で黄泉の食べ物を口にしたから、生前の世界へ帰れなくなった。これを食べたら、自分も帰れなくなるのだろうか。
急に怖くなって、二階の自室に逃げ込んだ。着替えもせずに、ベッドで布団をかぶって震える。こんなことをすると確実に母に叱られるが、いっそ叱りにきてほしいとすら思えた。
ふと、制服のプリーツスカートのポケットに、何か入っていることに気づく。取り出すと、それは春彦に託された黒縁眼鏡だった。
(ポケットに入れた覚えなんてないのに)
壊さなくてよかったと安堵しながら、手のひらで大切に包み込む。今この眼鏡が手元にあるということだけが救いで、桃子はここで初めて声をあげて泣いた。
無性に春彦に会いたかった。儀式のとき、彼から逃げてしまったことを心底後悔した。
ひとしきり泣いたところで、桃子は思い立って一階へと向かった。そして、タンスにしまい込んでいた舞装束を引っ張り出す。
忍が着ていたような豪奢なものではなく、ほとんど練習着として使っていた、緋袴と白衣、それに純白無地の薄い千早だ。どうやら、現実世界のものと同じに扱ってよさそうだ。
挿頭などは何もつけず、髪もそのまま。それでも、舞装束に袖を通すだけで背筋が伸びる。長年染みついた習慣がそうさせた。
神力を何も持たずに生まれて、いくら舞の稽古をしても霊験が示されることはなく、ついには挫折した。しかし、心につっかえる何かはずっと残っていた。
(このおかしな場所から出るには、南条の技を――界結びの力を引き起こすしかない。私にできるかどうかわからないけど……)
いくら南根神社と似ていても、ここはまったく別の異質な空間だ。とても生ある者が生きていける場所ではない。
元の世界へ帰る道を作る――それがつまり、〝界を結ぶ〟ということだった。
界結び、すなわち「結界」とは、本来〈魔障を排した聖域〉という意味だが、別の界――いわゆる次元や界層を繋げることもまた、〝界を結ぶ〟といった。それが、代々南条家の、特に女子に濃く受け継がれてきた神力だ。神楽舞を舞うことで、桃子はそれを成そうと考えた。
最近ではめったに足を踏み入れることもなくなった本殿に上がると、そこは桃子の記憶とまったく相違ないままだった。
本殿内部は、手前から外陣、内陣と明確に仕切られており、外陣は祈祷などを受ける際に一般人も入れる場所だが、内陣以降は神職以外は入ることのできない神聖な場所だ。
桃子は幼い頃、当時まだおてんば盛りの忍に先導されて、この内陣以降に忍びこんだことがあった。内陣は外陣以上に広々としていて、意味もなく走り回った。子どもながらにいけないことだとわかっていても、好奇心には勝てなかった。
当時怖いもの知らずだった忍は、内陣に祀られた神床を暴きまでしたが、そこには子どもが興味をそそられるようなものは何もなく、期待していた怪奇現象が起こるでもなく、二人してがっかりしたことを覚えている。
桃子は、意を決してその内陣まで踏み入っていた。
(ここが本当の南根神社ではなくても、やっぱり、舞うとすればこの場所以外にはない気がする)
直感でしかないが、そう思った。
本来巫女舞が奉納されるのは、神楽殿であることが多いが、いろいろな場所を当たってみた結果、この本殿内陣が、一番居心地がいい。この場所だけは、かなり本物の本殿に近しい空気を感じた。
様々な祭具や神具が置かれた祭壇の前に正座すると、神前に向かって深々とお辞儀をした。似て非なる場所でも、礼を欠くことはできない。
ゆっくりと上体を起こし、丁寧な所作で立ち上がる。そうして、神前に配された八足という白木机の上に安置されている神楽鈴を手にした。持ち手の端には、長い五色布が付属している。
まずは呼吸を整えた。舞い始めるまでには、しばしの時間が必要だった。猛練習していたころですら、技量に自信が持てたためしはない。
(余計なことに気を回さなくていい。今は雑念を捨てて、たどり着きたいところ、会いたい人を思い浮かべるだけでいいのよ)
桃子は無意識に懐を撫でた。そこには、布にくるんで大切にしまった春彦の眼鏡が入っていた。それを拠り所とすることで、いつの間にか緊張はほぐれていた。
右手には神楽鈴を、左手には垂れた五色布を。
気づいたときには、右手首を素早く捻る動作で、神楽鈴を一振りしていた。耳に心地よい金属音が本殿に響くと、思うよりすんなり最初の足拍子を踏み出せていた。実感として、体に余計な力が入らずにすんでいる。自分でも意外なほど、穏やかな気持ちで舞うことができていた。
協奏する雅楽演奏はここにはなかったが、頭の中ではたしかな音楽が鳴り響いていた。美しい笛の音から始まったその音曲は、まるで桃子の舞を助けるように、その拍子を導いた。そして、やがては桃子のほうから楽の音に耳を傾けていた。
その瞬間、音は内側からではなく、はっきりと外側から聴こえてくるようになった。笛の音は次第に大きくなっていく。
もうすぐそばまで近づいていると気づいて、桃子は舞うのをやめて振り返った。そのとき垂れた五色布を思いきり踏んづけてしまい、引っ張られるようにして神楽鈴を取り落としてしまった。騒々しい音が床に散乱する。
しかし、そんなことも気に留まらないほど、桃子は目の前の光景に心を奪われていた。
冠をかぶり、黒の袍と袴を着た小柄な少年が、無心に龍笛を吹いていた。
トレードマークだった眼鏡はかけておらず、寝ぐせのついていた黒髪も、嘘のようにつやめく直毛に整えられている。背筋も気持ちいいほどぴんと伸びていた。これだけたたずまいと装いが激変すると、以前は見抜きづらかった彼の整った容貌も、いっそう清涼なものとして引き立っていた。
どうしてこのように見目麗しい少年が、冴えない男子と見なされていたのか、今ではもう理解しかねる。
桃子は、やっとの思いで声を振り絞った。
「春彦くん……」
まず真っ先に思ったことは、「笛など吹いたことは一度もないと言っていたくせに」というものだった。
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