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夏の章 錯綜ロマンシング

彼の声には魔力がある

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 ソルエルがテントの中で目を覚ましたとき、もう灯りは必要ないほど外から光が入り込んでいた。妙に目が冴えてしまい、もう一度眠りにつくことはできそうになかった。

 外に出ると、空は白み始め薄明を迎えたところだった。眠そうに目をこすっていたルビに見張り番の交代を申し出ると、心底嬉しそうに礼を言って、彼は自分のテントへ休みに行った。

 ソルエルは、自分たちA班の三つのテントに隣接して建てられた雪小屋を見つめた。

 旅の荷物を何もかも失ったらしいトゥーリが、自分でテント代わりに建てたものだ。圧雪でできているらしいイグルーのようなドーム状の雪小屋は、意外なことに溶ける気配も一切なく、テントなどよりよほど頑丈そうな造りをしていた。今が夏だということをうっかり忘れてしまいそうなほど、季節はずれの代物だ。

 昨夜は話し合って、四人で固まって休むことになった。強力な仮想精獣ヴァイラスや、不届き者が再び夜間に襲ってくる可能性も十分考えられたためだ。
 トゥーリがこれに素直に応じたのは意外だったが、A班メンバーと共闘し交流を重ねたことで、彼なりに心境の変化があったのかもしれない。

 とにかく今最優先でやるべきなのは、昨夜の出来事をなんとか教師陣に報告するということだった。

 朝になれば、使い魔が一日分の食料の入った圧縮器キュービックを持ってやってくる。その際に、昨夜のうちにしたためた手紙を使い魔に持って帰ってもらおうという話になり、手紙は明け方から見張り番を担当するソルエルが預かることになった。

 人さらいが出ただけであれば、急ぎの報告をするまでもなかったかもしれない。しかし、最上級仮想精獣アンリミテッド・ヴァイラスが現れたともなれば話は別だ。トゥーリがあそこで助けに入らなければ、確実にA班三人の命はなかっただろう。

 ソルエルは、昨夜ヒュドラが現れた湖を眺めていた。湖はまだ、一面見事に凍ったままだ。

 ふと、そこに空から一羽のカラスが舞い降りた。カラスはソルエルを見つめて、何やら思わせぶりにちょんちょんと跳ねて近づいてきては、小首を傾げる仕草をする。明らかに人慣れしている様子だった。

「もしかして使い魔の子? 今日はずいぶんと早いんだね」

 ソルエルが手をこまねいて「おいで」と合図するが、カラスは一定の距離を保ちそれ以上近づこうとはしない。代わりに凍った湖面に、くわえていた圧縮器を転がしていた。

「あっ……! だめだよ、それ大事なものなんだから……!」

 まるでソルエルが困ることを知っていて、からかって遊ぶように、カラスは圧縮器を湖の上で転がしては、ソルエルの肝を冷やした。

 ソルエルは使い魔と接することがいまいち不得手だった。魔法が使えず自信が持てないことをすぐに見抜かれてしまうため、使い魔たちにはいつも舐められるのだ。

 人間よりも動物のほうがその辺りの判断はシビアで、彼らは相手によって、接し方も態度も露骨に変えてくる。そんな使い魔たちを御することは、ソルエルにとっては至難の業だった。

 やがてカラスは圧縮器を転がして遊ぶことにも飽きたのか、凍った湖面上に圧縮器を放置して、ソルエルに取りに来いと催促でもするように、また小首を傾げた。

「む、無理だよ、そんなとこまで行けない……。良い子だから、それを持ってこっちにおいで……――あっ……!」

 カラスはまるで彼女をあざ笑うかのように、圧縮器を湖面に置き去りにしたまま飛び立ってしまった。

「ちょ、ねえ、待って……戻ってきてー!」

 ソルエルの情けない声が空にむなしく響き渡る。あっという間に黒い鳥の姿は見えなくなってしまった。

 結局、教師陣へしたためた手紙も持たせることができずじまいで、それどころか、一日分の食料を受け取るという最低限の役目すらもこなせなかった。こんな失態、ルビとマイスになんと説明すれば良いというのか。

 せめて食料だけでもなんとか回収しなければ。自分だけではない、三人分の食料があの圧縮器の中には入っているのだ。

 ソルエルは、おそるおそる凍った湖の上を這い始めた。湖の透明度は非常に高く、内部で亀裂が入っている箇所までくっきり見通すことができたため、湖面上で凍結している部分の氷が思っていたよりも分厚いことを知った。ゆっくり慎重に進めばなんとかなるかもしれない。

 湖の底は非常に深いようで、水は澄んでいるのに底まで見通すことができない。それがとても恐ろしくはあったが、凍っていない氷の下では魚が泳ぎ回っている姿も見えて、なんとも言えない不思議な光景に息を呑んだ。こんな情けない状況でなければ、きっともっと心からこの景色に感動できたことだろう。

 湖面に這いつくばって、なんとか無事に圧縮器キュービックを手に入れると、ソルエルは心底ほっとしていた。

「よ、良かった……早く戻ろう……」

 四つん這いのままで方向転換し、もと来た湖畔を見やると、そこには先ほどまではいなかった人物がたたずんでいた。トゥーリだ。

 彼は珍しいものでも見つけたように、ソルエルをじっと見つめていた。それはそうだ。湖のど真ん中で四つん這いになっている者がいれば、ソルエルでも思わず凝視してしまうだろう。気まずいことこの上ない。こんな恥ずかしいところなど、誰にも見つからずに済ませてしまいたかったのに。

「お、おはよう……」

 ぎこちなく手を振ってみた。このときばかりは、恐怖よりも羞恥のほうが勝った瞬間だった。

 一つどころに留まったのがいけなかったのか、それとももともと脆弱な箇所だったのか。ソルエルの足場の氷が、何の前触れもなく突然割れた。

(え……?)

 何が起きたか理解する前に、彼女の下半身が恐ろしく冷たい水の中に吸い込まれていく。

 そのとき、自分に必死に手を伸ばすトゥーリの表情だけが妙にはっきりと脳裏に焼き付き、ソルエルにはまるでその瞬間だけ時が止まったかのように思えた。

「危ない!」

 トゥーリがそう叫んだような気がした。しかし、気のせいだったのかもしれない。たしか彼は口がきけなかったはずなのだ。

「――! つ、冷たいぃっ……」

 ソルエルは湖に沈む寸前のところで、トゥーリに湖面上へと引き上げられていた。あまりの恐怖と寒さで、ソルエルは状況を理解するまでにはしばらく時間を要した。

「わ、私……落ちて……。ありがとう、トゥーリ君……本気で溺れるところだった……」

 青ざめた顔でソルエルがトゥーリを見上げると、なぜかトゥーリのほうが血の気の引いたような顔をしていたので、ソルエルは自分が驚いていたことも忘れて、思わず彼に見入っていた。

「……ぁ……」

 トゥーリがおずおずしながら絞り出すような声を発した。かなり小さな声だったが、ソルエルの耳にははっきりと届いていた。

「あ、トゥーリ君、もしかして喋れるの……? さっきも『危ない』って言ってたよね。聞き間違いかな」

 ソルエルが何気なく口にした言葉に、トゥーリはアイスブルーの瞳をことさら大きく見開き、今度は唇をわななかせていた。何やら尋常ではない様子に、ソルエルはややたじろぐ。

「あ、あの、大丈夫? トゥーリ君……」

「き、君は……」

 トゥーリがおっかなびっくり声を出す。ソルエルはその声を聞いて、「ああ、やっぱり彼は喋れるのか」と一人考えていた。

「君は、僕の、声を、聞いても……」

「え……?」

「僕の声を聞いても……君は平気なの?」

 今度はとても流暢な話し方だった。あらためて聞いたトゥーリの声は、耳に心地の良い穏やかな低さをもっていた。

 ソルエルは聞かれたことの意味はよくわからなかったが、平気かと聞かれれば、「うん」と返すしかなかった。

「そうか……そうなんだ。大丈夫なんだね、本当に……」

 トゥーリはすぐにもすらすらと言葉を発し始めた。その様子は、まるで溢れる感情を抑えきれないと言わんばかりだ。

「あはっ。僕と喋っても何ともないんだ! 君って最高だね、ソルエル!」

 急に腰を掴まれて身体を高く持ち上げられる。まるで親が小さな子供にするのと同じように、ソルエルの身体を抱えながら、トゥーリは嬉しそうにくるくると湖面の上で回り続けた。

「ちょ、ちょっと降ろして、危ないからっ……! それにまた湖の中に落ちたりでもしたら……」

「大丈夫、この湖を凍らせたのは僕だよ。落ちるわけないじゃないか。もちろん、君のことも絶対落としたりしないから」

 トゥーリはそう言って、ソルエルを散々文字通り振り回した。彼はソルエルの体重をものともしていないかのように、彼女を軽々と抱き上げていた。
 昨夜の戦闘で、トゥーリが氷結魔法だけでなく風魔法も得意だということはよくわかったので、きっと今も風でソルエルを浮かせているのだろう。

 今までとのあまりのギャップに、ソルエルは終始戸惑っていた。

(トゥーリ君ってこんなキャラだっけ……それともこっちが本当の彼……?)

 トゥーリはやっとソルエルを氷上に降ろした。――かと思えば、今度は急に大粒の涙をぼろぼろとこぼし始めて、ソルエルは思わずぎょっとしていた。

「嬉しいな、君みたいな子がいるなんて。今までずっと、淋しくてたまらなかった。誰とも話をしてはいけなかったんだ。僕の声を聞くと、みんな凍り付いてしまうから」

「凍り付く……?」

 トゥーリは涙を拭いながらゆっくりと話し始めた。

「僕と話ができるのは、学園長先生だけなんだ。強い魔力を持つ人でないと、僕の声とともに放たれる魔力に耐えきれず凍ってしまう。だから、誰とも言葉を交わさないって条件でこの学園に置いてもらっていた。
前はこんなんじゃなかったんだけど、知らないあいだにどんどん魔力が強くなっていて、それで――……。だからわざと人を避けていた。仲良くなって誰かを傷つけてしまうのは怖かったから」

「そう、だったの……」

 本当にあるのだろうか、そんなことが現実に。
 ソルエルは思わず出かかった猜疑の言葉を飲み込んだ。こんなにも自分と話ができたことを喜んでくれているトゥーリを、面と向かって疑うには気が引けてしまったのだ。

 それに何の根拠もなかったが、トゥーリが嘘を言っているとはどうしても思えなかった。
 魔法に関してはまだ理論として解明されていないことも多くある。ここはあれこれ考えるよりも先に、まずはトゥーリの言葉を一度信じてみようと思った。

「トゥーリ君、ずっと一人で辛かったんだね」

「ソルエル、僕の気持ちをわかってくれるの?」

「いえ、わかるかどうかなんて……。でも誰とも話ができないって、考えただけですごく辛いことだもの。知らない学校に来たばかりなのに、その上誰とも話しちゃいけないなんて、そんな心細いことってないと思ったから」

「ソルエルは優しいね。ねえ、ソルエルってすごく良い名前だ。何度でも呼びたくなるよ、ソルエル、ソルエル」

 トゥーリが遠慮なしに自分の名前を何度も口にするので、ソルエルは無性に恥ずかしくなって俯いた。
異性に自身の名前を、しかも嬉しそうに何度も連呼されるのは、非常にむずがゆいものがある。

 トゥーリの声には強い魔力がある、というのは本当なのかもしれない。なぜなら、トゥーリに名前を呼ばれるだけで、聞き慣れた自分の名ですらも、何か特別なもののように聞こえてくるからだ。

「ソルエル、踊るのは好き?」

「え……」

 トゥーリはいつだって唐突だ。彼はソルエルの返事も待たずに、彼女の靴底の部分だけを凍らせていた。そして、ソルエルの手を取り腰に優しく手を添えると、凍った湖面をゆっくりと滑り始めていた。
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