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夏の章 錯綜ロマンシング
得たもの、失ったもの
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テントのそばまで戻ってきたところで、ソルエルはあらためてルビに礼を告げた。
「ありがとう。おかげですっきりしたよ。ルビも早く戻って休んで。明日が辛くならないうちに」
「あ、ああ……」
やや拍子抜けしているルビだったが、同じくらいほっとしているようにも見えた。
彼はやや思うところがあったのか、ソルエルにこんな質問を投げかけていた。
「ソルエル、その……またあいつともするのか? さっきの契約」
「……さあ、どうかな。私にもよくわからないよ」
実際、本当に自分でもどうなるのかわからなかったので、正直にそう答えていた。
「そうか……そうだよな……。悪い、変なこと聞いた。じゃあ、俺もそろそろ寝るわ」
「うん、お休みなさい」
驚くほどあっさりとその場はおさまった。つい先ほど、あんな濃厚な口付けを交わした二人だというのが、嘘だったかのように。
ふいに、ソルエルの手から小さな火花が飛び散って、彼女の足元の草が燃え始めた。
「……もう、危ないな」
珍しく少し苛立つような口調で、ソルエルは独りごちた。足元で揺らぐ、今にも消え入りそうな小さな炎を見つめて思ったことは……。
(トゥーリでなくても魔法が出せた)
そんなふうに考えると、なぜか無性に悲しくなった。
自分の心の内がわからない。ルビとのキスは正直戸惑ったが、嫌悪感はなかった。
それどころか、トゥーリのときに味わった感覚に加えて、さらに肌と肌が直接触れ合うことの意味を知ってしまい、そのことのほうに焦りを覚えていた。本物のキスの感触が、あんなに心と身体を昂らせるものだとは思わなかったのだ。
しかし、友人のルビにそんなことを思うのは罪のようで、だからこそソルエルは、ルビの前では極力平静に振る舞った。
トゥーリは本音を大事にしろと言ったが、今回のキスで、ソルエルは掴みかけていたものがまたわからなくなってしまっていた。
自分はトゥーリのことが、異性として好きなのかもしれないと思っていた。だからトゥーリとのキスであんなにも幸せを感じ、その気持ちが魔法発動に至らせたのだと信じていた。
しかし、ルビとのキスでも魔力を解放することができるのなら、トゥーリに感じたあの気持ちも、もしかしたらただの勘違いだったのかもしれない。何もかもが初めてのことで、舞い上がって雰囲気に流されてしまっただけなのかも、と。
身体の変化に気持ちが追い付かず、頭の中がぐちゃぐちゃだ。ただ一つわかることと言えば、今自分はなぜかひどく傷ついて、悲しい気持ちになっているということだった。どうしてこんな気持ちになるのか、まるでわからない。
「火を放置するのは危ないよ」
目の前でくすぶっていた火が突然消え失せ、焦げた地面には霜が降りていた。季節外れの現象に、ソルエルは言葉もなく宙を見上げる。
空からふわりと舞い降りたのは、魔灯照明具を掲げた銀髪の美しい青年。
「トゥーリ……」
「どうだった? 彼とのキスは。魔力が抜けているところを見ると、まあまあ首尾よくいったようだね」
開口一番にそんなことを告げられて、ソルエルの中で何かが音を立てて崩れていった。言葉で言い表せない気持ちは、一つの現象となって身体に現れていた。
「泣いてるの? ソルエル」
「……泣いてないよ」
「嘘、泣いてるじゃないか」
「トゥーリには関係のないことだもの」
はっきりとそう口にしたソルエルを、トゥーリはさも不思議そうに見つめていた。
「彼とのキスが嫌だった?」
「違う」
「僕がいなくて寂しかったの?」
「違うよ」
「なら、相手が僕じゃなくても炎が出せたことに戸惑ってるんだ。そうでしょう?」
「もう、放っておいてよ」
ソルエルがぴしゃりと言い放つ。
「お願い、もう放っておいて。今頭の中がぐちゃぐちゃなの。自分でも自分のことがよくわからない。きっとまともな話なんてできないから」
「僕のしたことが、気に入らなかった?」
トゥーリが穏やかな口調で尋ねた。
「彼が僕たちのことでとやかく文句を言ってくるなら、いっそのこと彼も誘ってしまえばいいと思ったんだ。きっと彼は仲間に入れてもらえないことが嫌だったんだと思うし。
それに、僕と一対一で契約を交わすよりも、ソルエルの相手は複数いるほうが、魔力の波長パターンもいろいろ経験できて、魔力放出のやり方としても多様性を持つことに繋がるから」
一般的に、少女たちがキスに思い描くような空想的な甘言などは一切排除した、合理性の塊のような理屈を突き付けられた。
それでもやはり、ソルエルはトゥーリの言い分にすんなりと納得することはできなかった。
「だ、だからってあんな突飛なやり方……。少しは相談してくれても良かったんじゃないの?」
「相談したら、君は絶対僕に反対したに決まってるよ。君は自己犠牲の塊のような女の子だからね。自分の意にそぐわないことを健気に耐え忍ぶことはできても、関係ない他人を巻き添えにすることだけは絶対に嫌がるだろうと思った。
――まあそれでも、僕のやったことは君たちに発破をかけたに過ぎないんだけど。あの手紙に強制力なんかないもの。僕の案に便乗して実行に移したのは、あくまで君たち自身だ。君はなりふり構っていられないと言っていたね。だから、僕もその必死さに応えたまでだ」
それだけ言われてしまうと、ソルエルにはもう何も言い返すことはできなかった。ただ、理由のわからない涙が溢れてくるだけ。
「……僕のことが嫌いになった?」
少しだけ寂しそうに言われて、ソルエルは考え込む。正直なところ、よくわからない。トゥーリのことを嫌いになるとしても、理由も定かではない。裏切られたというのもまた違う話だ。彼は最初からソルエルのものではないのだから。
ただ、寂しいという気持ちが一番近いのかもしれない。トゥーリとキスをしたときの喜びは、トゥーリ自身も共有してくれているものだとばかり思っていた。けれども一連の彼の行動により、トゥーリはソルエルとのキスも、魔力放出のための手段としか捉えていなかったのだということが、はっきり突き付けられてしまった。
偉そうにルビにあんなことを言っておいて、本当はソルエルが一番、魔法契約だと割り切ることができないでいたのだ。
ソルエルが言葉もなく涙しているのを見て、さすがのトゥーリも罪悪感を植え付けられたようだった。
「ごめんよ、君がこんなに傷付くなんて思わなかったんだ」
「いいの。トゥーリは私のために動いてくれたんでしょう。ルビだってそう。私が勝手に訳もわからず泣いてるだけだから」
「嫌われついでに、もっと嫌われることを言ってしまおうかな。泣く、つまり感情を露にする行為もね、魔力を放出する練習に繋がるよ。君を泣かせた僕がこんなことを言うのはひどく無神経だけど、君が僕の前で涙を見せてくれるたびに、僕は嬉しいと思っている。
気を許していない相手には、君はきっと涙なんて見せないだろうからね。君はそういう女の子だ。君の気持ちをないがしろにしてしまってごめん。今後は気をつけるよ」
なかなかにとんでもないことを言われてあっけにとられてしまい、涙もいつの間にか引っ込んでいた。こんなことを言われると、泣いているのがなんだか馬鹿らしくなってきたのだ。
しかも素直に謝ってくるのがまた虫が良すぎるのだが、不思議と怒りも湧いてこないのは、彼に一切の悪気がなさそうに見えるからなのか。とんだ問題児だとあらためて思った。
「私のほうこそ、あなたを一方的に悪者にしてごめんなさい。きっと、トゥーリは私のことを全部わかってくれていると勝手に思い込んでしまっていたから、何も言わなくても伝わっているものだと甘えていたの。何も言わずにわかってもらおうなんて傲慢だった。
今はまだよくわからないけど、トゥーリの言う私の本音……自分が望んでいることがどこにあるのか、ちゃんと見つけ出して、向き合いたいと思う」
ソルエルがそう言うと、トゥーリは少し寂しそうに笑った。
「……ほんと言うとね、ソルエルに本物のキスの素晴らしさを知ってもらいたくて、わざと彼をたきつけたんだ。僕にはそれができないから」
トゥーリの言葉に、ソルエルは目を瞬かせる。
「それはどういう……」
「僕とのキスしか知らなければ、君はいつまでたっても本当のキスができないままだ。キスはね、本当はこんなものじゃないんだよ、もっと素敵な感覚をたくさんくれるものなんだよって、知ってほしかったんだ。
もちろん直接だと契約の効能も上がるというのもあるけど、これが僕の心からの本音だよ。信じる信じないは君の自由だけど」
トゥーリの話を聞いて、ソルエルはやっと、彼の一連の行動が腑に落ちたように思えた。
トゥーリは純粋に、ただソルエルを喜ばせようとしていただけなのだ。直接触れることができない自分の代わりに、ソルエルに本当のキスの心地よさを教えようとしていただけ。結果的にソルエルが傷ついてしまうことになるとは、彼の中では予想だにしていなかったことなのかもしれない。
トゥーリがソルエルに問いかけてきた。
「僕の手紙、結局読んだんでしょう?」
「読んだよ。読むに決まってる。あんなとんでもないことを書いておいて、ルビが私に知らせてこないはずがないじゃない」
「たしかに、彼一人では抱えきれないことだったかもね。でも、僕以外の人とも契約しておいたほうがいいっていうのは、本当に心からそう思ったことなんだ。だって、今後も僕がソルエルのそばにいられるって保証はどこにもないから」
「え……?」
驚いてソルエルは思わず聞き返していた。
「トゥーリ、一緒に来てくれるんじゃなかったの?」
「もちろん僕はそのつもりだけど、それができない事態になることもありうるってことだ。例えば重傷を負って実習をリタイアしたり、場合によっては命を落とすことだって、ないとも言い切れないだろう?」
「そ、そんな……。さすがにそんなことになったら、実習自体も中止になるんじゃ――」
「ならないね。この実習はそこまで甘いものじゃないよ。僕に限らず、誰にでもそうなる可能性があるってことは考慮しておくべきだろう。だからこそ、僕一人としか契約しないなんてことは君にとってリスクが大きすぎるんだよ。死は案外身近にあるものだよ。君だって、一時は不届き者に殺されかけたそうじゃないか」
たしかに、言われてみればその通りだった。いろいろなことがありすぎてもはや忘れかけていた事案だが、あれも立派に大事件だ。
トゥーリの言うことは、いつもすんなりとは受け入れがたいものばかりだが、後になって考えてみると、意外と理に適っていることも多かった。
そして、ソルエルはふとある考えに思い至る。
もしこのまま、魔法が順調に使いこなせるようになり、火だまりの問題も無事に解消することができたら、ひょっとして、自分もトゥーリと言葉を交わすことができなくなる日が来るのだろうか、と。
ソルエルは嫌な考えを振り払うように、トゥーリにすがるような目を向けた。すると、彼女の不安な気持ちを汲み取ったのか、トゥーリは優しく微笑んで、そっとソルエルを抱き寄せていた。
「ありがとう。おかげですっきりしたよ。ルビも早く戻って休んで。明日が辛くならないうちに」
「あ、ああ……」
やや拍子抜けしているルビだったが、同じくらいほっとしているようにも見えた。
彼はやや思うところがあったのか、ソルエルにこんな質問を投げかけていた。
「ソルエル、その……またあいつともするのか? さっきの契約」
「……さあ、どうかな。私にもよくわからないよ」
実際、本当に自分でもどうなるのかわからなかったので、正直にそう答えていた。
「そうか……そうだよな……。悪い、変なこと聞いた。じゃあ、俺もそろそろ寝るわ」
「うん、お休みなさい」
驚くほどあっさりとその場はおさまった。つい先ほど、あんな濃厚な口付けを交わした二人だというのが、嘘だったかのように。
ふいに、ソルエルの手から小さな火花が飛び散って、彼女の足元の草が燃え始めた。
「……もう、危ないな」
珍しく少し苛立つような口調で、ソルエルは独りごちた。足元で揺らぐ、今にも消え入りそうな小さな炎を見つめて思ったことは……。
(トゥーリでなくても魔法が出せた)
そんなふうに考えると、なぜか無性に悲しくなった。
自分の心の内がわからない。ルビとのキスは正直戸惑ったが、嫌悪感はなかった。
それどころか、トゥーリのときに味わった感覚に加えて、さらに肌と肌が直接触れ合うことの意味を知ってしまい、そのことのほうに焦りを覚えていた。本物のキスの感触が、あんなに心と身体を昂らせるものだとは思わなかったのだ。
しかし、友人のルビにそんなことを思うのは罪のようで、だからこそソルエルは、ルビの前では極力平静に振る舞った。
トゥーリは本音を大事にしろと言ったが、今回のキスで、ソルエルは掴みかけていたものがまたわからなくなってしまっていた。
自分はトゥーリのことが、異性として好きなのかもしれないと思っていた。だからトゥーリとのキスであんなにも幸せを感じ、その気持ちが魔法発動に至らせたのだと信じていた。
しかし、ルビとのキスでも魔力を解放することができるのなら、トゥーリに感じたあの気持ちも、もしかしたらただの勘違いだったのかもしれない。何もかもが初めてのことで、舞い上がって雰囲気に流されてしまっただけなのかも、と。
身体の変化に気持ちが追い付かず、頭の中がぐちゃぐちゃだ。ただ一つわかることと言えば、今自分はなぜかひどく傷ついて、悲しい気持ちになっているということだった。どうしてこんな気持ちになるのか、まるでわからない。
「火を放置するのは危ないよ」
目の前でくすぶっていた火が突然消え失せ、焦げた地面には霜が降りていた。季節外れの現象に、ソルエルは言葉もなく宙を見上げる。
空からふわりと舞い降りたのは、魔灯照明具を掲げた銀髪の美しい青年。
「トゥーリ……」
「どうだった? 彼とのキスは。魔力が抜けているところを見ると、まあまあ首尾よくいったようだね」
開口一番にそんなことを告げられて、ソルエルの中で何かが音を立てて崩れていった。言葉で言い表せない気持ちは、一つの現象となって身体に現れていた。
「泣いてるの? ソルエル」
「……泣いてないよ」
「嘘、泣いてるじゃないか」
「トゥーリには関係のないことだもの」
はっきりとそう口にしたソルエルを、トゥーリはさも不思議そうに見つめていた。
「彼とのキスが嫌だった?」
「違う」
「僕がいなくて寂しかったの?」
「違うよ」
「なら、相手が僕じゃなくても炎が出せたことに戸惑ってるんだ。そうでしょう?」
「もう、放っておいてよ」
ソルエルがぴしゃりと言い放つ。
「お願い、もう放っておいて。今頭の中がぐちゃぐちゃなの。自分でも自分のことがよくわからない。きっとまともな話なんてできないから」
「僕のしたことが、気に入らなかった?」
トゥーリが穏やかな口調で尋ねた。
「彼が僕たちのことでとやかく文句を言ってくるなら、いっそのこと彼も誘ってしまえばいいと思ったんだ。きっと彼は仲間に入れてもらえないことが嫌だったんだと思うし。
それに、僕と一対一で契約を交わすよりも、ソルエルの相手は複数いるほうが、魔力の波長パターンもいろいろ経験できて、魔力放出のやり方としても多様性を持つことに繋がるから」
一般的に、少女たちがキスに思い描くような空想的な甘言などは一切排除した、合理性の塊のような理屈を突き付けられた。
それでもやはり、ソルエルはトゥーリの言い分にすんなりと納得することはできなかった。
「だ、だからってあんな突飛なやり方……。少しは相談してくれても良かったんじゃないの?」
「相談したら、君は絶対僕に反対したに決まってるよ。君は自己犠牲の塊のような女の子だからね。自分の意にそぐわないことを健気に耐え忍ぶことはできても、関係ない他人を巻き添えにすることだけは絶対に嫌がるだろうと思った。
――まあそれでも、僕のやったことは君たちに発破をかけたに過ぎないんだけど。あの手紙に強制力なんかないもの。僕の案に便乗して実行に移したのは、あくまで君たち自身だ。君はなりふり構っていられないと言っていたね。だから、僕もその必死さに応えたまでだ」
それだけ言われてしまうと、ソルエルにはもう何も言い返すことはできなかった。ただ、理由のわからない涙が溢れてくるだけ。
「……僕のことが嫌いになった?」
少しだけ寂しそうに言われて、ソルエルは考え込む。正直なところ、よくわからない。トゥーリのことを嫌いになるとしても、理由も定かではない。裏切られたというのもまた違う話だ。彼は最初からソルエルのものではないのだから。
ただ、寂しいという気持ちが一番近いのかもしれない。トゥーリとキスをしたときの喜びは、トゥーリ自身も共有してくれているものだとばかり思っていた。けれども一連の彼の行動により、トゥーリはソルエルとのキスも、魔力放出のための手段としか捉えていなかったのだということが、はっきり突き付けられてしまった。
偉そうにルビにあんなことを言っておいて、本当はソルエルが一番、魔法契約だと割り切ることができないでいたのだ。
ソルエルが言葉もなく涙しているのを見て、さすがのトゥーリも罪悪感を植え付けられたようだった。
「ごめんよ、君がこんなに傷付くなんて思わなかったんだ」
「いいの。トゥーリは私のために動いてくれたんでしょう。ルビだってそう。私が勝手に訳もわからず泣いてるだけだから」
「嫌われついでに、もっと嫌われることを言ってしまおうかな。泣く、つまり感情を露にする行為もね、魔力を放出する練習に繋がるよ。君を泣かせた僕がこんなことを言うのはひどく無神経だけど、君が僕の前で涙を見せてくれるたびに、僕は嬉しいと思っている。
気を許していない相手には、君はきっと涙なんて見せないだろうからね。君はそういう女の子だ。君の気持ちをないがしろにしてしまってごめん。今後は気をつけるよ」
なかなかにとんでもないことを言われてあっけにとられてしまい、涙もいつの間にか引っ込んでいた。こんなことを言われると、泣いているのがなんだか馬鹿らしくなってきたのだ。
しかも素直に謝ってくるのがまた虫が良すぎるのだが、不思議と怒りも湧いてこないのは、彼に一切の悪気がなさそうに見えるからなのか。とんだ問題児だとあらためて思った。
「私のほうこそ、あなたを一方的に悪者にしてごめんなさい。きっと、トゥーリは私のことを全部わかってくれていると勝手に思い込んでしまっていたから、何も言わなくても伝わっているものだと甘えていたの。何も言わずにわかってもらおうなんて傲慢だった。
今はまだよくわからないけど、トゥーリの言う私の本音……自分が望んでいることがどこにあるのか、ちゃんと見つけ出して、向き合いたいと思う」
ソルエルがそう言うと、トゥーリは少し寂しそうに笑った。
「……ほんと言うとね、ソルエルに本物のキスの素晴らしさを知ってもらいたくて、わざと彼をたきつけたんだ。僕にはそれができないから」
トゥーリの言葉に、ソルエルは目を瞬かせる。
「それはどういう……」
「僕とのキスしか知らなければ、君はいつまでたっても本当のキスができないままだ。キスはね、本当はこんなものじゃないんだよ、もっと素敵な感覚をたくさんくれるものなんだよって、知ってほしかったんだ。
もちろん直接だと契約の効能も上がるというのもあるけど、これが僕の心からの本音だよ。信じる信じないは君の自由だけど」
トゥーリの話を聞いて、ソルエルはやっと、彼の一連の行動が腑に落ちたように思えた。
トゥーリは純粋に、ただソルエルを喜ばせようとしていただけなのだ。直接触れることができない自分の代わりに、ソルエルに本当のキスの心地よさを教えようとしていただけ。結果的にソルエルが傷ついてしまうことになるとは、彼の中では予想だにしていなかったことなのかもしれない。
トゥーリがソルエルに問いかけてきた。
「僕の手紙、結局読んだんでしょう?」
「読んだよ。読むに決まってる。あんなとんでもないことを書いておいて、ルビが私に知らせてこないはずがないじゃない」
「たしかに、彼一人では抱えきれないことだったかもね。でも、僕以外の人とも契約しておいたほうがいいっていうのは、本当に心からそう思ったことなんだ。だって、今後も僕がソルエルのそばにいられるって保証はどこにもないから」
「え……?」
驚いてソルエルは思わず聞き返していた。
「トゥーリ、一緒に来てくれるんじゃなかったの?」
「もちろん僕はそのつもりだけど、それができない事態になることもありうるってことだ。例えば重傷を負って実習をリタイアしたり、場合によっては命を落とすことだって、ないとも言い切れないだろう?」
「そ、そんな……。さすがにそんなことになったら、実習自体も中止になるんじゃ――」
「ならないね。この実習はそこまで甘いものじゃないよ。僕に限らず、誰にでもそうなる可能性があるってことは考慮しておくべきだろう。だからこそ、僕一人としか契約しないなんてことは君にとってリスクが大きすぎるんだよ。死は案外身近にあるものだよ。君だって、一時は不届き者に殺されかけたそうじゃないか」
たしかに、言われてみればその通りだった。いろいろなことがありすぎてもはや忘れかけていた事案だが、あれも立派に大事件だ。
トゥーリの言うことは、いつもすんなりとは受け入れがたいものばかりだが、後になって考えてみると、意外と理に適っていることも多かった。
そして、ソルエルはふとある考えに思い至る。
もしこのまま、魔法が順調に使いこなせるようになり、火だまりの問題も無事に解消することができたら、ひょっとして、自分もトゥーリと言葉を交わすことができなくなる日が来るのだろうか、と。
ソルエルは嫌な考えを振り払うように、トゥーリにすがるような目を向けた。すると、彼女の不安な気持ちを汲み取ったのか、トゥーリは優しく微笑んで、そっとソルエルを抱き寄せていた。
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